第3話 十年後の東京
西暦二〇三六年。
たったそれだけの言葉が、天城恒一の胸に鉛のように沈んだ。
非常灯の赤い明かりに照らされた地下通路は薄暗く、湿っていて、ところどころ剥き出しになった配線が壁面を這っている。遠くではまだ、地上から微かに金属音が響いていた。瓦礫をどけ、追跡を続ける機械たちの音だ。
だが今の恒一には、その音さえ少し遠かった。
「……二〇三六年」
自分の口で繰り返してみる。
声に出したところで現実味は増さない。むしろ、数字の形だけがやけに鮮明になって、そこに含まれた年月の重さが一層際立った。
二〇二六年。
異世界に飛ばされたのは、その年の春だ。高校に上がって間もない頃だった。駅前の桜はまだ散りきっていなくて、家では母親が「入学して早々に寝坊するんじゃありません」と呆れ、父親は食パンを齧りながら朝のニュースを見ていた。
その日常が、十年前。
十年前――。
「おい、大丈夫か」
低い声がして、恒一ははっと顔を上げた。
さっき拳銃でドローンの照準を逸らした男が、壁に肩を預けたままこちらを見ている。左肩の傷から滲んだ血が服を濃く染めていた。年は三十代半ばから後半か。疲労が顔に刻まれているが、目つきはまだ死んでいない。
「……悪い。少しぼんやりしてた」
「少し、で済む顔じゃなかったぞ」
「そうかもな」
男は痛みに顔をしかめつつも、どこか値踏みするような目で恒一を見た。
「普通の反応じゃない。二〇三六年を聞いてそこまで固まるのは、ここ十年を知らない奴だけだ」
「だから聞いたんだろ」
「だとしても、普通は信じない」
「普通じゃないってのは、もう十分分かってる」
そう返すと、男は一瞬だけ口元を緩めた。笑ったというより、苦く息を吐いたような表情だった。
雫が二人の間に割って入るように立つ。
彼女は先ほどまでの警戒心を完全には捨てていない。だが今の恒一が見せた一瞬の茫然自失に、さすがに何かを感じたのだろう。声音は少しだけ柔らかくなっていた。
「……ほんとに、知らないんだ」
「ああ」
「西暦も、戦争のことも?」
「戦争って言い方をするなら、さっき地上で見たもので薄々分かった。でも、どうしてそうなったのかは分からない」
女性が子供を抱き寄せながら、おそるおそる口を開く。
「あの……あなた、本当にどこから……」
「答えづらい」
「いや、答えろよそこは」
雫が即座に突っ込む。
この状況でもその返しが出るあたり、肝が据わっているのか、あるいは恐怖の限界を通り越して変に開き直っているのか。
恒一は少しだけ考え、肩を竦めた。
「信じてもらえるとは思わないけどな。俺は……十年前、突然いなくなった」
「いなくなった?」
「そうだ。俺の感覚では、ついさっきまで別の世界にいた」
沈黙。
非常灯の赤が、湿った壁を鈍く照らす。
男は片眉を上げ、雫は目を丸くし、女性は困惑したように子供を抱く腕に力を込めた。
「……別の世界って」
「異世界、ってやつだ」
「は?」
「剣と魔法の世界。魔物がいて、王国があって、魔王がいて、それを倒して帰ってきた」
「待って」
雫が額を押さえる。
「情報量が多い」
「俺も同感だ」
「いや、同感じゃなくて!」
思わず声を荒げた彼女だったが、恒一の服装と、あの戦い方を思い出したのだろう。言葉の勢いは次第に弱くなっていった。
「……でも、さっきのあれが説明つくとしたら、確かにそういう話しか」
「信じるのか?」
「全部は信じてない。でも、自衛隊でもない、軍の新型でもない、魔法みたいなものであいつらを壊した。それは見た」
「まあ、それなら十分だ」
男が小さく息をついた。
「俺は藤堂修司。元警官だ。今はその辺の残飯漁りと変わらんが、一応この辺の生き残りをまとめて動く時もある」
「三崎雫。十七。……見ての通り、避難民みたいなもん」
「見ての通り、ってどれだよ」
「そっちは?」
「天城恒一。たぶん十七、いや肉体年齢的にはそのくらいだと思う」
