“虫愛ずる姫君”と
花の都はとある処。蝶を愛ずるという姫君が住んでおられるお邸の、その傍らのお邸にある按察使の大納言の姫君━━“虫愛ずる姫君”の住み給うお邸でございます。
この“虫愛ずる姫君”先だって催された、貝合わせの際に化粧を施した美しい御姿と用意された洲浜に彩るように置かれた金銀を誂えた美しく珍しい貝の数々を披露し、列席した者をして「美しい貝の数々も素晴らしいですが、姫君の美しさもそれに劣らぬどころか、勝っているかのようです」「美しい貝も良いですが、それすらも姫君の美しさを際立てるための道具のようにすら見えます」などと評され、中でも相手方の“蝶愛ずる姫君”が最もその御姿の美しさ優美な所作に驚き、また安堵の笑みを浮かべておりました。
何しろ“蝶愛ずる姫君”は、この前日にこのお邸をお訊ねになった際に、“虫愛ずる姫君”が「化粧もせず、貝も有り合わせの物だけ用意して貝合わせの席に臨む」などと宣っておりました物ですから、そのような事態になった時に、どのような侮蔑の言葉が“虫愛ずる姫君”に投げかけられるのかと、日頃より妹のように思っていた“虫愛ずる姫君”の事を思って気が気ではございませんでした。
この二人の衣通姫とでも形容されるような姫君たちによって行われた貝合わせによって大納言家は大いに面目を施したのですが、次の日になると“虫愛ずる姫君”はやはり化粧をすることを拒みました。
相変わらず白粉もつけず、眉墨も書かず、お歯黒にたいしましてはお馴染みの「うるさし、きたなし」などと言いまして、その上更に「昨日、眉墨を塗るために眉毛を剃ったものですから、何だか顔が寒い気がするわ。本当に毛虫の姿が羨ましいです」なんぞと宣いましては卑しい身分の幼い男の童たちと虫を求めて庭で遊び回っておられました。
何しろ按察使の大納言様はもとより、北の方(母君)様の御実家も高家として、それなりの権勢を誇っておられましたので、お邸も豪華な作りとなっております。となるとそれに伴い庭も広く姫君が遊ぶ場所に困るこということはあられません。
しかしながら、通常邸内を彩る筈の美しい宝物が納められている籠箱の中には、姫君のお気に入りの虫どもが飼われておりました。そんな中で先日貝合わせにて、用いられた美しい貝の数々が置かれている洲浜だけが、姫君の部屋の傍らに恭しく置かれておりました。ですがその美しい貝の数々が周囲の醜い虫どもとのコントラストによって、常人には異様と感じられるような有り様でございました。
以下に記しますのは、そんな姫君と北の方様とで交わされた、ある会話でございます。
「姫や何故に、化粧をせぬのですか?」
「以前にも申し上げました通り妾は虚飾を以て自らの姿を偽ることは好みません」
「しかし、姫や先日の貝合わせの際には化粧をしたではありませんか」
「それは、あの洲浜が誰ともなく置かれてあったからです。妾はあれを御仏の思し召しと思い、それに応えようとしたのでございます」
「ですが、あの洲浜は誰か姫のことを想っている誰かが置いた物ではないでしょうか?」北の方様も言いながら、そんな奇特な御仁があられるのかと疑いを持っておられました。実際、あの貝合わせの一件以降“虫愛ずる姫君”に対して、何の接触も試みようとする者は一切あられませなんだ。
「人の手によって、あの洲浜を置かれたのだとしても、あのような際に、あのようなことが起こりましたのは御仏の御慈悲に相違なきかと存じます。なれば御仏の御手を振り払うことなどと畏れ多い事など出来ようはずもなく、妾も僭越ながらその御慈悲に懸命に報いようと思ったまででございます」
姫君が意図的にそうしているのか判断がつきかねますが、何だか論点がズレているような気がいたします。
そんな訳でこの日も北の方様はそれ以上この話題について言葉を継ぐことができませんでした。
北の方様は姫君を心配し「どうしたものでしょう。あのような見事な洲浜を送ることができるような方ならば、きっとご立派な方に違いないはずです。その様な方に姫の許に通って頂ければ良いのですが、あれ以来何の音沙汰もありません」などと思っておられました。
まあ、一見“虫愛ずる姫君”の方は相変わらぬ御様子と思われるのですが、以前とは僅かに異なり時折一人で思い耽るかの如き御様子を見せ、時には何を思ってかその桜の花片を思わせる可愛らしい唇の隙間から、小く溜め息をこぼすようになっておられました。