虫合わせ2
右馬の佐は庭の一角に群生していた薄の中に身を身を潜めて、隠れながら邸内の様子を窺うことにいたしました。
しばらくすると、どこぞより先日この邸を訪れた際に見かけた、けらをという八、九歳くらいの男の童がこちらに向かって、小さい貝を入れた瑠璃色の壺を持って何やら慌ただしげに走ってくるのを見つけました。
右馬の佐が「おやっ」と思って見ておりましたが、けらをは右馬の佐の潜んでいる薄の前まで来ると、群生している薄からはみ出している直衣の袖を見つけたようでして、急に立ち止まりますと、「こんなところに誰かいるぞ」と見たままをそのまま口に出して言いました。
この声を聞いた右馬の佐は、誰か他の者に今の声を聞かれはしなかったかと狼狽しながら、用心深く辺り見回し、「お静かに願います」と慇懃な口調でけらをを宥めるように言い、更に「私は、少しこちらにお尋ねしたいことがあって、忍んで参った者です。こちらにお寄りください」と言いました。
けらをは右馬の佐の言葉を寸毫も疑う様子も見せずに「明日のことを思いますと、今はこうしてはいられないのです」と答えますと、今にもどこぞへと駆け出して行きそうな様子を見せました。
右馬の佐は更に興味をそそられますと、「何をそんなに忙しくしているのだい? もしも私を信頼して事情を聞かせてくれるのならば、何かお力添えできることがあるかもしれないよ」と言いました。
そう聞くと、けらをは行きかけた足を止めて立ち止まり「実は、私どものお仕えしている姫君が、お隣に住む“蝶愛ずる姫君”と貝合わせを行うことになりましたので、この一月というもの方々のつてを頼って、貝を取り寄せているのですが、お隣のお宅のほうでも、女房衆などが貝合わせをすることを吹聴して、多くの貝を取り寄せているのです。ところが、こちらの姫君はこのような行いを嫌って貝合わせの席には北の方(母君)様が蔵する貝のみを用いると仰っているのです。それでも私どもは北の方様の命でこうして貝を集めているのです。今も北の方様が懇意にしておられるお方の所へ使いをやるところなのです。こうしてはいられない、もう行かなくては」と申しますと、けらをは再び駆け出して行こうとするような様子を見せました。
“貝合わせ”と申しますのは、貴族女性の遊びの一つで両人が左右に分かれて向かい合い、互いに持ち寄った貝を見せ合い、その形が珍しかったり、美しかった方を勝者とする、といったようなものであったそうでございます。
「それにしても、どうして姫君は他家から取り寄せた貝を貝合わせに使おうとしないのだろう」と右馬の佐。
「さあ、姫君のような、お心深い御方のお考えは私どもには計りかねます。でも、そのために北の方(母君)様を始め、邸にいるものが困り切ってしまっています」と、けらを。
「何をそんなに困っているんだね?」
「そのことについては、良くわかりません。ただ、ここのところ北の方様や女房衆などの大人たちが、貝合わせのことを口になさる度たびに『このままでは姫君は困ったことになる』と言って困った顔をいたしますので、私どもも姫君のことを思うと心配で困ってしまっているのです。それでは、もう私は行きますよ」
右馬の佐はそこまで聞いて「ふむ」となにやら一人で言うと、今度は「それでは、こちらの姫君がくつろいでおられるお姿を格子の隙間などから拝見させてはいただけませんか?」とけらをに言いました。
けらをは「そんなことをしたことが、人に知られてしまえば、私は母に叱られてしまいます」と言って渋ります。
「何を言うのです。そのようなことにはなりますまい。私は決して他に漏らしたりなどいたしませんよ。ただ、もしかしたら姫君をお勝たせできるか否かは私の胸一つなのかもしれませんよ。いかがなさいますか?」と右馬の佐は生来の人懐っこい笑顔を向けて言うと、藁にもすがらんとの思いでいたらしい、けらをは姫君を心配するあまりその言葉に手もなく丸め込まれてしまいましたようでございます。
「それならば、お帰りにならずにそのまま居てください。これよりお隠れになられそうな場所を見つけて、そこにお連れいたします。さあ、人の起きぬ前にこちらにいらしてください」
けらをは意を決したようにそう言うと右馬の佐の手を引きつつ急き立てるように、邸内に引き入れてしまいました。
けらをは西の妻戸の辺りの屏風などが畳んで置いてあるところに、ちょうど人が一人隠れられそうな場所を見つけますと、そこに右馬の佐を押し込めるようにして導き入れましてから、どこかへと駆け去って行きました。
右馬の佐は一人、屏風の影に身を潜めながら、自らの置かれている状況を鑑みて苦笑いをすると、「それにしても妙なことになったものだ。あのような幼い童を騙すようにして、忍び入る手引きをさせた上に、このような所に隠れているところを見つけられようものなら、ひどく体裁の悪いことになるぞ。それにしても、“虫愛ずる姫君”に関わると、どんどん妙なことになってゆく」と一人ごちました。