回顧録
世界大戦まで残り一分前だなんだと言われる2025年、
早稲田大学で外務省専門職員資格を取得すると外務省の採用試験を受け、無事に採用された。
希望した職種は大使館員。
最低限の研修を済ませると、希望者の少ないイラクの日本大使館へ回されることになる。
現地に降り立つと真っ先に歓迎してくれたのは現地の人や大使館の人ではなく、熱く乾いた風と砂埃だったのを覚えている。
大使館に着任して初めての日。
初めての海外ということでおっかなびっくりだったが数日で慣れた。
日中であれば銃声が聞こえないし、子供がタバコや小道具を売り歩いている程度には安全だ。
しかし、シリア国境近くの街では毎日のように戦闘が起こっていて、
日に数百人の新しい死体が道端で山積みとなり、墓に埋まること無くゴミのように燃やされる。
そんな国での仕事といえば、戦闘が激しい街の少し手前で取材する記者や比較的安全な街に住む日本人の保護、大使の雑務兼任に地域情報の収集。
――と、ご大層に職務を並べるがもっぱら日中近辺の散歩、
それと近くの大使館を回って書類の受け渡しが当分の仕事だった。
そのような仕事を繰り返し日が沈むのを百は数え、
近所の住人にはタッツーと親しまれ始めたある日、テレビに緊急報道が入った。
シリアによるイラクへの宣戦布告だ。
あまりの突然なことに唖然とテレビを眺めていると、突如地面が揺れた。
窓から外を見ると、近くの警察署辺りから爆炎が上がっている。
近くには日本人が数名暮らしているのを記憶していた。
直ぐに大使館を飛び出して警察署に向かった。
崩れ落ちる建物や道路に散乱する瓦礫を避け警察署に着くと、そこは正に地獄だった。
手足が吹き飛び苦痛に顔を歪ませた人、瓦礫に押しつぶされ真っ赤に地面を染める人、人だった何か。
肉の焼ける匂いが鼻を擽った次の瞬間、近くに爆弾が落ちてきた。
急ぎ物陰に隠れるが衝撃波によって数メートル体が吹き飛ばされ、そこで意識が無くなった。
目を覚ました時には輸送機の中だった。
幸い大きな怪我はなく、保護しに向かった日本人がおぶって大使館まで駆けつけてくれたらしい。
それが無ければ死んでいただろうと言われた。
日本に帰った橘は、その時の光景が脳から離れず国の指定医からPTSTだと診断される。
不名誉なことに第5次中東戦争の邦人被害者1号として記録された。
その影響か外務省からは治療休職という実質的な解雇通知を受け、特別戦傷年金として毎月7万2000円。
生涯マスコミへ情報を漏らさぬための口止め料として振り込まれている。
政府の思惑としては数年は何も言わぬ貝にでもなって欲しかったのだろうがそんな気は更々ない。
ギャンブル、酒、豪華な食事――とにかく警察署での記憶忘れたい一心で豪遊をに忙しかった。
そんな日々を送りつつ月に数回しかその時の夢を見なくなった頃、
働いていた時の貯金がついに底を尽きた。
流石にこれは不味いと思った橘は数日間頭を悩ませた。
答えが出た日、外務省に足を運んでいた。
中に入って真っ先に目に入ったのは、研修中教官役を努めてくれた荒木課長だった。
丁度荒木課長も遅めの昼飯を取る予定だったらしく、入り口でばったり出会った橘に気が付いて声を掛けてきた。
「随分痩せたんじゃないのか、橘」
荒木課長は痩せこけた顔に驚きを隠せず尋ねた。
「それに省からは長期療養と聞いていたが、大丈夫なのか?」
橘は掻い摘んでイラクでの話を話す。
テレビを見ていたら爆弾が落ちたこと、爆心地に向かったらそこは地獄だったこと。
途中でここじゃなんだからと近くの食堂へと向かった。
「その様子だとあまり食べてないんだろう? 私の奢りだから気にせず食べなさい」
促されるままにメニューの中から端に小さく表示されたきつねうどんを注文する。
直ぐに届いた熱々の粗末なうどんを前に頂きますと手を合わせる。
2,3本啜ると、自然と嗚咽が漏れた。
「大変だったろうな。ゆっくり食うといい」
慰められながら橘は食べた。
それからお互いに食事を済ませた後、橘は再び大使館員を務めたいことを伝えた。
「お前の意気はよくわかった。実はな、ここだけの話正式な大使館を設置出来ない国があってな。そこに外務省直々に送ることは出来ない。ならどうする、と話が持ち上がっていてだったら民間会社を立てて送ればいいんじゃないか、となってな。どうだ?」
「つまり、自分がその会社の社員という形で大使館員を出来るってことですか?」
「そうだ」
「どこの国ですか」
「それは秘密だ。ただヨーロッパに近い国、とだけ言っておく」
荒木課長は含みのある言い方をした。
「ヨーロッパに近いっていうとヨーロッパの周辺国なんですか?」
荒木課長は橘の問には答えず熱いお茶を呑む。
「ここでは答えれない場所ってことですか」
「まぁ、そういうことだ」
一呼吸開けてから話を続けた。
「もし、現地でやっていけないとなれば遠慮なく言ってくれていい。PTSTに掛かっている君にややこしい仕事を押し付ける気はない」
「荒木課長。自分が大使館員を志願する理由知ってますよね」
「勿論だとも。それでも、だ」
荒木課長は力強い語調で橘の意思を確かめるように鋭い目を向ける。
橘もジッと見つめ返し、10秒程経つと根負けしたのか、固く結ばれていた荒木課長の口が綻んだ。
「分かった。そこまで覚悟してるなら話を進めておこう。明日の昼は大丈夫か?」
「問題ありません」
「なら明日、ここに来てくれ」
「有難うございます。立派に勤め上げてみせます」
橘は深々と頭を下げながら、食堂から数百メートル離れた場所の住所が書かれたメモを受け取った。