虫合わせ3
承香殿
藤壺ともいう。内裏後宮の建物や一角の名称。中宮、女御、更衣などが局を構えていた。
右馬の佐が、隙間より邸内の様子を見てみますと、明日の貝合わせの準備に余念がないらしく、女房衆と先程のけらをと同じくらいの年の童達が十二、三人入り交じって、各々手に持っていた貝を小箱に収めると、それに蓋をしたりなどして、皆忙しげに行きつ戻りつなどしながら騒がしげにしておりました。
そんな中にあって、母屋の簾に沿って立てられている几帳の端を上げて身を乗り出し、部屋にいる者達の様子を眺めている“虫愛ずる姫君”がおられました。
ところが、“虫愛ずる姫君”の相変わらず化粧っ気のないその顔の表情からは、以前垣間見たときのような溌剌とした生気は感じられず、何やら物憂げな様子で頬杖をついておられます。
額髪のかかっている顔は憂いの色を帯び、表情はどことなく大人びていて、それが右馬の佐にはこの世の者とも思えないほどに美しく思えました。
しかし、それだけに今の大人びた表情は以前感じた幼い印象の時よりも、なお一層化粧を施していない顔を不自然に際立たせておりました。
予想だにしていなかった“虫愛ずる姫君”の鬱々とした様子を見た右馬の佐は「どうしたのだろう?」と心配になりますと、「心苦し」と胸の奥を爪で引っ掻かれたかのような痛みを覚えました。
すると、“虫愛ずる姫君”が座したる部屋へ姫君の母君──北の方(母君)──と覚しき美しい妙齢の女性と、その後について歩いて参りました、硯の箱よりもやや小さいくらいの見事な紫檀の箱を持った、女房がやって参りました。
北の方様は紫檀の箱の中に入っていた貝を姫君に見せますと、「心当たりのあるところは全て探しました。承香殿の御方のところに当たりましてお願いをいたしましたら、これをいただけましたが、待従の君の語るところによれば、お隣の家の女房は『藤壺の君より、たくさん貝をいただいた』と言っていたそうです。その上、思いつく限りのところを探して大層余裕のある様子だそうです」と申されました。
すると“虫愛ずる姫君”は何かにこだわるところがあるかのように軽く唇を噛みしめますと、北の方様に向かいまして「母君のお心は大変嬉しく思いますが、他家を回ってのそのようなお気遣いは御無用のことと申し上げたではございませんか。私はお隣の“蝶愛ずる姫君”と『あらかじめ、他所に貝を求めるのはやめておきましょう』と約束をしたのです」と申されました。
「しかし、姫や。嘘にも方便というものがあるように、そういった約束事にはある程度の融通をきかせる余地というものがあるのですよ。現にお隣では大がかりに、つてを頼って貝を集めているというではありませんか」
「他家はどうあれ、私はそのようなことは好みません」
「それに女房より聞いた話では、姫は明日の貝合わせの座に化粧もせずに臨むというではありませんか」
そう言って北の方様は助けを乞うように、ちらりと一度、箱を持って傍らに侍っていた女房を見ました。
「貝合わせの座には他家のお客人方もお見えになられるのですよ。それなのに大納言家の姫が化粧もせずに人前に出るなどと我が家の面目が立ちません」
「畏れながら申し上げます。偽りや虚飾を用いて施される面目になど、いかほどの価がございましょうや。それよりも、偽らざる姿を衆目に晒し、廉潔なるを以て家門の誉れとするに如くはなきかと存じます」
──全く、困ったお姫様でございます。
何分、現在のように情報機関の発達していない時分のことでございますから、このような貝合わせなどが催される場は、そこに集っていた方々の口から姫君などの噂を伝播していただき、その評判を洛中に喧伝するという目的等もございました。
特にこの“虫愛ずる姫君”の場合には日頃から人々の口の端に囁かれる噂が決して芳しいものではないということは北の方(母君)様も重々承知をしておられます。
だからこそ明日の貝合わせの場において人々の前に美しく装った姫君の姿を見せることができれば、世に流伝せる“虫愛ずる姫君”の悪評をいくらかでも払拭することができるかもしれない、というのが北の方様の親心からくる思惑でございました。
確かに姫君が明日の貝合わせの座において、自らに化粧を施すことを拒んでいるということは、女房づてに耳にはしておられましたが、今までにもこのような、──貴族女性の成人式とでもいったような──裳着などの儀礼的な場におきましては、周囲の言葉に不承不承ながらも、了承をしておられましたものですから、今回も最後には我を折ってこちらに従うだろうと思っておられたのですが、今回ばかりはいつにない意固地なまでの頑なさで、北の方様方の言葉に従おうとはいたしません。
そして、そのことについて姫君を説き伏せようとしようものなら、先程のような調子で反駁して取り付くしまもございません。
その上、姫君の態度も一見はいつものように泰然としておられますが、その言葉の端々には、親しい家族にだけにわかるような、かすかな不機嫌さや苛立ちさえも滲ませておられます。
更には、姫君は社交辞令とも言える他愛のない約束を盾に取って集めた貝さえも貝合わせに使わないと申しておられます。
そのようなことになれば、姫君のみならず、大納言家までもが、自らの姫君のために碌な貝も用意することができないのかと言われてしまいます。
この時代、このような催しの場には自家に秘蔵せる品々を客人に披露することによって、自らの権勢を周囲に誇示するという目的もございました。
もしも、それができないとなれば、その家は貴族としての面目を大いに失うことになります。
故に、このような遊戯を催す上級貴族の家では有らん限りの、つてを頼って出来得る限り最高の物を取り揃えるのが常でございました。
このように他家から貝などを譲ってもらうことができるのも、その家に豊かな人脈がございませなんだら、無理な話でございましたので、それも含めてこのような遊戯には貴族としての威信が賭けられることも多かったらしいのでございます。
もしも、この大納言様の姫君が世の姫君と御同様の嗜好の持ち主であったのであれば、北の方様としてもこのように他家から幾らかの貝を用立てるなどということもせずに済んだはずでございます。
何しろ、通常であるならば、世の様々な“みめをかしき”物が収められているはずの上級貴族の姫君の籠箱でございますが、この“虫愛ずる姫君”の所有せる籠箱には種々様々の虫が収められているのでございますから、自然、貝合わせには自家に蔵したる北の方様の貝を使わざるを得ず、このような催しに臨むに当たっては、上記のような苦労をせねばなりません。
このままでは、“虫愛ずる姫君”は裳着を済ませた十代半ばの結婚適齢期にある女性でありながら、貝合わせの場に列した貴族様方のいい笑い種ぐさの見せ物となり、相手方の“蝶愛ずる姫君”の格好の引き立て役の道化となってしまいます。