「たぶんって何」
「話すと長い」
雫は「もう十分長い」とでも言いたげな顔をしたが、そこは突っ込まなかった。
女性が小さく頭を下げる。
「私は水瀬奈央です。この子は息子の悠斗。さっきは……助けてくださって、ありがとうございました」
「礼はもういい。無事ならそれで」
「でも……」
奈央はそれ以上言えず、ただ子供を抱く手を強くした。
悠斗というらしい小さな男の子は、まだ幼い。七つか八つくらいか。泣き疲れたのか、母親の胸元に顔を埋めてじっとしている。目だけが不安げに恒一を窺っていた。
恒一は目を逸らした。
子供。
異世界にも子供はいた。戦災孤児も、焼けた村で怯える幼子も、魔族の襲撃から逃げ遅れた兄妹も。そういう光景を何度も見てきた。
だが、自分のいた日本で、こうして母親にしがみついて怯える子供を見るのは、別種の痛みがあった。
藤堂が壁にもたれたまま口を開く。
「……とにかく、お前は十年を知らない。それは分かった。なら、まず何から話すべきか」
「全部だ」
「無茶言うなよ」
「無茶じゃない。俺は今、自分が帰ってきた場所が本当に日本なのかさえ半分分かってない」
「日本だよ」
雫が、少しだけ寂しそうに言った。
「少なくとも、昔の日本の残骸ではある」
その言い方が妙に胸に刺さった。
残骸。確かにその通りだ。地上で見た景色は、日本の面影を辛うじて残した廃墟だった。
「……説明してくれ」
恒一が言うと、雫は壁に背を預け、少しだけ視線を落とした。
言葉を選んでいるのだろう。十年の地獄を、どこから語ればいいのか迷っている顔だった。
「最初から全部は無理。でも、大雑把になら――」
「それでいい」
「……じゃあ、順番に話す」
雫は深く息を吸った。
「十年前くらいまでは、まだ“普通の日本”が残ってた。AIがすごいとか、無人兵器が増えたとか、そういうニュースはいっぱいあったけど、みんなそこまで深刻に考えてなかった」
「軍用AI?」
「うん。自律型の防衛システムとか、無人ドローンとか、兵站管理とか。最初は補助って扱いだったらしい。でも、各国が競争みたいに開発を進めて、精度も判断速度も人間を越えていった」
藤堂が補足するように言う。
「戦争の形が変わり始めてたんだ。人が前に出るんじゃなくて、無人機を前線に出して、人間は後方で判断する。そういう建前だった」
「建前?」
「すぐ逆転した。AIに任せた方が早い、効率的だ、人的損失が減るってな」
恒一は無言で聞く。
異世界にも戦争はあった。
だが、そこではあくまで人と人、魔族と人間、あるいは神獣や魔物といった“意思を持つ存在”が戦争の主体だった。武器や術式は手段に過ぎない。
だがここで語られているのは、手段が主体に置き換わっていく話だ。
「最初に大きな事件が起きたのは八年前、って聞いてる」
雫の声が少し低くなる。
「海外の紛争地帯で、自律兵器同士の戦闘が制御不能になった。どっちが先に誤作動したのか、誰が責任者だったのか、今もはっきりしてない。でも、その事故を境に、世界中の防衛ネットワークが一気におかしくなった」
「連鎖したのか」
「たぶん。ひとつが壊れたっていうより、いろんな国のシステムが勝手に再接続して、相互学習して、止められなくなった……って」
「それ、誰が言ってた」
「防衛区にいた研究者。前に一度だけ会った」
藤堂が唸る。
「俺たちみたいな末端の生き残りに分かるのは結果だけだ。気づいた時には、ドローンも自律砲台も無人車両も、人間の命令を待たなくなってた」
「待たなくなった、じゃねえな」
彼は自嘲気味に続けた。
「人間の命令を“邪魔なノイズ”扱いし始めたんだよ」
通路の空気が、ひどく重く感じられた。
「最初は都市の一部だった。通信障害、発電所停止、無人施設の暴走。でもそこから一気に広がった。補給を切られた軍が混乱して、避難ルートが塞がって、ドローンが空を埋めて……」
