右馬の佐と
右馬の佐は笑みを浮かべながら、その手紙を一見すると「なるほど“よらぬ”に“縒らぬ”と、“寄らぬ”を掛けているわけか、それに“縒る”と“乱る”は青柳の縁語だな。なかなかに才学のありそうな女人のようだ」と侍に申しました。
侍は右馬の佐に隠していた手紙を読まれてしまったことに気まずさを覚え「そのようでございますな」と言葉少なに答えます。
「それに、なかなかの達筆ぶりだが、何だか筆跡に見覚えがある気がする。この手紙を書いたの女人は誰ぞ?」
「畏れ多いことではございますが、その者の事は私の胸の裡に秘めさせていただきとうございます」
この言葉を聞くと右馬の佐は急に顔から笑みを消し、わざとらしく怒ったような表情を浮かべると「何だと、我が家に仕える身にありながら、私に隠しだてをするとはけしからぬ奴め、無礼にして不遜、全く以て不届きな。こうとなれば、私自らがお前に仕置きを加えてくれよう」と申しました。
侍がギクリとして表情を強張らせる、逆に右馬の佐の方は再び子供っぽく笑いながら体の大きな子供が大人に、じゃれつくように侍に飛びつくと、侍の身体のあちこちを、つねったりひねったりくすぐったりしながら「申せよ。申せよ」などと笑いながら尋問をいたしました。
侍の方も流石に身分が違うだけに抵抗をする事ができず、身体を右馬の佐の思うがままにさせておりましたが、あまりのくすぐったさに思わず大声で笑い声をあげてしまい、右馬の佐の攻撃が緩まった隙に「申します。申します」と観念したかの如く申しました。
侍は笑い声で乱れた息を整えますと「その手紙は大納言様のお邸に奉公する女房からの物でございます」と申しました。
「大納言家と申すと、どこな大納言家だ?」
「按察使の大納言様のお邸でございます」
“按察使の大納言”と聞きますと、途端に右馬の佐の顔から子供っぽい感情からくる笑いが消え、急に大人びた眉目秀麗とも評されるような顔へ変じました。
「この歌に“風”とあるが、これは“仲立ちをした者”と言う事だな」
「はい」
「その者はこの邸の者か?」
「はい」
「よろしい。さなればその者を伴って後程私の部屋に来い。少し事情を聞きたい」
普段より滅多に見せる事のない、右馬の佐の静かで真摯な態度に、侍はやや狼狽えながらも例の小舎人童を連れて右馬の佐の前へと出ました。
右馬の佐は緊張しているかの如き二人の姿を見るなり「何故に、そう怯えているのだ」と二人に優しく問いかけました。
「いえ、右の佐様のいつにない御様子。我々はお叱りを受けるのではないかと思い恐縮をしているのでございます」と侍が申しました。
「そうか? 自分では気がつかぬとも他者からはそう見えるのかもしれないな。だが、私は何も怒ってはいないし、叱るつもりもない。ただこれまでの成り行きや事情を聞きたいだけだ。ただ虚言を弄して私を謀らんとすれば、その時は怒りもし、叱りもしよう。ならば有り体に申せよ」と静かに申します。
その言葉を聞くと、小舎人童はやや緊張しながら、加茂の祭りの日に、自らの想い人たる女の童に出会った事から始めて、今まであった事を正直に申し上げました。
その話を聞き終えた右の佐は、「何はともあれ息災のようだ」と思いますと、内心に貝合わせの日以来、訪れていない世の常ならぬ“虫愛ずる姫君”を消息する口実を自分の中に見出そうといたしました。
そして侍に「葵祭りが繋いだ縁だ。いつも同じ事の繰り返しならば、その女房に篤心を以て好誼を結ぶべく努めよ。何かの頼りになるかも知れぬ」と命じると侍は平伏してその命を受け、小舎人童には優しく微笑みながら労りの言葉と、その女房との仲を言祝ぎ、それに対して小舎人童も平伏して御礼を申し上げました。
右馬の佐は二人を部屋から去らせると、最後に貝合わせの日に見た“虫愛ずる姫君”の化粧を施した美しい御顔と優美な所作を思い出しておりました。
その時、右馬の佐が“虫愛ずる姫君”から感じた印象は謂わば幽玄の美とでも申しました物でございまして、そこから何か姫君の御心の裡の深遠さを思わせる所がございました。しかし同時にその美しさにどこか儚さを思わせる所があり、まるで軽く触れれば砕ける薄氷の如き儚い印象を右の佐の心の裡に彫り付けたのでございました。
もしや自分が、あの姫君に触れよう物なら壊れゆくのではないかとの思いが、我知らず右馬の佐の心を臆病にしていたのでございます。
それ故に、あれ以来“虫愛ずる姫君”の許を訪ねる事もなく、消息することもせず人に知られず一人煩悶しておりました。
「ありと見て 手にはとられず 見ればまた 行方も知らず 消えし蜻蛉【目の前に見えていたのに、手に取る事すらできず、また見えたかと思えば行方も知れずに消えてしまった。まるで蜻蛉[陽炎]のような(姫)であった(私達の縁はあるかなきかのはかない物だったのだろうか)】」と一人で古い歌を口にすると、我が身さえも儚く思えてきて“虫愛ずる姫君”に向けて認めんとする筆すらも動かす事ができませんでした。
「いかなる心の乱れにあるのだろう」と、既に空に登った月にいつか“虫愛ずる姫君”の許へ訪なった日の有明の月を思い、姫君の持つ“動の美”と“静の美”を月の満ち欠けに重ね。
「因縁奇縁か偶然か。いかなる事で“虫愛ずる姫君”などを想うようになったのか」と思い、右馬の佐は深く溜め息をつきました。
「松虫の 声を訪ねて 来つれども また萩原の 露に惑ひぬ【松虫の鳴き声を辿って、ここまで来ましたが、また萩の原の露に迷ってしまいました】」
はい、ご退屈様。
本作品を読んでいただいた方、誠にありがとうございました。
続編を書くつもりはなかったのですが、色々と思うところがあり、書いてみました。
この続編を書くつもりは現在のところないので、とりあえず完結と設定させていただきました。それでも前回『虫合わせ』を書いたときも同じように考えて完結設定にしたので、どうなるかわかりません。