曖昧な僕達のままで
ザワザワガヤガヤガイガイ、騒がしい教室の中で、一通り指示を出し終えた私は、ブレザーを脱ぐ。
脱いだブレザーを畳んで、自分の席に置いてから隣に置いてあったエプロンを手に取る。
のろのろと用意していたら声を掛けられた。
「どうかした?」
私の問い掛けに声を掛けてきた彼は、笑顔のまま首を横に振る。
同じクラスで、席替えをしても何故か隣か前後にいる男子。
仲は悪くない、むしろいい方だと思っている。
あくまでも私は、だけれど。
彼は笑顔を保ったまま、視線は私からブレザーへ。
脱ぐの?と聞くから、素直に重いからと答える。
うちのブレザーは重い。
他の学校のがどうなのかは知らないけれど、肩パッド入れ過ぎだろって思うくらい、肩が凝るレベルに重いのだ。
ついでに動きにくいのもある。
「ふぅん……」
「変?」
「いや、似合ってるけど」
後ろ手でエプロンの紐を蝶々結びにしていると、彼が眩しいものでも見るみたいに目を細めて言った。
そういう反応、期待してたわけじゃないんだけど。
返す言葉が見付からなくて、曖昧に笑う私。
このエプロンは、個人的に部活で使用しているもので、部室という名の美術準備室から取ってきたものだ。
美術室よりも狭くて一人になれる準備室を使用するのは、美術部員の中でも私だけ。
シンプルな黒い布地には、ポツポツと取れなくなった絵の具がこべりついている。
今更取れるとも思わないし、描いてる人間にはこんなの日常茶飯事だ。
むしろ制服について取れない方がマズイ。
「あー、美術部って引退いつだっけ」
パンパン、とエプロンのお腹辺りを叩いてから、私は顔を上げて彼を見る。
彼は私を見ておらず、窓の外を見詰めた。
相変わらず何を考えているのか分からない目だ。
「一応、学校祭の展示が終わったらかな。運動部と違って、文化系の部活はその辺ゆるゆるだから」
机の中に入れてあった百円ショップで買ったクリアファイルを取り出す。
薄っぺらいそれの中には学校祭で使うデザイン画など、諸々が入っている。
どうして?そう聞き返しながら、私は教室を出るために扉に向かう。
彼もまた私と同じように歩き出す。
「展示って何するの?」
「えー?普通に今まで描いた絵とか置いとくだけだよ。後は何か折り紙とか……」
「へぇ。俺見たことないんだよね」
「だろうねぇ」
廊下に出しっぱなしの木材を爪先で軽く蹴る。
コツン、これまた軽い音。
うちのクラスの模擬店の看板用のそれに、今から私は下描きなしで絵の具一発挑戦を始める。
よし、と一人意気込んでカーディガンとワイシャツをまとめて捲り上げた。
完全に秋にシフトチェンジした今日この頃。
寒いといえば寒いけれど、腕まくりしないとどうにも作業がしにくいのだ。
学校祭というのは、私たち文化部の腕の見せどころだったりするわけだが、実際のところはその準備期間が忙し過ぎて、本番にはしゃぐ気力をなくすのがほとんどのパターン。
私は実際に一年生の頃からそうだった。
「俺らさぁ、勝ったじゃん?」
ガッコガッコ、音を立ててカンカンに入っていた絵の具を、廊下の片隅に寄せていると、彼がそんなことを言い出した。
手伝いして来なよ、なんて言う気にはなれない。
彼の目はぼんやりと何処か遠くを見ている。
その目を見て思い出すのは、肌を焼くギラギラと輝く太陽と、ブラバンの楽器の音やチアの女の子の黄色い感じの声。
思い出して眩暈がした。
強く強く、それをかき消すように目を閉じる。
かっとばせー、なんて声の後に続く彼の名前。
私は帽子を目深に被り、首にタオルを巻いて、声を出すでもなく、ただただ見守った。
あの金属バッド独特の音。
雲一つない青空を切り裂くような白球に、バックスクリーンから響く鈍い音。
「約束覚えてる?」
記憶が霧散する。
ハッ、と目を開けた先には、いつの間にか私を見ている彼。
別に付き合ってるとかでもなくて、友達といっていいのかも分からない酷く曖昧な関係だと思う。
でも、高校生の男女ってそんなもの。
「覚えてますとも」
得意気に、少しだけ胸を張って。
私の答えに彼が嬉しそうに白い歯を見せる。
部活をしている時は、あんなに挑戦的な顔をしているのに、と思うけれど、私達もキャンバスに向かっている時はそんなものだ。
皆そう。
一生懸命になっている。
