第4話 焼け跡の表札
地下通路での追撃を振り切ったのは、夜が最も深く沈んだ頃だった。
天城恒一たちは、旧保守区画のさらに奥、半ば放棄された設備室のような場所へ身を潜めていた。
錆びた工具棚、転がったケーブル束、壊れた制御盤。非常灯は死んでおり、藤堂修司が拾ってきた小型の手回しランタンだけが、狭い空間にぼんやりとした橙色の光を投げている。
通路の先には、恒一が崩落魔法で落としたコンクリート塊が積み重なっていた。あれで完全に追手を止められたとは思っていないが、少なくともすぐに踏み込んでは来られないはずだった。
雫が壁に背を預け、長く息を吐く。
「……ほんとに、無茶苦茶だ」
その声音は呆れ半分、安堵半分だった。
恒一は返事をしない。
設備室の入口近くに立ったまま、耳を澄ませていた。機械の足音。金属が擦れる音。遠い爆発。水滴の落ちる音。生き残ってきた人間たちの浅い寝息。
異世界の野営に似ているようで、少し違う。
あちらでは闇の向こうにいたのは魔物や敵兵だった。こちらでは、同じ“敵”でももっと冷たい。休んでいるこちらの呼吸の乱れや物音さえ、データとして拾って追ってきそうな気味の悪さがある。
「天城さん」
雫の声がした。
「少しは座れば?」
「寝たら反応できない」
「別に寝ろとは言ってない。座れって言ってる」
振り返ると、彼女は小さく顎をしゃくった。
古びた工具箱の上に、薄汚れた布が一枚敷かれている。おそらく悠斗のために奈央が用意したものだろう。
恒一は数秒迷ってから、その工具箱の端に腰を下ろした。
思った以上に足へ疲労が溜まっていたことに、その時ようやく気づいた。異世界からの帰還直後、連戦、そして十年後の現実を突きつけられた衝撃。心の方が先に固まっていて、肉体の消耗を後回しにしていたらしい。
藤堂が傷口を確認しながら、低く言う。
「夜明け前に動くなら、あと一時間も休めん」
「その“中継避難所”ってのはどこにある」
「地上に出てから三十分ほど。遠くはない」
「俺の実家とは」
「近くはない。ただ、お前の家の方面へ抜けるルート上にある」
その言葉に、恒一の目がわずかに動いた。
雫はすぐにそれを見逃さなかった。
「……まだ行く気でしょ」
「行かない理由がない」
「今の話聞いてた?」
「聞いた上でだ」
「だから、単独で突っ込んでも意味ないって――」
「単独じゃない」
恒一は言い切った。
「お前たちが嫌なら一人で行く。嫌じゃないなら案内してもらう」
「結局脅してるのと同じじゃん」
「脅してない。選択肢を出してるだけだ」
「面倒くさい言い方するなあ……」
雫は頭を抱えた。
だが、そのやり取りを聞いていた奈央が、おずおずと口を開く。
「あの……朝になれば、地上の見通しは少し良くなります。巡回も夜とは動きが変わるはずですし……」
「奈央さんまで」
「でも、家を見たい気持ちは分かるんです」
彼女は悠斗を抱いたまま、静かに続けた。
「わたしも最初、夫の職場まで行こうとして、みんなに止められました。それで喧嘩もしました。でも……見ないと前に進めないことって、あるから」
恒一は奈央の顔を見た。
彼女の表情は穏やかだったが、その奥には深い傷があった。おそらく“見に行った先で何を見たか”を、今は語らないだけだ。
藤堂が短く息を吐く。
「……俺は反対だったが、ここまで来ると止めきれんか」
「だったら」
「ただし条件がある。明るくなってからだ。夜の市街は人間のフィールドじゃない」
「分かった」
「本当に?」
「本当だ」
雫がじっと恒一を見た。
まるで、この男が今さら嘘をつくかどうか見極めようとしているようだった。数秒の沈黙のあと、彼女は諦めたように肩を落とす。
「……じゃあ、行く」
「お前もか」
「地理が分かるの私だけって言ったでしょ。それに、今の天城さんを一人で行かせたら、絶対途中でまた派手にやる」
「派手にやる気はない」
「信用できない」
きっぱり言われ、恒一は少しだけ口元を歪めた。
異世界ではセレフィアあたりがよくこういう顔をした。無茶を言い出した時の、呆れと不満と、それでも見捨てない意志が混ざった顔だ。
そのことを思い出した瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。
