第2話 赤い単眼、追撃開始
赤い光の群れが、闇の奥で一斉に明滅した。
それはまるで、夜そのものがこちらを見返してきたような光景だった。
崩れたビルの窓。横転した車の影。砕けた高架下。ありとあらゆる暗がりの中に、無機質な赤い単眼が浮かんでいる。
ギ、……ギ、……ギ、……。
複数の金属音が重なり、冷たい規則性を帯びながら近づいてくる。
頭上からは高周波の羽音。黒い空を切る無数の小さな影が、円を描くように旋回し始めていた。
「……っ、ドローンまで」
背後で、さっきの少女が低く息を呑んだ。
恒一は振り返らない。
目の前の赤い光を数える。
地上に少なくとも六。
空中に四、いや五。
しかも最初に倒した一体より、体格の違う個体が混ざっている。細身の人型だけではない。肩幅の広い重装型らしき影と、四つ足に近い低いシルエットまで見えた。
帰還直後にしては、ずいぶん豪華なお出迎えだ。
「全員、下がれ。瓦礫から離れて、なるべく固まるな」
恒一が短く言うと、背後の男が痛みに顔をしかめながらも反応した。
「お、おいあんた、本気でやるつもりか!? 数が多すぎる!」
「逃げ場があるならそうする。でもここは通りが狭い。背中を見せたら、空のやつに撃たれる」
「……っ」
少女が唇を噛む。
状況を理解したのだろう。逃げ道のない市街地で、空と地上の両方から追われるのは最悪だ。
女性は子供を抱きしめたまま、震える声で言った。
「ど、どうすれば……」
「耳を塞げ。目をつぶるな。倒れても立て。俺の魔法に巻き込まれたくなければ、言った通りに動け」
自分でも驚くほど、声は冷えていた。
異世界で何度も修羅場を潜った時の口調だ。優しく説明している余裕はない。
少女がきっと顔を上げる。
「名前」
「何?」
「あんたの名前!」
今、それを聞くのか。
そう思ったが、すぐに理解する。見知らぬ怪物みたいな男に命を預けるのだから、せめて名前ぐらいは知っておきたいのだ。
「天城恒一」
「……私は三崎雫」
「後で覚える」
恒一が言い終わるのと、最初の敵が飛び出してくるのは同時だった。
ダンッ、とコンクリートを砕く踏み込み。
骸骨じみた頭部、赤い単眼、銀灰色のフレーム。だが今度の個体は右腕が銃ではなく、両腕とも細長い刃のような形状をしている。近接戦特化型か。
《対象群ヲ捕捉》
《排除行動ヲ開始》
《追加抵抗戦力ヲ確認》
《優先排除対象、更新》
「早いな!」
恒一は左手を前へ突き出した。
「風壁!」
透明な風の層が前方に展開する。
そこへほぼ同時に、左右から別個体の銃撃が叩き込まれた。乾いた破裂音とともに火花が散り、風壁に無数の波紋が走る。
狙いが正確すぎる。
しかも一体が前に出て注意を引き、他が横から撃つ。初撃から連携が完成している。
「こいつら、ただ突っ込んでくるだけじゃないのかよ……!」
異世界にも統制の取れた敵軍はいた。魔王軍の精鋭、帝国の魔導騎兵、群体知性を持つ蟲種。
だが目の前の連中の気味悪さは、それらと少し違う。怒りも殺気もない。ただ最短の排除効率だけを追っている。
空のドローンが旋回軌道を変えた。
一機、二機、三機――同時に急降下してくる。
「頭上っ!」
雫の叫び。
恒一は即座に杖を振り上げた。
「落ちろ!」
放たれた稲妻が空中で枝分かれし、ドローン群に食らいつく。
甲高いスパーク音。黒い影の二つが火を噴いて墜落し、道路へ激突する。
だが残る三機は散開した。
雷撃の軌道を見て回避角を変えたのだ。機械らしい最適化に、恒一の眉が寄る。
「今のを避けるのか……!」
次の瞬間、地上の近接型が風壁に突っ込んできた。
風の層を刃でこじ開け、強引に距離を詰めてくる。そこへ左右の銃撃型が弾幕を被せ、四つ足の低い影が足元を這うように接近してきた。
「ちぃっ!」
恒一は半歩退きながら、地面へ魔力を叩き込む。
「縛鎖陣!」
足元から光る紋様が広がり、敵機の周囲に魔力の鎖が出現した。
近接型の両脚と四つ足機の胴が絡め取られ、一瞬だけ動きが止まる。
その隙に、恒一は右手の指先を鋭く振った。
「雷槍・三連!」
三本の蒼い槍が放たれる。
一つ目が近接型の頭部を貫き、赤い単眼を爆ぜさせる。
二つ目が左の銃撃型の胸部を撃ち抜き、内部から火花と黒煙を噴き上げさせる。
三つ目は四つ足機へ向かった――が、寸前でそいつは自らの前脚一本を切り捨てるように動かし、着弾位置をずらした。
「自分で姿勢を崩して回避した!?」
雷槍は胴の脇を掠めるにとどまり、四つ足機は片脚を失いながらもなお突進してくる。
小型だが速い。低い位置から潜り込んで、足を切断するつもりだ。
恒一は咄嗟に跳躍した。
その足元を銀色の刃が走り抜け、コンクリートを深く裂く。
着地と同時に背中側へ嫌な気配。
「天城さん、後ろ!」
今度は男の声だった。
振り向く暇はない。恒一はその場で身を捻り、咄嗟に残った杖の短身で受ける。
ガキィン! と硬い衝突音。重装型らしき個体の腕部ハンマーが、砕けた賢杖に叩きつけられた。衝撃で右腕が痺れ、体ごと吹き飛ばされる。
「がっ……!」
瓦礫に肩から突っ込み、呼吸が乱れる。
決戦の傷が鈍い熱を持って疼いた。
重装型がゆっくり前へ出てくる。
他の個体より一回り大きく、胸部に厚い装甲板を貼り、頭部も半ば埋没している。両腕の先端は工具のように形状が変化しており、今は右が打撃槌、左が短砲身。対人制圧用の近中距離支援機か。
《対象ノ戦闘能力、再評価》
《脅威判定、B+》
《部隊構成ヲ更新》
《拘束後、分解解析ヲ推奨》
「分解、だと……?」
まるで人を部品扱いする言葉に、恒一の顔が険しくなる。
その背後で、女性がかすかに悲鳴を上げた。
ドローンの一機が低空から回り込み、子供を抱えた彼女へ銃口を向けていたのだ。
「っ、しま――」
恒一の位置からでは間に合わない。
だが、その瞬間。
バンッ!