まだ描いてなかったなぁ、と半分思いながらも、あれって冗談じゃなかったんだ、ともう半分で考えた。
その場だけの口約束だと思っていたのだが。
それを今口にしたら、きっと彼が子供のようにふてくされるのが目に見えている。
だから私は敢えて言葉を飲み込むのだ。
「引退してから描きましょう。うん、そうしよ」
「引退しても美術室って使えるの?」
「私が使ってるのは美術準備室だから、私以外使わないから」
いいんですよ、そう言いながら私は絵の具の入ったカンカンを開ける。
横では彼が笑いながら見下ろしている気配。
早く描きたいなぁ、なんて自分勝手なことを考えながらも、私は真新しい木材に筆を走らせた。
真っ青なそれが、夏のあの日が被って眩暈がしそうだ。
***
ピシャリ、廊下側から美術準備室に滑り込んで、すぐさま扉を閉める。
疲れた、しんどい、疲れた。
もう歳かもしれないとすら思う。
準備期間に色々なことをし過ぎて、本番ギリギリまで仕事をしていたのだ、疲れて当然当たり前だ。
冷たくてホコリっぽいリノリウムの床に寝転んで、四肢を投げ出し天井を見た。
薄汚れた天井は年季を感じさせる。
卒業前には綺麗にしたいよなぁ、と思いながら、立つ鳥跡を濁さず、なんて言葉を思い出す。
「……はぁ」
重い瞼を下ろして溜息。
隣の美術室からは微かな足音と人の気配。
美術部の展示は全て美術室で行われているから、部員とお客さんだろうな。
元々小さく聞こえる足音が、更に小さくなって音そのものが遠ざかる。
眠い、やばい、寝そう。
宣伝用に配るポスターを作っていたから、寝るのが遅くなったせいだ。
まだまだ学校祭は始まったばかりの午前中。
私は睡魔に平伏して、完全に意識を手放したのだった。
目を覚ましたのは、空腹感を感じ、ソースの匂いに釣られてだ。
薄汚れた天井を見上げながら、あー、と声を出した時「え?起きた?」なんて第三者の声。
驚いて上半身を勢い良く起こしてしまった。
声の方に顔を向ければ、そこには何故か某童話の中に出てくるチェシャ猫の格好をした彼。
紫の黒のボーダーのダボダボしたロングTシャツに、サイズの大きそうな黒いズボンとヒールのある高い靴と、アクセサリーとして紫と黒の猫耳と尻尾。
はしゃぎ過ぎだろ、とか思ってしまうのは、私が制服のままだからかも知れない。
「何その格好、何でここにいるの、何寛いでんの、私の分は」
チェシャ猫な彼は、胡座をかいて美術準備室の床に座り込みながら、焼きそばを食べていた。
今更ながら足に掛けられていたブレザーに気付いて、それを畳みながら彼に問い掛ける。
彼は私を見て食べる手を止め「そんな一気に聞くなって」と言う。
眉を下げて笑う彼は、置いてあったビニール袋から、同じく焼きそばやらたこ焼きやらを取り出す。
好きなのを食べろ、ということらしい。
お礼を言いながら焼きそばに手を伸ばせば、さっきの質問だけど、と彼が答え出す。
「この格好は模擬店やら迷路やらの手伝いで、お前の姿が見えなかったからここに来て、疲れたから寛いでるわけで、これは全部俺の奢り」
聞いた順にちゃんと答える彼。
私は床に女の子座りをして、焼きそばを開けて割り箸を真っ二つに割る。
パキン、二人の間に落ちる音で無言になった。
焼きそばを食べる彼を見て、私も手を合わせてから一口。
この手の食べ物は、大抵雰囲気を味わうためであり、味などにそんなに期待はしてなかったけど、普通に美味しい。
うん、普通に。
「てか、お前用にアリス用意されてたけど」
「準備期間頑張ったので閉店済みです」
「せこっ……」
ふん、と鼻を鳴らして焼きそばを咀嚼する。
うちのクラスのモチーフはアリスで、模擬店という名のアリス喫茶なるものと、不思議の国の迷路なるものを用意したわけだが、これが大変だった。
迷路は外に設置された大型のものであり、雰囲気を大事にしたアリスの世界満載になっていて、喫茶店も店番全員がアリス関係の衣装を着て、アリス関係のお茶やらお菓子やらを出す。
気合十分ですね、って感じだ。
私はあんなに可愛い服を着る気にはなれない。
後、採寸させた覚えもないのだが。
もぐもぐ、口を動かしながらラムネに手を伸ばす。
だけれど、目の前から伸びてきた彼の手が、私の手を掴んでそれを制する。
あれ、駄目だった?
