その一
本作品は古典文学作品『はいずみ』の翻案小説です。
毎度、馬鹿馬鹿しい、お噺を一席。
古い歌に「憂きふしを 心ひとつに 数へきて こや君が手を 別るべきをり【(あなたの浮気によって)悲しくなった時のことを、胸の中で数えてきましたが、今はあなたと(手を切り・手を噛み)別れるべき時なのでしょうか】なんていう物がございますように、かつては互いを頼りと睦み合い、将来を共に過ごそうかという方々も、男女の仲の難しさに別れることもあられようかとなる御方もあるかと存じます。
これからいたしますお噺は、そんな慕情の縺れによって別離の危機に陥る男女に纏わるお話でございます。
その前に一言、申し添えさせていただきますが、在りし日の“浮気”とは、現在とは事情が異なりまして、現在の倫理観に照らし単純に“不貞行為”として断ぜざる物ではなきかと存じます。
今は昔。と申しますと昔々のそのまた昔、今からおよそ千年昔。花の都はとある処。蝶を愛ずるという姫君が住んでおられるお邸の、その傍らのお邸にある按察使の大納言の姫君━━“虫愛ずる姫君”━━の住み給うお邸の一室で“虫愛ずる姫君”と堤中納言様という御方が、几帳越しに対面をしておられました。
この堤中納言様とは、人品骨柄卑しからずと言った体なのでございますが、一体何者なのかは誰も御存知ありません。その行動は神出鬼没にして、予測不可能とも思われ、宮中に参内している姿を見かけても、いかなる仕事をしているのか誰も知らず、余人から直接に堤中納言に何者かと問われますと、いつでものらりくらりと話を逸らされてしまい。話の仕舞いには問うた本人でさえ、自分が最初に何を尋ねようとしたのか忘れてしまう始末。ただ、堤中納言様と語られた御方は皆、気分を害されることはなく、それどころか何だか楽しい気持ちになるのが常でございました。何はともあれ堤中納言様を敵視する者はなく、周囲から好感を以て迎えられておられました。
また堤中納言様は物語を頗る好み、「話上手の聞き上手」でございまして、それが故に堤中納言様と知己を得た御方は、出会う度に自らの周りの身に起きた珍しく面白げな話をお聞かせようとし、また堤中納言様のお口から珍しく面白げな話を聞こうといたしました。そのような訳で堤中納言様は洛中における珍談奇談のうち知らない物は何一つとしてないと、もっぱらの御噂でございました。
この堤中納言様は“虫愛ずる姫君”の御父上であられます按察使の大納言様の御友人でございまして、時折フラリとした調子で、その御邸を訪ない、また“虫愛ずる姫君”とも親しく語らっておられました。
所が、按察使の大納言様もいつ自分が堤中納言様とお知り合いになられたのか、どうしても思い出せませなんだ。それこそいつの間にか堤中納言様の傍らにいて、いつの間にか友人になったという事しか思い出せません。これは、堤中納言様を知る全ての者がそうだと言うのですから不思議な話でございます。
堤中納言様に、いつ自分と知り合ったのかと問う御方があられましても、その返答はいつも「自分でも忘れてしまったが、その様なことなど些末なことではないか」と言った案配でございました。
そんな堤中納言様が、挨拶も早々に“虫愛ずる姫君”と自らを隔てている。几帳に面して座していると、“虫愛ずる姫君”が周囲の女房衆や小舎人童にその部屋から去り、暫時、堤中納言様と二人きりにするようお命じになられました。
「これは、姫君どうしたわけですかな、私と二人きりになりたいとは、常ならぬ御様子」と、堤中納言様。
「実は……、堤中納言様のお話をお聞きしたいと思いまして……」“虫愛ずる姫君”のその声は、日頃に似ぬ細い調子で歯切れの悪い物でございました。
「何と、それならば何と言うことはない。いつものようにお話しをして進ぜましょう。確か姫君は『蜂飼いの大臣』などのようなお話しがお好きでしたな」
「それは、そうなのですけれど、今回は違った種類のお話を聞きたく存じます」
「違った種類の話を御所望とな、これは異なこともあったものですな。して、如何様な話をお耳に入れればよろしいのでしょうか?」
「それは……、その……、人の慕情などに纏わる物語などを一つ妾に語ってはいただけませぬか? ……何しろ、恥ずかしながら妾はその方面にはとんと疎い物でございますから……」今度は更に消え入りそうに恥ずかしげな声で姫君が仰せになられました。
「ふうむ。なるほど、そうとなればよろしいでしょう。一つそちらの話をしてみましょう。時に姫君、先だって催された“貝合わせ”の席にお化粧を施されて、臨んだそうですな?」
当時の貴族女性のお化粧と申します物は、白粉で顔面を白く塗り、眉毛を抜いて眉墨(掃墨)で黒く眉毛を描き、唇に紅を差すという物でございました。
「そうですが、それが如何いたしましたでございましょうか」
「いや、私もその話を小耳に挟んだのですが、皆一様に姫君のお美しさを褒め称えておりましたよ」
「そのような、お言葉は有り難くは存じますが、妾などには過分にして、無用な物かと存じます。それに妾は人は何であれ自然のままがよろしきかと存じます」
「それそれ、多分姫君は私に慕情に纏わる話を所望せし時に顔を赤らめて、おいでではありませんでしたか? そのような様子を悟られぬためにも、お化粧などは便利だと思いますがな」
“虫愛ずる姫君”はこの堤中納言様のお言葉を聞いて、胸を指先で軽く突かれたかのような心持ちになりました。なぜならば、確かに先の言葉を口にする際に、化粧を施していない顔に、自らそれと分かるほど顔を火照らせていたからでございます。
「それと、これからなされようとされるお話と如何ような関係がございますのでしょうか?」
「まあまあ、まずは少し話をお聞き下さい。姫君が常日頃より仰られる通り、『世の人々が、花や蝶などの見目麗きもののみを愛でるのは浅はかで悪しきことです。人には真があり、真実を求めんとする心こそが尊いのです』と言う言葉は、なるほど、尤もな道理ではありますが、人はうつつ身一つのまま天然自然の中に身を置き、季節の移ろいゆく中で、時の流るるがままに過ごすというのは、それもまた楽しくもありましょうが、また空しくもあろうかと思います。また、姫君は『毛虫が蝶となるように、全てのことは元を辿り、行く末を見届けてこそ、その真価を理解することができるのです』と仰せになられますが、毛虫が蝶となり、身を装うのもまた自然の理。蝶となったその後は雌雄合い求め睦まじう仲となるのも、また自然の理でないかと思います」
「畏れながら申し上げます。妾は神仏の御前にして恥ずかしき言行をしてはなきかと存じます」姫君は堤中納言様の言葉に何か打ち響く物があるかのようにお答えになられました。
「さて、まあ。そういうこともあろうかというだけの話です。年若き人に説教めいたことを言うのは、年寄りの常とくらいに思っていただいて結構です」
「年寄りなどと、中納言様はまだお若いではございませんか」そうと申しながらも、姫君は堤中納言様が一体齢幾つくらいなのか分からず、不思議な心持ちになられました。
堤中納言は、その姫君の言葉に何かを曖昧にするような涼やかな笑い声で答えてから、「さて、それでは姫君の御期待に添えられるかどうかは、分かりかねますが、一つ少しばかり話をしましょう」と仰せになられました。