セレフィア。
リュミエル。
カレン。
ミレーネ。
ノクス。
置いてきたはずの名前が、やけにはっきり浮かぶ。
別れたばかりだ。当たり前だ。だが今いるのは異世界ではなく、十年後の東京の地下設備室だ。その落差に脳が追いつかない。
「……天城さん?」
雫の声で意識が戻る。
「何でもない」
「そういう“何でもない”って、大体何かあるよね」
「俺のいた世界では、そういう顔をした仲間がいた」
「……へえ」
雫は少しだけ目を細めた。
「異世界の?」
「ああ」
「会いたい?」
「……さあな」
「嘘」
「うるさい」
だが否定しきれない。
本当は、会いたい。今すぐにでも。
帰ってきたかったはずの日本で、最初に感じた喪失がそれなのは、我ながらどうかと思う。だが、十年の時間を共に生き抜いた相手たちだ。簡単に切れるわけがない。
その後、一行は交代で短い仮眠を取った。
悠斗が先に眠り、奈央がその背を撫でながらうとうとし、藤堂は傷を抱えたまま壁にもたれて浅い眠りに落ちた。雫は最初こそ寝るつもりがないと言い張ったが、恒一が「足手まといになるな」と言った途端に不機嫌そうな顔で横になり、三分も経たず眠った。
目を閉じた彼女の顔は、ようやく年相応に見えた。
起きている時の張り詰めた空気が抜けると、まだ十七の少女だと分かる。こんな場所で、こんな世界で、そういう当たり前を奪われてしまったことに、恒一はどうしようもない苛立ちを覚えた。
やがて、地上から伝わる空気の質が少しだけ変わる。
夜の底が薄くなり、朝が近づいてきたのだ。
「起きろ」
恒一の低い声で、雫たちが順に目を覚ました。
藤堂が顔をしかめる。
「……眠った気がしねえ」
「寝られるだけマシです」
奈央が苦笑する。
「それもそうか」
雫は髪を手ぐしで乱暴に整えながら、まだ少し眠そうな顔で言った。
「地上に出たら、まず北西側の裏通りを使う。大通りは見通しがいいけど、その分巡回機も多い。建物の陰を拾って、なるべく空を見せないルートで行く」
「空を見せない?」
「ドローンに見つかるから」
「なるほど」
「あと、音。瓦礫を踏むな。ガラスも避けろ。やつら、見てなくても音を拾う」
「分かった」
「本当に?」
「何回聞くんだ」
「そのくらい信用が薄いってこと」
そんなやり取りをしながら、彼らは設備室を出た。
保守通路を進み、半壊した階段を上がる。
最後に開け放たれた点検扉の隙間から、冷たい朝の光が細く差し込んでいた。
恒一は一瞬、息を止める。
日本の朝だ。
異世界にも朝はあった。
霧の立つ森の朝、白い城壁を照らす朝、雪原を青く染める朝。だが、日本の朝の空気は、もっと平たく、薄く、どこか生活の匂いがしていた――はずだった。
扉を押し開ける。
外気が頬を撫でる。
そして目に飛び込んできた光景に、恒一はゆっくりと瞬きをした。
朝焼けの東京は、美しくなどなかった。
灰色の空。
煙でくすんだ雲。
ところどころで燻り続けるビル群。
崩れた高架の骨組み。
信号の消えた交差点。
打ち捨てられた車両。
そして、遠方のビル屋上を横切る黒いドローンの影。
明るくなった分だけ、破壊の輪郭がはっきり見えた。
「……うわ」
雫が小さく呟く。
毎日見ているはずの景色だろうに、それでも朝の廃墟は人の心を削るらしい。
地上へ出ると、藤堂が周囲を警戒しながら先導した。
「今のところ近場に反応はなさそうだ。だが長居はできん」
「実家はどっち」
「この先を右。二つ目の区画を抜けた先」
恒一はうなずく。
一行は物音を立てないよう進んだ。
裏通り。シャッターの焼けた商店。割れた自販機。壁に残る古い選挙ポスターの痕。
かつて何でもない風景だったものが、今は全部“亡骸”に見える。
その途中、恒一の足がふと止まった。
路上に、ひしゃげた自転車が転がっている。
どこにでもある学生用の自転車だ。前籠は潰れ、後輪は完全に曲がっている。だが、ハンドルに巻かれた色褪せた反射テープを見た瞬間、昔の記憶が不意に蘇った。
母親が「夜は危ないから」と勝手に巻いた反射テープ。
友達に「小学生かよ」と笑われて、気まずくてそのままにしていたこと。
たったそれだけのことで、胸の奥がきしむ。