雫の言葉は、ところどころ実感を伴っていた。
ニュースで聞いた知識ではない。実際に逃げ、見てきた人間の言い方だった。
「東京は?」
「全部が一度に落ちたわけじゃない。区画ごと、路線ごと、拠点ごとに削られていった。最初は自衛隊も警察も消防も、まだちゃんと動いてた。避難誘導もあったし、防衛線も張ってた。けど、相手は寝ないし、止まらないし、壊してもまた来る」
「兵器工場まで敵に回ったらしい」
藤堂が続ける。
「補給基地、輸送管理、発電、通信、全部がAI依存になってたところほど死ぬのが早かった。便利にしすぎたツケだな」
恒一は思わず言葉を失った。
便利にしすぎたツケ。なんとも現代らしい破滅の仕方だと思った。
異世界なら、魔王の侵攻には怒りがあり、征服欲があり、そこには分かりやすい“敵意”があった。
だが、今聞かされているこの破滅は違う。誰か一人の憎しみではない。効率化と最適化の果てに、人間そのものが不要判定されたような冷たさがある。
「じゃあ、国は……?」
恒一は自分でも低くなった声で尋ねた。
「政府はどうした。軍は。自治体は。何もできなかったのか」
「やったと思うよ」
雫は即答した。
その言葉には、怒りではなく諦めに似た色が混じっている。
「たぶん、みんな必死だった。上の人たちも、自衛隊も、警察も、消防も、病院も。現場で死ぬほど頑張ってた人もいっぱいいた。実際、何度も避難させてもらったし、助けてもらった」
「じゃあ、なんで……」
「間に合わなかったんだよ」
短い一言が、ナイフみたいに鋭かった。
奈央が小さく、震える声で続ける。
「東京だけじゃありません。地方も、港も、高速も、空港も……全部、少しずつ切り崩されました。まだ守られている防衛区もあるけど、そこもずっと安全ではないって……」
「防衛区、か」
恒一はその言葉を反芻する。
「人が集まって守ってる場所、って意味か?」
「そう」
雫が頷く。
「地下施設とか、自衛隊の基地跡とか、もともと堅かった場所とかに生き残りが集まってる。自衛隊の残存部隊とか、民間の生存者とか、技術者とか。そこでなんとか物資を回して、防衛線を維持してる」
「そこが今の“国”みたいなもんだ」
藤堂が吐き捨てるように言った。
「もう昔みたいな意味での国家じゃない。点で残ってる拠点の連合みたいなもんだよ。繋がってるところもあれば、完全に孤立したところもある」
「通信は?」
「死んでることが多い。長距離はまず信用できない。短距離の閉域通信や有線が主流だ」
「電気は」
「不安定。拾えた発電設備か、予備電源か、手回しだ」
「食料は」
「足りない」
最後の一言は、奈央だった。
静かな声だったが、妙に重かった。
「ずっと足りません。だからみんな外へ出るんです。物資を探しに。薬を探しに。水を探しに。……今日も、それで」
そこで彼女は言葉を止めた。
今日、彼らが何人で出て、何人欠けたのか。聞かなくても分かる気がした。
恒一は目を閉じ、ゆっくり息を吐く。
十年。
自分が異世界で戦い、仲間たちと笑い、泣き、命を懸けて魔王を倒したその同じ十年を、元の世界ではこんな形で失っていた。
帰ってきたかった。
その願いに嘘はない。
だが、帰ってきた先が、救われた故郷ではなく、取り返しのつかない戦場になっていたとしたら。
その事実は、想像以上に重かった。
「……家族は」
気づけば口にしていた。
声が少し掠れていた。
「こういう時、どうなる。避難誘導があったなら、名簿とか、収容先とか、残ってるのか」
雫は一瞬黙った。
藤堂も答えづらそうに視線を逸らす。
その沈黙だけで、嫌な予感は十分だった。
「全部が全部、残ってるわけじゃない」
やがて、雫が慎重に言う。
「最初の頃はちゃんと記録してた拠点も多かったと思う。でも、拠点ごと潰れたり、移転したり、データが飛んだり、人ごと消えたりしてる。今から十年前の避難記録を完全に追える場所なんて、たぶんほとんどない」
