TRAP(罠)
マリー、またここに戻ってしまった。この時間になるとマスターが気を利かせて、店中の照明を落としてくる。カウンターに置かれたキャンドルの揺らめく炎に照らされて、見えるのは君のその謎めいた微笑みだけだ。
マリー、ARETHAの『LADY SOUL』がかかっているよ。二人でよく聞いたアルバムだね。当時は妙にボトムのきいた、それでいてブツブツとノイズがはいったアナログ盤だったけど、今では、妙にこぎれいな音に収まってしまっている。
出会った時のことは、よく覚えている。君の好きな黒のスーツだ。はやりのウェイビーヘアーに、黒のレイバン。ルージュだけが妙に赤くて、まるで 女スパイのようだった。
美術系の出版社とはいえ、そんな格好で初出社する子なんていやしない。でもすぐにわかったのは、君の目が不自由だということだ。斜視っていうのか、右がわの黒目がほんの少し鼻のほうによっていた。
最初の頃は、いつもその話をしていた。
「アニメで見た双眼鏡をのぞいたところの絵が、私が覗いた時の感じと違っていたの。それでね・・・」
君はいつもハスキーな柔らかい口調で話していた。
「同情する人もいたわ。なぜか毛嫌いする人も。どちらもいやだった。だから決めたのクールにいこうねって。」
クールにいこうね、これが君の口癖だった。気が強くてわがままなのと言う割には、僕の前ではいつも優しい物腰だった。
「本当は、そんな優しい自分がすきなんだろう?」
「うん。でもこの目が回りを斜ににらんでしまうのよ・・。女は特に、みんな敵に見えるの。この目のせいで・・」
また目の話だ。こういう時の俺のせりふは決まっていた。
「きれいだよ。」
君は目の話をやめてしまう。事実、キャンドルに照らされた君の顔は、本当に美しかった。
「それがこの店のトラップ(罠)なんです。店の明かりをだんだんと落としていく。すみの方から徐々に・・。そして最後はキャンドルの光に照らされる相手の顔だけになって・・・。これで皆、恋の世界に落ちていくわけです。」
あとでマスターが言ったことだが、僕はまんまとはまってしまったわけだ。
二人はいつも一緒だった。休み時間も、仕事が終わったあとも。喫茶店で 話が弾み、ふたりで昼の仕事に遅れこっぴどく怒られたこともあった。今度一緒に銀行強盗をしようなんて話で、盛り上がっていた。ぼくは先輩のネクタイの水玉の数を数えていた。
「あの先輩おこると鼻がひくひくふくらむのよ。」
二人とも反省などしてもいなかった。銀行強盗にくらべれば、遅刻なんて何のこともなかった。
夜は夜で、R&BやJAZZの店にたむろしていた。
「やっぱりBLACKよねぇ」
3時間も4時間も語るには、僕らのうんちくなど微々たるものだ。強烈なビート感覚に身を任せるだけで十分だった。
「BLACKと寝たことがあるのか?」
まだ若かった僕は嫉妬まじりに聞いた。
「くどかれたことはあるわよ。店のひともいつのまにかいなくなっていて、暗い店に本当に二人きりにされちゃったの。」
「ひとりでいったのか?」
「二人で行ったのだけど、マスターとどこかにいっちゃったみたいなの。でも彼らは紳士だったわ。どうしてそんなに素敵なプロポーションなんだ。どんなトレーニングをしてるんだ?って。もうとろけそうなまでにほめあげるの。」
「見習わなきゃな」
僕は苦々しくいった。
「でも、きみがそうしたいなら、ぼくはこのまま優しく話しているだけでもいいんだよって紳士だと思わない?」
「で、きみはどうしたんだ。」
「ご想像にお任せするわ。あ、この曲のベース素敵ね。だれかしら?」
強烈なビートが相変わらず店をかきまぜていた。無造作に組み替える君のすらりとした足が、妙になまめかしかった。
その晩、僕は君を抱いた。僕はまた罠にはまってしまったようだ。
港にある煉瓦の倉庫には、よくいった。きみはいつもの黒いドレスで、子供のようにはしゃいでた。線路のうえをどこまでもバランスをとりながら歩いた。
「このシチュエーションいいわよね」
カメラマンの振りをして、僕の周りをくるくる回りながらファインダーを覗き、シャッターを押すまねをしていた。
「本当はカメラマンになりたかったんだぁ。」
