第0話 プロローグ
―――その日、私は母親を殺した魔人を初めて見た。
***
「魔道武器――解放!」
誰かの叫び声と同時に、眩い光が戦場を駆け抜ける。
大地が震え、土煙が舞い上がり、その向こうから影が飛び出してきた。
「来るぞ! 構えろっ!」
「『魔人』どもを一匹も逃がすな!」
『討伐士』たちが一斉に武器を構える。
剣、槍、弓、斧。
それぞれの魔道武器が魔力を帯び、青白い光を放った。
アイナ・バンキッシュ。
私もその中の一人だ。
今日が討伐士として初めての実戦。
緊張して手が震えている。
それでも逃げるつもりはなかった。
母を殺したのは魔人だと幼い頃に父から教えられ、いつかこの手でその魔人を討つために私はこれまで訓練を積み重ねてきた。
私は顔に装着した黒い仮面へ手を触れる。
―――『対魔族防護仮面。』
討伐士になる者は誰もがこの仮面を身につける。
魔人は人間を欺き、その姿や声さえも偽るという。
だからこそ、対魔族防護仮面が必要なのだ。
それは討伐士育成機関に入隊してすぐに基礎知識として教えられた。
私は仮面の奥で息を整え、前方を見据えた。
「―――っ!」
目の前の魔人が吠えた。
人の形はしている。
だが、どす黒い肌に角の生えた頭、人間よりも大きく裂けた口に鋭い牙と黒く染まった眼は、人間とはかけ離れた異形の姿であり、まさに怪物だった。
「グオオオオオオオオッ!」
耳をつんざくような咆哮。
「来るぞ!」
仲間が叫び、私は魔道武器を構えた。
「解放!」
刃が光を纏う。
私が武器を構えた瞬間、魔人が地面を蹴った。
―――速い。
けれど、見える。
私は横へ飛び、魔人の攻撃をかわした瞬間、地面が抉れる。
「ちっ、化け物め……!」
思わず声が漏れた。
仲間たちが次々と魔人を切り伏せていく。
その奥にいた背の低い魔人が、背を向けて走り出した。
「逃がさない!」
私はその魔人を追って森の中へ駆け込んだ。
人類の敵である魔人を逃がすわけにはいかない。
木々の間を抜けて斜面を駆け上がると、やがて視界が開けた。
しかし、その先にあったのは―――、崖だった。
「―――しまった!」
足元が崩れ身体が宙に浮き、次の瞬間、私は崖下へ落ちていた。
「――――っ!」
風が耳元を切り裂き、身体が回転する。
―――死ぬ。
そう思った瞬間、誰かの腕が私の身体を掴んだ。
「―――え?」
それは魔人だった。
逃げたはずの魔人が、私を抱きしめている。
そして、そのまま私の身体を庇うようにして落下していく。
魔人は何かを叫んでいる。
「――――――!」
けれど、私の耳にはそれがただの雄叫びにしか聞こえなかった。
その瞬間、魔人が片手を下へかざした。
すると、私たちを包み込むように風が渦巻き、落下する身体を受け止めた。
―――けれど、二人分の身体を支えるには足りなかった。
ドンッ!
風が落下の衝撃を和らげた。
それでも頭に強い衝撃を受け、私の視界は真っ白になった。
***
「……うっ。」
目を開け、意識が戻ってくる。
―――全身が痛い。
けれど、生きている。
「……私……。」
私はゆっくりと身体を起こした。
乱れた黒髪が頬にかかり、その内側から青緑色の髪がちらりと覗いている。
指で髪を払い、顔に触れる。
額から頬にかけて痛みはあるものの、大きな傷はなさそうだった。
いつも髪に留めている星形のヘアピンもどうやら落とさずに済んだらしい。
「……はっ!」
私は慌てて顔に手をやった。
対魔族防護仮面が、なくなっている。
周囲を見渡すと、少し離れた場所に砕けた対魔族防護仮面が落ちていた。
「か、仮面が……。」
私が立ち上がろうとした、そのとき―――。
「……大丈夫?」
人の声がした。
「―――!」
目の前にいたのは、一人の少女だった。
銀色に薄紫を溶かしたような長い髪が、彼女の肩から静かに流れ落ちている。
日に焼けたような褐色の肌。
伏し目がちな淡い紫色の瞳はどこか眠たげで気だるそうな印象を与えた。
身にまとっているのは、黒を基調とした服。
首元にはチョーカーがあり、髪には花を思わせる飾りが添えられていて、腰や衣服のあちこちには金属の装飾があしらわれていた。
どこか近寄りがたい雰囲気をまとっているのに、その眼差しには私を心配するような色が浮かんでいた。
「…………え?」
頭が理解することを拒んだ。
違う、そんなはずがない。
さっきまで目の前にいたのは角を持った怪物で、牙を剥き出しにして雄叫びを上げる魔人だった。
それなのに、目の前の少女には角も牙も異形の腕もない。
ただ、不安そうな顔で私を見つめている。
「あなた……誰、なの……?」
少女は少しだけ首を傾げた。
「……誰? 私は『ルナ』だけど。」
「…………ルナ?」
その声は、ちゃんとした言葉で普通の女の子の声だった。
「あなた……魔人なの?」
「……そう、だけど。」
私は息を呑んだ。
けれど、すぐに一つの可能性が頭をよぎった。
―――仮面が壊れたからだ。
対魔族防護仮面がなければ、魔人の本当の姿を見極めることはできない。
今、目の前にいる少女も魔人が見せている偽りの姿なのかもしれない。
「……そういうこと?」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
ルナは何も言わずに私を見ている。
その顔に怪物の面影はなく、声も人間と変わらない。
それでも、私はすぐには信じられなかった。
―――これは魔人の認識阻害だ。
そう考えれば、すべて説明がつく。
……それなのに。
胸の奥に小さな違和感が残った。
―――本当に、そうなのだろうか。
もし、このルナと名乗る少女の姿が偽物なら、なぜこの魔人は私を助けた?
なぜ、私に手を差し伸べている?
なぜ、その目は私を殺そうとする怪物の目ではなく、ただ心配そうに私を見つめているのだろう。
私は答えを出せなかった。
「……その……。 さっき……何を言ってたの?」
「え?」
「落ちているとき……何か、叫んでたよね?」
ルナは困ったように眉を寄せた。
「……ああ。 あなたを助けるって言ったけど?」
「…………え?」
「……聞こえなかった?」
私は、何も言えなかった。
あのとき聞こえたのは間違いなく雄叫びだった。
私を襲おうとしている恐ろしい魔人の叫び。
そう思っていた。
けれど仮面が壊れた今、私は初めて魔人の声を言葉として聞いた。
ルナは私に手を差し出す。
「立てる?」
私はその手を見つめた。
―――怖い。
目の前にいるのは魔人だ。
人間を騙し、殺す怪物。
それなのに、この少女は私を助けた。
落下する私を抱きかかえ、身体を庇い、そして今も、私が立ち上がるのを待っている。
私は視線を落とした。
地面には砕けた対魔族防護仮面が転がっていた。
―――魔人は人間を騙す。
だから、仮面をつけなければならない。
そう教えられてきた。
では、仮面を失った今、私が見ている少女の姿は本当に偽物なのだろうか。
答えは……出なかった。
私はただ砕けた仮面を見つめていた。
初めて、自分が信じてきたものを疑いながら。




