その十
そのような訳で按察使の大納言様がでかけたのを見計らい、御両人連れだって“虫愛ずる姫君”のお邸を訪れます。
姫君の自室に面した北面の立蔀に陣取りまして、お庭の外から邸内を覗いてみますと、確かに噂通りに幾人かの男の童達が庭の木々の間を何やら楽しげに駆け回っておりましたが、肝心の姫君とおぼしき女性の姿が見当たりません。
日中暇があれば庭で虫遊びに興じているという噂を聞いておりました右馬の佐は、邸に赴きさえすればすぐにでもそのお姿を拝めるに違いないと思っていただけにやや拍子抜けをいたしましたが、それでもこうしていればそのうちに姿を現すに違いないと思って待っておりましたが、どうやら一向に姿を現す様子がありません。
その頃、お邸の中では当の姫君が珍しくここ数日籠りきりになっておりました。
と申しましても、この姫君のことでございますから、世間並の姫君のように自らの姿を垣間見ようとする者の視線を警戒してのことではないのは、いわずもがなのことでございます。
それでは姫君がここ数日の間、自室に籠って一体何をしているのかと申しますと、以前にも大納言様御夫妻とお話ししていた際に差し出しました例の蝶の蛹が、どうやら今日明日にも羽化しそうな気配を見せましたので、その瞬間を見逃すまいと籠箱を前にして中に収められた蛹を見つめておられました。
そんなこととは知らない右馬の佐が姫君がお出でになるのを待ちながら漫然と庭の中を眺めておりますと、庭を歩いていた男の童の一人がふと立ち止まりまして、目の前の木を見ながら「この木のあちこちにたくさんの毛虫がまとわりついているぞ。これはすごい」と言いましてから、「これをご覧ください」と姫君の部屋に面した簾をひきあげながら奥に向かって、「とても面白い毛虫がおりますよ」と申し上げました。
部屋の中では姫君が相変わらず目の前の蛹を見つめながら、羽化するのを待っておりましたところへ、庭から男の童の声が聞こえて参りました。
いつもなら一も二もなく男の童の言葉に誘われるがままに庭に飛び出すところでございますが、姫君といたしましてもこの蛹の羽化する瞬間を楽しみにして今まで手ずから育てて来ただけに、庭に出ている間に変態が始まってしまっては元も子もないと思いまして、庭に向かって駆け出したいのを堪えて、男の童に向かい「それは面白いわね。こちらに持ってきなさい」と仰いました。
外でこのやり取りを聞いておりました右馬の佐と中将は、部屋の中から貴族の姫君らしからぬ元気の良い声が聞こえて来たのに驚きまして、声の聞こえて来た方を見てみますと、先程の男の童が続けて、「取り分けることなどできそうにありません。こちらにいらしてご覧下さい」と姫君に申し上げました。
姫君は、折からなかなか変化を見せない蛹に痺れを切らしかけていたこともあり、それを聞きますともう矢も盾も堪らなくなりまして、部屋の奥から荒い足音をたてながら部屋の縁までやって来ますと、簾が膨らむほどに身を乗り出して男の童の言う枝の方を見つめ始めました。
姫君のお出ましを待ち兼ねていた右馬の佐は、これ幸いと簾からはみ出した姫君のお顔を見てみますと、頭に被っていた着物からこぼれる髪の毛は額髪のさがったあたりは綺麗に整っておりましたが、櫛を使っての手入れをしていないためか他の部分が乱れてしまっていて全体的にまとまっておりません。
眉毛も相変わらず手入れをしていないものですから、はなやかなほどに鮮やかに黒く生えておりましたが、それが不思議と涼しげに見えます。
愛敬を含んだ口元には清らかさを漂わせておりましたが、お歯黒をつけていないために美しさよりも幼さが際立ってしまっています。
姫君の姿を直接眼にするまでは、果たして鬼が出るか蛇が出るかといった心持ちでいた右馬の佐は、初めて目のあたりにした“虫愛ずる姫君”の持つ天衣無縫の美しさには驚くと同時に眼を見張りまして、思わず「化粧を施ほどこしたならば、さぞや美しかろうに。惜しいことだ」と心中に呟きました。
御簾から顔だけを覗かせていた姫君がもっとよく虫を見ようとして簾を高くあげますと、図らずも右馬の佐と中将が覗き見ている位置からそのお姿が露あらわになってしまいました。
勿論その出で立ちも世間並の姫君が如き十二単なんぞを着ているはずがございません。
薄黄色の綾織の袿を一重に着ているのは良いといたしまして、その上からまるで美しい綾の模様を覆い隠すかのようにキリギリスの模様の小袿を一重に着ております。
袴も通常女性が身につける赤い袴ではなく、男性が身につける白い袴を身につけておられます。
数匹の毛虫が日の光に照らされながら木の上を這い回っているのを見ました姫君は思わず、「あなめでたや」と歓声を挙げますと、またぞろ「前世の親かもしれない」などと思し召したらしく、男の童に向かって「日に照りつけられるのが苦しくてこちらに来るのですね。これらを一匹たりとも落とさずに、追って寄こしなさい。童よ」と申しつけ、男の童が命じられるままに木をつつきますと、木にまとわりついていた毛虫はぱらぱらと地面に落ちてきました。
すると姫君は何やら黒々と経文の一文が書きつけてある白い扇を差し出しまして、「これに拾いのせなさい」とお命じになりました。
男童が地面に蠢く毛虫どもを拾い上げていますと、その様子を呆れながら覗き見ていた二人の公達──右馬の佐の方はそれでも、「才学があるとは聞いていたが、成程たいしたものだ」と感心もしておりましたが、そのかたわらの中将の方は姫君に対して「ひどいものだ」と、凡俗な感想を抱くに留まりました。