顔を上げて小首を傾げれば、そうじゃなくて、というように首を振って眉を寄せる彼。
一体なんだろうか。
ごくん、咀嚼した焼きそばを飲み込む。
彼は焼きそばを食べる手も止めて、私の手を掴んだまま、あー、とか、うー、とか唸った。
何が言いたいのか分からない私は、更に首を傾けていく。
「今描いてくれたり、しねぇの?」
「嫌ですよ」
キッパリハッキリした答えに、彼の手から力が抜ける。
ガックリ、と音が聞こえてきそうな程に項垂れる彼に対して、特に申し訳ないとかは思わない。
理由は簡単だ。
まだ引退していないからというのと、理由の半分以上を占めている今現在凄く疲れているから。
ただそれだけ。
絵を描くのは好きだし、むしろ時間が許す限り描いていたいとは思う。
だがしかし、ここ数日はバタバタし過ぎて、体が疲労感満載なのだ。
このままキャンバスの前に座っても、筆の勢いが死んでしまう。
「そんなにハッキリ言わなくても」なんて情けないことを言う彼は、部活をしていた時のような覇気が感じられない。
チェシャ猫スタイルのせいかも知れないが。
飾りの耳と尻尾が垂れたように見えた私は、溜息を吐き出しながら、焼きそばのパックを閉じる。
本当は温かいうちに食べた方が美味しいんだけど、そう思いながら立ち上がり彼の腕を引っ張った。
流石に私ごときの力では立ち上がらせることは出来なかったが、私の動きに釣られるようにして立ち上がってくれたので良しとしよう。
「美術室の展示、見てないでしょ」
立ち上がった彼を見上げて言えば、少し視線を逸らした彼が頷く。
来る前に見て行けよ、と言いたいがもういいや。
腕を掴んだまま、美術室と準備室を繋ぐ扉に手を掛ける。
なるべく音を立てないように開けたけれど、お昼休憩なのか誰もいない。
いや、誰かいろよ。
空っぽの美術室に顔を顰めながらも、私はリノリウムの床を踏み付けて自分の展示物へと向かう。
展示は本人の名前が記されていて、その人の作品がまとめて展示してあるのだ。
「今更描かなくても、三年で大分描いたから」
大量の作品の中から選びに選び抜いたそれら。
本当なら、去年の学校祭以降のものを出すのだけれど、私は私の好きな作品を出す。
見たことあるとかないとか、正直どうでもいい気がするのだ。
大きく両手を広げて、チームメイトに声を掛ける彼の後ろ姿。
バッティング練習中の彼。
チームを引っ張っていく主将の背中をした彼。
キャッチボールをする彼。
正面からの絵はほとんどないけれど、それらは全て私が描いた私の大好きな絵だ。
彼はポカン、と目も口も真ん丸にしてそれを見ていた。
いつの間にやら、掴んでいたはずの腕は彼の手になっていて、私が掴んでいるというより、彼の手が私の手を包み込んでいる。
だが、振り払う気にもなれずに、私達は手を繋いでそこに立ったまま。
「……あー、俺って愛されてる?」
「いや、付き合ってませんからー」
はっはっはっ、乾いた笑い声が美術室に響く。
彼も私の笑い声を真似て笑った。
じゃあ付き合う?なんて他の男子みたいに軽々しく言わないところが、彼の良いところだと思う。
単純に私が範囲外なだけかも知れないが。
絵から彼に視線だけを投げれば、彼は何だか嬉しそうに微笑して、絵を見詰めていた。
そういう目で見られるのは嫌いじゃない。
例えそれが、その絵の中に切り取られた本人だとしても。
「これさぁ、貰えたりする?」
「気に入ったのがあれば要相談で」
「じゃ、新しく描いてもらってからその話もするかぁ……」
「そうですねぇ」
彼が私を見下ろす。
澄んだ瞳が私を見ていると思うと、何故か居た堪れなくなる。
手を離してもらえないか、距離を取りたい、そんな思いで彼の手の中で私の手を動かす。
「ところで敬語かタメ語どっちかにしようぜ。タメ語で」
「どっちかって言ったのに強制?後、癖なんで」
親しくても親しくなくても、敬語とタメ語がごちゃごちゃになるのは自分でも気にしていることだし、この場で言うことじゃないだろと思って顔を歪める。
彼はそんな私を見下ろして、楽しそうに笑う。
離せよ、と言わんばかりにもがいた手は、強く強く握られて動かすことすら許されなくなった。