ファインダーを覗く目が、どうなっているかなんてもう二人とも気にもしていなかった。
「秋になったら、また来ようぜ。銀杏が色づく港なんて最高だぜ。」
「枯れ葉の街で、別れ話・・。いいわね。」
「夏の終わりに僕が消える。そして枯れ葉の街で偶然すれ違うっていうのはどう?。」
「そのときはクールにいこうね。まるで他人の顔をしてすれ違うのよ。」
半年くらいの歳月など、一瞬のものだと思っていた。
毎日が堕落した日々に変わっていった。むき出しにされた欲情は、僕たちから、会話と生活を奪っていった。いや、肉体が会話をはじめたのかもしれない。唇が、指先が、そして体の重みまでが、しゃれたせりふをはくように、そして時には復讐の言葉をはくように、会話をはじめていた。
原宿から渋谷まで歩いたときのことだ。もうすぐ渋谷というころ家具屋に行きたいと君は言い出した。
「貴方なら、どっちのテーブルがいい?」
テーブルクロスやらカーテンやら次々に選んでいく。といっても買いそろえる金などお互い持ってはいなかった。
「私はこっちがいいなぁ。この上にいつも花をかざって食事をするの・・。」
その時僕は、初めて奇妙にさめていく自分を発見した。
「もう出ようか」
帰り道、道ばたで売っていたチープなお揃いのキーホルダーを買った。君は喜んではしゃいでいた。僕は日々ふやけていく精神の中に冷たく燃えるある衝動が、生まれていることを感じていた。
僕が会社に辞表をだしたのは、いよいよ夏が近づいたころだった。君にもなにも言っていなかった。週に一度、自分のアパートに戻ったときに、それを書いた。
そして、ある朝突然、部長にそれを出した。そしてそのまま職場を飛び出した。部長が追いかけてきた。
「話をしよう。」
僕は適当な理由をこじつけて、自分のアパートに戻った。昼休みの時間に、君から電話がかかった。
「かっこ良かったわよ。まあちょっとこれから大変だけれどね。」
なんの不安も感じてないような明るい声だった。
「今夜、横浜にこないか?また銀行強盗の打ち合わせなんてどう?」
僕は君を港の方に誘った。そして、給料の残りほとんどを、君の為に使ってしまおうと思っていた。今までの感謝の気持ちでもない。最高の別れの演出でもなかった。カウントをゼロに戻したい。ただそれだけが目的だった。
「あてのない明日にむかって、乾杯!」
陳腐なせりふだが二人は笑顔で乾杯した。店の中でも港に着くまでも君は話を続けた。僕が会社を出てからの様子。若いみんなもじきにやめるだろうことも・・。君はしゃべり続けた。
帰り道。終始二人は黙ってしまっていた。問題は、次の行動だった。次の一言で、二人の人生が決まってしまうことを感じていた。この一歩先に 僕たちがどうなるのか、僕自身にもわからなかった。
けれども 初めて罠から逃れだした気がしていた。未来はすべて、僕の手の中にあった。ホテルの横を通るたび君の視線が動くのを感じた。
駅につくともう終電の時間だった。
最終は日吉行きの各駅停車。
君のアパートのある中目黒にいく電車はもう終わっていた。
日吉までの切符を二枚買った。
何一つ話もせずに、その電車に乗った。
しばらくすると、電車は横浜駅に滑り込んでいった。僕の住むまちだ。
ドアが開いた。
もうなにも考えていなかった。
シュウという音とともに、ドアが閉まりだした。
とっさに僕は、つないでいた手をするりと離すと一人ホームに飛び出した。
世界が凍りつくのがわかった。
何も言わなかった。
ドアの窓越しに君の無表情な顔が見えた。
黒のスーツに、真っ赤なルージュだった。
出会った時の 服装だ。
今頃になってそれに気づいた。
そしてまるで準備していたように、君はサングラスをかけた。
電車がぽっかりとあいた闇の中へと動き出すと、一瞬、君の口元が微笑んだ。
いままでに見たことのない微笑みだった。
そしてこれが最後の罠になった。
その後、君は跡形もなく消えていた。会社からも、なじみの街からも・・・。
君の残した最後の罠。
僕は、いまだにこの罠から逃れてはいない。
今もこのカウンターに座って、僕は君に話しかけている。
「マリー、また、愛することに失敗しちゃったよ。」
君の返事はいつもどうりだ。
クールに行こうね、クールに・・・。