虫合わせ5
“蝶愛ずる姫君”も立ち去り、誰もいなくなった部屋に取り残されたように、ぽつねんと座していた“虫愛ずる姫君”は、部屋に訪れた沈黙の中で、自分の心の中から聞こえてくる自らの声に苛まれておりました。
確かに、先ほど北の方(母君)様や“蝶愛ずる姫君”との間で取り交わされました問答に於いて御自身が述べたお言葉が、決して誤りであったとは思いません。
しかし、実の事を申しますと、“虫愛ずる姫君”は北の方様や“蝶愛ずる姫君”様方に言われるまでもなく、誰よりも自らの姿を装いたいお気持ちでおられました。
それというのも、先日、右馬の佐に自らの素顔を垣間見られた時の事を思い出します度に、今でも我知らず羞恥心で頬が火照るが如き感覚を覚えるからでございます。
それでもなお、未だに自らに化粧を施すのを拒んでおりますのは、何よりも自らが大人っぽく装った姿が、周囲から滑稽に見られはしまいかと不安だったからなのでございます。
以前より、自分が周囲から毛虫に例えられていることはご存知でございました。
あの垣間見の一件以前の“虫愛ずる姫君”は他者が自分をどのように評しようとも決して意に介することはございませんでした。
ところが、あの一件以来、どうしても周囲からの評価が気になって仕方がございません。
今もこのように部屋に黙座しているだけで、化粧を施していない自らの身が恥ずかしく感じられます。
しかし、周囲からの言葉を鑑みてみますと毛虫に例えられるような自分が、どのように身を飾ろうとも決して美しかろうはずがないと思われ、それだけではなく、もしも身を飾ろうものなら、その姿は身を飾っていない時よりも、なお一層、醜い姿として周囲の眼に写るのではないだろうかという不安──というよりも、むしろ恐怖にも近い気持ちから、化粧を拒んでいたのでございました。
そのような感情に駆られ、曇った眼で見る“蝶愛ずる姫君”の輝かんばかりの優美な姿は、今までとは異なり思わず妬みを覚えてしまいまして、自分にかけられる“蝶愛ずる姫君”からの優しいお言葉の一つ一つが我が身を針で刺されるかの如く鋭い痛みを伴っているかのように感じられて素直には聞けず、自分の心中に生じる醜い感情を自覚しながらも、それを抑えることができずに、我知らずそのお言葉は攻撃的な響きを帯びてしまいます。
そのため、こうして一人でいる時には必ず感情の赴くままに発した言葉にによって相手を傷つけたことを後悔して、自己嫌悪の念に囚われてしまうのでございました。
自分でも説明できない感情によって、自分を見失ってしまったと思った“虫愛めずる姫君”は、その感情から逃れるために、例によって、自分の行いを正当化する理屈を用いました。
「自らの美醜を他者によって判定されることを不安に思っているのではありません。もしもここで周囲の声に従って自らの身を繕ろわば、今までに自分が述べてきた言葉が嘘になってしまいます。その事こそが本当に恐ろしいのです。それ故にこそ、化粧もせず、他家から取り寄せた貝も貝合わせの場に用いず、日頃から言っているように嘘偽りのない自分本来の姿を晒さなければならないのです」と自らに言い聞かせました。
しかし、“虫愛ずる姫君”は自らを守るためのその理屈自体によって、結果的に自縄自縛の状態に陥っていることに気がついてはおられませんでした。
“虫愛ずる姫君”は、部屋に置かれたままになっていた空の籠箱を見つめながら、以前、籠箱の中に入れて飼っておりました一匹の毛虫のことを思い出しました。
その毛虫も今は既に蝶となり、外に解き放たれて主を失った籠箱は空のままとなってしまいました。
もしも、自分が周囲の者が評するが如く、本当に毛虫であったのであれば、いつか蝶となることもできたであろうに、それが叶わないにしても、周囲から“虫愛ずる姫君”と嘲りを含んだ呼称を以もって呼ばれても、決して動じることなく自らの思うままに振る舞うことができた過去の自分に戻れれば良いのにと願いました。
拭ぬぐえば、その度毎に湧き上がってくる醜い感情が、また自らを醜いと思う確証となって“虫愛ずる姫君”を更なる自己嫌悪へと陥らせました。
“虫愛ずる姫君”は不意に、自らがひどく惨めで汚わしい存在だという思いが頭に浮かびますと、それからは途端に、様々な暗い感情がないまぜになって内面に渦巻き、自分でも自分がわからなくなったような不安に脅やかされて、自分の体を自分の意思で支えることができないほどに、訳もわからずに悲しくなり湧き上がる感情のままに、込み上げてきた涙で着物の袖を濡らしました。
この様子を、遠巻きにして窺っておりました先ほどの、けらをと同年代らしく見える、複数名の、けらをを含めた童達は、悲嘆にくれたように見える“虫愛ずる姫君”の様子を見て取りますと、単純にこのままでは勝機のない明日の貝合わせの勝敗を憂れいているのだと思いました。
そこでしばらくの間、童達皆で対策を講ずるために小声で何やらしばらく話合っておりましたが、しばらくすると談判がまとまったらしく顔を上げました。
そして、その中の一人の女めの童わらわが「明日の貝合わせの勝ちを願うために、皆で西方(西方浄土)に向けてお祈りをしましょう」と言うと、その場にいた童達は丁度、右馬の佐が潜んでいる西の妻戸に向かい「私の母様がいつもお祈りしている仏様。どうか、私どものお仕えしております姫君を負けさせないでください」と祈りを捧げました。