その十一
そうこうしているうちに、庭にいた男の童の一人が姫君を覗き見ている男達に気が付きまして、大輔の君と申します女房に「あそこの立蔀のそばから、妙な格好をした美しい男が覗いております」と報告をいたしました。
それを聞きました大輔の君は「まあ、どうしましょう。姫君はまた例によって虫遊びに興じて、身を晒してなさるかもしれない。このことをお告げしなくては」と、慌てて姫君のもとに参りますと、今や姫君はすっかりその身を庭に晒して、蛹のことなど忘れてしまったかのように、夢中になって木から毛虫を払い落としておりました。
この様子を見て、夥しい毛虫に怖じ気づいてしまいました大輔の君は姫君を遠巻きにしながら、「中へお入りください。端近なところでは人目に触れてしまいます」と申し上げたのですが、姫君の方ではまさか自分の許を訪れるような 稀なる御仁がいようはずがないと、高をくくっておりますものですから、「これ(虫遊び)をやめさせようとして、嘘を言っている」と思いまして、「そのようなことなど、何も恥ずかしくはありません」と平気な顔をして言い返しました。
すると、大輔の大輔の君は重ねて「まあ、困ったこと。嘘だと思っておいでなのですか。そこの立蔀の辺りに殿方がおられるのですよ。奥にいらして御覧下さい」と申し上げました。
いつもとは異なる真実味を帯びた女房の声色に姫君も半信半疑となりまして、「けらを、あそこに行って見てきなさい」とそばにいた男の童に命じます。
けらをと名付けられた男の童が大輔の君が言う方向に駆け出して行きまして、今まで姫君を覗き見ていた女装姿の右馬の佐と中将を確認いたしますと、姫君のもとに馳せ返り、「本当におりました」との旨を報告いたしました。
それを聞きました姫君が、けらをの指さす方向に眼を向けますと、期せずして姫君を見つめていた右馬の佐と目が合います。
その瞬間、思いもよらなかった男性からの視線が現実に自らの身に浴びせかけられていることを突如として意識しました姫君は、途端に露に晒しているその身に燃えるような羞恥の感情を覚えました。
生まれて初めて湧き出ずる感情に脅かされながら、今にも泣き出さんばかりの表情を浮かべた姫君は、へたり込むかのようにその場にしゃがみこんだかと思いますと、足元に這っていた毛虫どもを放り込むかのようにして、袖の中に拾い入れましてから、身を翻して一目散に邸の中へと駆け込んでゆきました。
程良い身の丈の背中に流れる豊かな髪は、袿の裾に届くばかりに長く伸びてはおりましたが、いかんせん毛先を切り揃えていないがために、ふさやかさを感じさせません。
ところが、動転しているせいか姫君が転ぶかのように躰を揺らしますと、その拍子に背中を覆っていた髪はまるで蝶が羽ばたくかの如く宙に広がり、一瞬の後に美しいまとまりを形作って再び背中に落ち着きました。
姫君の姿が簾の向こうに消えたのを見届けた右馬の佐は、ため息をつきながら、「この姫君ほどに容色に優れずとも、外見を整え、所作を正しさえすれば、“みめをかしき”と評されるものだ。本当にまつわれにくい姿だが、清らかで気高くありながら、心安いところなどは並の女性とは異なっている。ああ、何とも惜しいことだ。あれほどの見目形でありながら、どうしてあのような不思議な心を有しているのだろう」との思いを抱きました。
それから「ただ帰るというのでは物足りない。姿を目にしたとだけ伝えよう」と、懐中から取り出した畳紙に、草の汁を墨の代わりにいたしまして、
「かは虫の 毛ぶかきさまを 見つるより とりもちてのみ まもるべきかな【毛虫の毛深い姿は、ただ見るだけではなく、あなたのように掌に乗せて見守りたいものです(あなたのお心深い[気深い]さまは見ているだけではなく、お側に寄っていとおしみたいものです)】」
と、したためますと扇で手のひらを叩いて人を呼びまして、やって来た童わらわに「これを差し上げてくれ」と言ってから、手紙を手渡しました。
童が邸内に戻りまして「これを、あそこに立っておられる御方が姫君に差し上げるように仰いました」と言って、預かった手紙を大輔の君に渡しますと、大輔の君は先日の玩具の蛇の一件を思い出しましたようでして、「まあ、大変。きっと右馬の佐の仕業に違いないわ。気味の悪い毛虫を愛でている御顔を御覧になられたようだわ」などと姫君に申し上げました。
それを聞きました姫君は、全身を駆け巡る動揺を必死に抑え付けながら、「思いといてみれば、何ら恥ずることなどありません。人は儚く移ろいゆく夢や幻のような世に誰もとどまることはできず、一時の事象のみを以て悪しきことと善きことを見極めることはできはしないのです」と、唇をかすかに戦慄せながら、女房衆に──と言うよりも、自らに言い聞かせるように言いましてから、酔ったような虚な目付きで部屋に置かれたままになっておりました蝶の蛹に眼をやりますと、蛹の背のあたりに庭に出る以前には確かに無かったはずの小さな裂け目を見つけました。
それからはもう、女房衆が何を言おうとも全く耳に入らない様子で、乱れた小袿の下から僅かに覗く艶やかな袖にも気づかずに、魅入られたかの如く蛹の背中に走る亀裂を見つめ続けました。
そのお言葉を聞きました女房衆の方は、姫君の内心に生じた変化には気がつかずに呆れ返ってしまいまして、言い甲斐がないと皆肩を落として困り切ってしまいました。