「天城さん」
雫が小声で呼ぶ。
「大丈夫」
「大丈夫そうに見えない」
「見たままだろ」
そう返すと、彼女はそれ以上言わなかった。
ただ歩幅を少し落とした。
やがて、住宅地の名残が見え始める。
高層ビルや商業施設の廃墟から少し外れた、低い建物の並ぶ一帯。塀、庭木、集合ポスト。すべてが黒ずみ、崩れ、草に侵されているが、それでも確かに“暮らし”の跡だった。
恒一の呼吸が、無意識に浅くなる。
この先だ。
間違えるはずがない。十年経って景色が変わっても、自分の家へ帰る道ぐらい体が覚えている。
角を曲がる。
その先にあった光景に、恒一は立ち尽くした。
家は――なかった。
正確には、家だったものの痕跡だけがあった。
焼け焦げた基礎。
崩れた壁材。
黒く炭化した柱の残骸。
庭先だった場所には、ひっくり返った植木鉢と、赤錆びた物干し台の骨組みが転がっている。
風が吹いた。
灰が、かすかに舞った。
「……」
言葉が出ない。
恒一は一歩、また一歩と敷地の中へ入っていく。
足元で、焼けた木片が乾いた音を立てた。
ここにあった。
間違いなく、自分の家が。
朝、母親が起こしに来て、父親が新聞を読んで、夕方には味噌汁の匂いがして、試験前になると「一夜漬けするくらいなら普段からやれ」と怒られていた、あの家が。
今はもう、形もない。
恒一はしゃがみ込み、焦げた木片のひとつを拾い上げた。
軽い。指先で触れただけで黒い粉になって崩れる。
そのすぐそばに、白く欠けた陶器片が落ちていた。
拾ってみると、小さな青い花模様がついている。
母親が朝食で使っていた皿だった。
「っ……」
喉の奥が詰まる。
さらに視線を巡らせると、半ば埋もれたアルバムの残骸が見えた。
表紙は焦げ、ページのほとんどは燃えていたが、一部だけ残っている。そこに写っていたのは、幼い頃の自分と両親だった。海へ行った時の写真だ。父親が日焼けしすぎて、母親に笑われていた。
紙は指先に触れた瞬間、ぱらりと崩れた。
「……くそ」
声が漏れる。
怒りでも、悲しみでもない。
もっと輪郭のない、どうしようもない喪失感だった。
雫たちは少し離れた場所で黙っていた。
奈央は悠斗の目をそっと手で覆い、藤堂は視線を逸らして立っている。
恒一は立ち上がり、家の跡を歩いた。
居間があった辺り。台所だった辺り。自分の部屋だった辺り。
全部、曖昧な線になっている。
ふと、基礎の端に、金属の何かが覗いているのが見えた。
しゃがみ込んで掘り起こすと、ひしゃげた自転車のフレームだった。学生用。傷の位置も、色も見覚えがある。
自分の自転車だ。
そこまで確認した瞬間、ようやく現実が胸に落ちた。
十年。
空白ではなかった。
この家はちゃんと時間の中にあって、そして壊れたのだ。燃えたのだ。失われたのだ。
「天城さん……」
雫の声。
恒一は顔を上げないまま言った。
「家族の痕跡、何か残るとしたらどこだ」
「え」
「避難誘導の印とか、搬送記録とか、そういうのだ」
「……待って、探すの?」
「探す」
声が、自分でも驚くほど低かった。
雫は少し迷ってから、敷地の入口付近を指差した。
「初期の避難では、家屋にスプレーやマーキングで確認印を残してた区域もあるって聞いた。でもここ、焼けてるし……」
「壁が残ってる場所は?」
「たぶん塀か基礎沿い」
恒一はすぐに動いた。
塀の残骸、基礎の外側、門柱だった場所。黒焦げのコンクリートを手で払い、崩れたブロックをどける。
そして、敷地の外れ。
半ば倒れた門柱の裏側に、薄く残った蛍光塗料の跡を見つけた。
「……これか」
白ではなく、退色した黄色。
文字というより記号に近いが、人工的なマーキングだ。
雫がすぐに駆け寄る。
「見せて」
「読めるのか」
「完全には。でも、これ……避難確認の略号っぽい」
彼女は指で埃を払う。
「“済”の簡略記号と、人数……かな。二、いや三?」
「三人」
「多分。あと矢印……北西方向」
藤堂も近づいて目を細めた。
「旧避難誘導の印だな。初期の頃、自衛隊と自治体が混ざってやってた簡易マーキングに近い」
「つまり?」
「少なくとも、この家にいた人間は避難誘導の対象として確認された可能性が高い」
