虫合わせ1
本作品は『堤中納言物語』中『貝合わせ』の翻案小説です。
毎度、馬鹿馬鹿しい、お噺を一席。
古い歌に「空蝉の 羽に置く露の 木がくれて 忍び忍びに 濡るる袖かな【木に隠れた空蝉が露で羽を濡らすように(私も)隠れて袖を(涙で)濡らしています】」というものがございますように、人の心というものは実に複雑なものでございまして、他者からは容易に窺い知れるものではございません。
例えば、ひどく深刻そうな顔をして何かを考えているように見えるお方が内心で、ものすごく下らないことを考えているかと思えば、表面上は明るく振る舞っているお方が実は深刻な悩みを胸中に抱えている──なんていうことがございます。
今回これからお話しをいたしますのも、そんな表面上は泰然としていながらも内面では言うに言われぬ苦しみを抱いている、奇妙な“虫愛ずる姫君”にまつわるお話しでございます。
今は昔、とある秋の夜明けのこと。
長月(旧暦の九月)の空に浮かぶ有明の月に誘われて、邸を抜け出した右馬の佐が、供にただ一人小舎人童ばかりを随えて気楽な浮かれ歩きに興じておりました。
この右馬の佐、実は先だって執り行われた除目におきまして、上級貴族の御曹司として、その年齢にふさわしい地位に昇進をとげておりましたが、ここでは無用な混乱を避けるために、あえて“右馬の佐”という呼び名で通させていただくことにいたします。
さて、辺り一面の朝霧はいよいよ深く立ちこめて、暁暗にありながら、まるで夜陰に身を置くかの如く右馬の佐の姿を覆い隠しておりました。
右馬の佐は朝霧に映える月の光を浴びるうち、いつしか先日垣間見た按察使の大納言の息女──“虫愛ずる姫君”のことを思い出しておりました。
不意に、自分にだけ聞こえるほどの小さな声で「どこかに面白い邸でも開いていないだろうか」と呟いた右馬の佐は無意識のうちに、“虫愛ずる姫君”の許を訪ねる口実を見出だそうとしている自分に気がつきますと、軽い戸惑いを覚え、その思いを打ち消すかのように、「変わり者の姫君を見物に行くのに、無聊を慰めるためということ以外に何の理由を要しよう」と自分に言い聞かせながら、月の光に導かれるままに歩を進めるうちに、いつしか足は“虫愛ずる姫君”の邸へと向かっておりました。
その途上、偶然行き当たった“虫愛めずる姫君”の邸の隣に位置する“蝶愛ずる姫君”の邸の中から雅やかな琴の音が微かに聞こえて参りました。
庭に木立が立ち並んだ瀟洒な邸の中から響く七弦の琴によって奏でられる精妙な調べを耳にして、嬉しくなった右馬の佐は、その音色に耳をそばだてながら、門の脇などに忍び入れそうな崩れなどはないだろうかと、邸の周りをへ巡りましたが、築地はどこも欠くところのない完全さで、外部から注がれる視線を遮っておりました。
歯痒い思いを抱いて行き悩んだ右馬の佐は「かくまで巧みに琴を弾く“蝶愛ずる姫君”とは一体いかなる女性なのだろう」と、今まで伝え聞いた“蝶愛ずる姫君”を賛美する噂の数々を思い出しますと、どうにかしてその姿を垣間見てみたいと思いましたが、講ずる手だてもなく、仕方なしに自らが即興に思いついた歌を、随伴した小舎人童に命じて邸内に向けて詠じさせました。
行き方も 忘るるばかり 朝ぼらけ ひきとどむめる 琴の音かは
【朝の道を行く私の引きとどめ、行き先も忘れさせてしまわせてしまうほどに、貴女の弾く琴の音は素晴らしいですね】
と小舎人童が詠じ終わると、右馬の佐は「まことに、しばらく待てば邸内より人が来るのではあるまいか」と、心をときめかして様子を窺っておりました。
琴の音も今は止み、再び静寂に包まれた朝霧の中に佇みながら反応を待っておりましたが、邸内にはそのような気配はなく、右馬の佐は落胆しながら“蝶愛ずる姫君”の邸の前から歩み去りました。
その後、右馬の佐がしばらく歩いていると、今度は突然、目の前の霧の中から飛び出してきたかのように駆けて来た、四、五人ばかりからなる可愛らしい男の童達、女の童達とすれ違いました。
右馬の佐が童たちの駆けて来た方向に眼を向けてみますと、そこは丁度“虫愛ずる姫君”の住んでいる邸の門前で、幾人達かの小舎人童や下人たちが、立派な籠箱を恭く捧げ持ち、袖には雅やかな手紙を大切そうに入れて、忙しげに出入りをしていました。
「何事だろう?」と好奇心をそそられた右馬の佐は、門前から人影が消えたのを見計らい、随身の小舎人童を自邸に戻らせますと、一人朝霧に紛れて、“虫愛ずる姫君”のお邸へと忍び入りました。