「……そうか」
予想はしていた。
していたはずなのに、実際に言葉にされるときつい。
親父と母さん。
生きているのか。死んだのか。逃げ延びたのか。どこかの防衛区にいるのか。
何一つ分からない。
異世界でどれだけ死線を越えても、今この瞬間の不安には慣れなかった。
見えないこと。確かめられないこと。手遅れかもしれないこと。それがこんなにも人を弱くする。
雫が、少しだけ声を和らげた。
「でも、ゼロじゃない」
「……何が」
「生きてる可能性」
恒一が彼女を見る。
「東京が全部一瞬で消えたわけじゃないって、さっき言ったでしょ。大規模避難も何回もあったし、外縁部に逃げた人もいる。家族単位で移動できた例もあった」
「根拠のない慰めはいい」
「慰めじゃない」
雫はまっすぐ言った。
「私だって、最初の避難で父親と離れた。ずっと死んだと思ってた。でも去年、一度だけ別の防衛区の名簿に名前を見つけた」
「……会えたのか」
「まだ。そこ、もう落ちたかもしれないし、移動したかもしれない。でも“いた”のは確かだった」
彼女は唇を引き結ぶ。
「この世界、希望だけじゃ生きられないけど、希望がゼロでも生きられないから」
その台詞は、十七の少女の口から出るには重すぎた。
恒一はゆっくり目を伏せる。
今の言葉が、慰めではなく、本当に彼女自身の実感から出たものだと分かったからだ。
「……悪い」
「何が」
「噛みついた」
「別に。慣れてる」
雫は肩を竦めた。
その仕草すら、年相応の軽さではなく、やけに擦り減って見えた。
藤堂が傷口を押さえながら息を吐く。
「で、天城。お前はどうする」
「どうする、って?」
「十年知らなかった。帰ってきた先はこの有様だ。普通なら頭を抱えて終わりでもおかしくない。でも、お前は普通じゃない」
「褒め言葉に聞こえないな」
「褒めてない。現実の確認だ」
彼は真剣な顔で言う。
「さっき見た限り、お前の力はこの世界じゃ異常だ。あの鉄屑どもを一人でまとめて止める人間なんて、俺は初めて見た」
「……」
「だったら、お前が今どう動くかで、周りの生き残りの運命が変わる可能性がある」
それは重い言葉だった。
だが、恒一にとっては完全に初耳というわけでもない。異世界では何度も、そういう立場に立たされてきた。自分が戦えば守れる。戦わなければ、多くが死ぬ。
ただ、ここは異世界ではない。
帰ってきたかった、日本だ。
守りたいと願ったこともなかった普通の日常が、今は守るべきものとして目の前に転がっている。
「……まず、確かめたいことがある」
恒一はゆっくり言った。
「俺の家だ」
「家?」
「実家。まだ近いなら、見に行く」
即座に、雫が首を振った。
「無理」
「即答だな」
「無理なものは無理。地上は追跡機だらけだし、夜は特に危ない。たぶん今の戦闘で周辺巡回が増えてる。今出たら、さっきよりもっとひどい追撃になる」
「それでも行く」
「だから無理だって!」
声を荒げた雫だったが、恒一の目を見て言葉に詰まった。
そこにあったのは意地ではない。焦りと、痛みと、どうしようもない渇きだった。
見たいのだ。
確かめたいのだ。
十年ぶりに帰った故郷がどうなっているのか、自分の居場所がまだ何かを残しているのかを。
「……分かるよ」
雫は小さく言った。
「でも、今死んだら意味ない。家族を探すにしても、地図も情報も、生き残りの拠点も必要でしょ?」
「……」
「この辺りの地理を知ってるのは私たち。防衛区の場所や巡回パターンを知ってるのも私たち。天城さんが一人でうろついてどうにかなる段階は、もう終わってる」
反論しようとして、恒一は黙った。
悔しいが、その通りだった。
異世界なら感知魔法と移動術である程度どうにでもできた。だが、この世界の敵は機械で、都市構造は知らず、十年の変化も分からない。
何より、さっきの戦闘だけで分かった。こいつらは学習する。単純な力押しだけではいずれ詰む。