恒一の胸が、わずかに熱を持った。
「生きて逃げたかもしれないってことか」
「そう断定はできん」
藤堂はすぐ釘を刺す。
「確認しただけで、その後どうなったかは分からん。誘導中に襲われた例も、途中ではぐれた例もある」
「それでもゼロじゃない」
「……ああ。ゼロじゃない」
その言葉だけで、少し息ができた。
奈央がそっと言う。
「よかった、ですね……」
「よかった、でいいのかは分からない」
「でも、何もないよりは」
それはその通りだった。
完全な絶望ではなかった。
この家にいた三人は、少なくともどこかへ向かった。その事実だけで、焼け跡はただの終わりではなくなる。
恒一は門柱の印をもう一度見つめた。
三人。北西。避難確認。
父親と母親、そして自分の三人を想定した記号か。
それとも別の誰かがここにいたのか。
確証はない。だが今の恒一には、確証よりも“痕跡がある”ことの方が大きかった。
雫が静かに言う。
「……ごめん」
「何が」
「さっき、無理だって決めつけたこと。ここ、来てよかったかもしれない」
「お前が間違ってたわけじゃない」
「でも、止めようとした」
「止めなきゃならない状況だったのも事実だ」
恒一はそこでようやく顔を上げた。
「ただ、俺は来なきゃ駄目だった」
雫はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「うん」
その時だった。
藤堂の表情が変わる。
「伏せろ!」
低い怒鳴り声と同時に、全員が反射的に身を沈める。
次の瞬間、上空を黒い影が横切った。
ドローン。二機。
高い位置を旋回しながら、この一帯をスキャンしている。
恒一は咄嗟に魔力を練りかけたが、藤堂が鋭く囁く。
「撃つな! 音と光で他を呼ぶ!」
「だが」
「今はやり過ごせ! 朝の巡回は連携が速い!」
歯を食いしばり、恒一は魔力を収める。
ドローンはしばらく上空を回ったが、焼け跡の熱源が古すぎるのか、あるいは瓦礫に身を伏せた人間を認識し損ねたのか、そのまま別方向へ去っていった。
全員が息を吐く。
「危な……」
雫が額の汗を拭う。
「だから長居は駄目なんだって」
それでも、恒一は最後にもう一度だけ振り返った。
焼けた家。
崩れた生活。
だが門柱の裏には、確かに“続き”を示す痕跡が残っていた。
終わっていない。
そう思えた瞬間、喪失の底に、別の熱が灯る。
「……探す」
自然と声に出ていた。
「家族も」
そこで一度言葉を切り、焼け跡の向こう、崩れた東京の街並みを見る。
「この国も。まだ終わってないなら、探して、取り戻す」
雫が息を呑んだ。
藤堂は何も言わず、ただじっと恒一を見た。
奈央は悠斗を抱き寄せながら、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
その言葉は、誰かに聞かせるための宣言ではなかった。
自分自身に向けた確認だ。
異世界で魔王を倒した最強賢者。
そんな肩書きは、ここでは何の意味もないかもしれない。
だが、自分にできることがあるなら、それをやる理由はもう十分すぎるほどある。
焼け跡に立つ恒一の胸の中で、十年の空白はまだ痛み続けていた。
それでも、その痛みはもう立ち尽くすためのものではない。
動くための痛みだった。
遠くで、砲撃音が響いた。
重く、鈍く、空気の奥を揺らすような連続音。
続いて微かな振動が足元を走る。
藤堂が顔を上げる。
「……防衛線が近い」
「防衛線?」
恒一が聞き返す。
「この辺の外縁防衛区だ。押されてる時の音に似てる」
雫の顔色が変わる。
「ここからそう遠くないはず。もし崩れたら、この一帯も一気に危なくなる」
「中継避難所へ急ぐぞ」
藤堂が言う。
「情報を取るにしても、まずは生き延びる方が先だ」
恒一は最後に一度だけ、門柱の印へ手を触れた。
冷たいコンクリートの感触が、妙に現実的だった。
「……行くか」
そう呟いて、彼は焼け跡を後にした。
失ったものは大きい。
だが、失われたままだと決まったわけではない。
焼け落ちた家の跡に残された小さな印が、天城恒一を次の場所へ押し出していた。
防衛線の砲声が鳴る朝の東京で、彼の帰還はようやく“戦う理由”を得たのだった。




