死に逝く際に、
安奈が危ない。その知らせを聞いた途端、俺は食べかけのパンを捨て、聞いていたMDコンポの電源を切るのも忘れて家を飛び出した。俺を呼ぶ母親の声を背中で聞きながら十二月の寒い朝、肌を刺すような冷たい空気の中上着も着ずに走った。ガクガクと震える脚を必死で動かし、前へ前へと進む。冬なのに暑かった。
息をきらしながら病院のロビーへ入ると、安奈の姉ちゃんが俺を待ってくれていた。余計な挨拶や会話は交わさない。ただ走って廊下を渡る俺たちを他の患者が怪訝そうに見ていた。
「安奈っ」
何度も通った個室のドアを開ける。白い白いその病室。ベッドを取り囲むように安奈の家族と医者が立っている。その光景にゾッとした。動けずにドアを掴んだまま呆然とする俺の手を安奈の姉ちゃんが引っ張る。その目には溢れんばかりの涙が浮かんでいた。
「来てあげて。安奈が郡司くんに会いたがってる」
いつか、こんな日が来ると分かっていた。
分かっていたけど、動揺は抑えきれない。
俺に気が付いた安奈の母ちゃんが顔にハンカチを当てたまま俺を通す。鉛のように重い脚を一歩一歩踏み出し、ベッドの上で寝る安奈に近づいた。白いシーツに包まれた安奈は、俺を見ると薄く笑った。俺に憎まれ口ばかり叩いていたかつての面影は、ない。彼女のその姿を見た途端、目眩と同時に吐き気がした。
「安奈、」
「……」
何か言っているが、聞き取れない。耳を近づけるが、彼女の唇からは虚しく空気が漏れるだけだった。ぐずぐずと鼻を咬む音が聞こえる。みんな泣いているのだ、死に逝く安奈を想って。
俺は安奈の足元に立っている医者を見た。手の施しようがないとでも言うように突っ立っている。安奈がこんなに苦しんでいるのに、誰も助けてやれないのだ。
安奈と俺は幼い頃からの幼なじみだった。今までずっと一緒にいた。仲良く手を繋いで歩くより小突き合いながら喧嘩をする方が多かった。それでも俺にとって安奈は、ただの幼なじみなんかじゃない。
「なぁ安奈、あのゲーム覚えてるか」
「……」
「ごめん、俺の負けだよ」
中学生の頃、こんなゲームをしたことがある。俺と安奈がこの先もずっと一緒にいて、先に好きになった方が負けだと。あの時俺は、負けたくないが為に好きにならないよう注意深く過ごしてた。お前もあのゲームを言い出した時からわざと今まで以上に憎まれ口ばっかり叩くようになっていたな。お互い負けず嫌いだから。だけどもう言うよ、俺の負けだ。ずっと前から。
「ぐん、じ」
「……」
「私の、勝ち、だね……」
死に逝く際に、
(彼女は笑った)
機械音が響いた。耳障りで異様に高い機械音。心拍数を表す画面には真っ直ぐな線のみが引いてあった。ご臨終です、という医師の声が機械的に響く。泣きわめく安奈の家族。俺はただただ冷たくなっていく彼女を見下ろした。
(早く起きろよ馬鹿、俺は言った)
(その馬鹿に負けたのはアンタの方だと彼女が笑うことはなかった)