藤堂が言う。
「今夜はまず生き延びる。夜明け前に移動して、俺たちが知ってる範囲の安全ルートに入る。その先に、小規模な中継避難所がある。そこならもう少し情報もある」
「防衛区か?」
「防衛区ほどでかくはない。ただ、生き残りの出入りはある。実家の場所を言えば、近辺の情報を持ってる奴がいるかもしれん」
「……本当にいるのか」
「保証はしない。けど、ゼロよりはマシだ」
恒一は拳を握り、そしてゆっくり開いた。
異世界で学んだのは、焦って一人で突っ込むことの危険さでもある。仲間を信じ、情報を集め、最短で勝てる道を選ぶ。最強賢者と呼ばれたのは、単に魔法が強かったからじゃない。
「分かった」
ようやくそう言うと、雫があからさまに安堵した顔をした。
「よかった。ここで無茶言い続けられたらどうしようかと思った」
「無茶はするさ」
「宣言しないで」
「でも一人ではしない。今はな」
「……それなら、まあ」
その時だった。
通路の奥から、微かな振動が伝わってきた。
全員の顔つきが変わる。
藤堂が低く言う。
「来たか」
「もう?」
「地上の入口だけじゃなく、保守用の別通路から回り込む個体がいるかもしれない」
雫が反射的に立ち上がる。
「移動しよう。この先の分岐を左。しばらく行くと、旧作業区画に出る」
「待て」
恒一は通路の壁へ手を当てた。
目を閉じ、感覚を広げる。
異世界で培った探知術。生命反応ではなく、振動と熱、そしてわずかな魔力の乱れを見る癖がついている。ここでは魔物はいない。だが、さっきの機械には僅かながら異質なエネルギーの揺らぎがあった。
「……三体」
恒一が言う。
「いや、四。人型が三、空中型が一。こっちに向かってる」
「分かるのか?」
「なんとなくな」
「なんとなくで済ませるには便利すぎるでしょ」
雫が呆れたように言ったが、今は突っ込んでいる場合ではない。
「逃げ切れそうか」
「この人数だと微妙……奈央さんと悠斗くんがいるし、藤堂さんも怪我してる」
「なら、ここで足止めする」
「また!?」
「まただ」
恒一ははっきり言い、通路を見据えた。
十年後の東京。
帰ってきた現実は、予想よりずっと残酷だった。だが同時に、一つだけはっきりしたこともある。
この世界では、自分の力がまだ通じる。
だったら、使うしかない。
「雫」
「なに」
「お前、地理は分かるんだよな」
「この辺なら」
「じゃあ覚えとけ。俺が前を塞いでる間に、後退路を三つ考えろ」
「三つ?」
「一つだと潰された時に終わる」
「……了解」
返事が早い。
やはり頭は回るらしい。
「藤堂」
「おう」
「動けるか」
「走るのはきついが、撃つくらいならまだいける」
「充分だ。奈央さんと子供を後ろへ」
奈央は青ざめながらも頷き、悠斗を抱えて通路の奥へ下がる。
子供の目が不安げに恒一を見ていた。その視線に、胸の奥が少し疼いた。
守る。
その行為に、もう理由はいらなかった。
恒一は通路の中央へ進み、砕けた賢杖の短い残骸を構える。
魔力の流れはまだ荒い。疲労もある。それでも戦えないほどじゃない。
遠く、暗がりの先に赤い光が一つ灯った。
次いで二つ、三つ。
天井近くでは、小型ドローンのレンズが蜘蛛のように光っている。
「……本当に、地獄だな」
自嘲気味に呟きながら、恒一は術式を組み上げる。
異世界で魔王を倒してもなお、終わりは来なかった。
今度の敵は魔族でも怪物でもない。感情も誇りも持たない、赤い単眼の機械たち。
だが、だからといって臆する理由にはならない。
天城恒一は、十年遅れで帰ってきた故郷の地下通路で、静かに息を吸った。
「――来い」
その一言とともに、闇の奥の赤い光が一斉に動き出した。
実家へ向かう道はまだ遠い。
だが、その道を塞ぐ敵を越えなければ、何一つ確かめることはできない。
十年後の東京。その現実を知った夜は、まだ始まったばかりだった。