乾いた発砲音が響いた。
ドローンの機体が大きく揺れ、わずかに照準を逸らす。弾丸は装甲を抜けず弾かれたが、その一瞬で十分だった。
撃ったのは、肩を押さえていた男だった。
どこから拾ったのか小型拳銃を握り、顔を真っ青にしながらも二発、三発と撃ち込んでいる。
「効かなくても、目くらいは逸らせるだろ……!」
「無茶するな!」
恒一は叫びながら、左手を突き出した。
「衝雷!」
短く圧縮された雷の塊が一直線に飛び、女性を狙っていたドローンを吹き飛ばす。
爆ぜた金属片が路上へ散る。
だがその代償に、地上の銃撃型二体が恒一へ一斉掃射を浴びせてきた。
火花。衝撃。障壁を張る暇が足りない。
「くっ――」
咄嗟に身を沈めたが、一発が肩を掠めた。
ローブが裂け、熱い痛みが走る。弾丸そのものではなく、金属片か衝撃波だろう。それでも傷は傷だ。
異世界の魔物相手とは違う。
数、連携、火器、空中支援。これは明らかに“軍”の戦い方だ。しかも感情も疲労もなく、同じ精度でそれを繰り返してくる。
雫が瓦礫の陰から声を絞り出す。
「これ、いつもの追跡部隊より多い……! なんでこんな……!」
「いつもの?」
「この辺は残骸漁りの時にたまに出る。でも普通は二、三体! こんなに一気に来ることない!」
つまり、さっき恒一が倒した一体が何らかの信号を飛ばしたか、あるいは恒一自身が目立ちすぎたか。
どちらにせよ、歓迎されていないのは確かだ。
「天城さん!」
男が息を切らせて叫ぶ。
「こいつら、頭を吹っ飛ばしても動く時がある! 胸も駄目なことが多い! 何体も仲間がやられた!」
「見れば分かる!」
恒一は吐き捨てるように返した。
だがその情報自体は有用だ。構造に個体差がある。外見だけで弱点は決められない。
なら――広く削るより、捕まえて解析する。
恒一は大きく息を吸い、魔力の流れを整えた。
現代日本に帰ってからまだほとんど馴染んでいない空気。異世界より魔力の密度が薄いのか、術式の展開がわずかに重い。だが使えないほどではない。
「……一気に片づける」
自分に言い聞かせるように呟く。
まずは視界を奪う。
次に足を止める。
最後に中枢を焼き切る。
恒一は杖の先端を地面へ叩きつけた。
「霧雷界!」
青白い光が円形に広がり、次の瞬間、戦場一帯に細かな帯電霧が立ち込めた。
普通の煙ではない。魔力を含んだ微細水粒子が電荷を帯び、機械の感知系にノイズを流し込む即席の攪乱霧だ。
赤い単眼が一斉に明滅する。
《視界異常》
《熱源追跡、補助起動》
《索敵パターン変更》
「今だ、しゃがめ!」
雫たちが地面に伏せたのを確認して、恒一は右手を大きく振り上げた。
「重圧陣、三層展開!」
霧の中に三重の魔法陣が浮かぶ。
その中心で、見えない圧力が一気に落ちた。
ドゴッ!
空中ドローン二機が押し潰されるように地面へ叩き落とされ、近接型の脚部フレームがきしみ、四つ足機が地面に腹を擦って火花を散らす。
重装型だけは膝をわずかに沈めた程度で耐えたが、それでも動きは明確に鈍った。
恒一は間髪入れず、左手を横薙ぎに払う。
「雷網!」
稲妻が網のように広がり、霧の中を走る。
帯電粒子と共鳴した雷が敵機の外装を這い回り、関節部や露出配線へ集中して食らいつく。
バチバチバチッ、と激しい放電音。
軽装型の一体が痙攣し、その場で崩れ落ちる。
四つ足機は前脚を失いながらもなおもがくが、動きは半分以下に落ちている。
だが重装型はまだ生きていた。
《対未知エネルギー防御、起動》
《近接拘束ニ移行》
霧を割って、重装型が一直線に突っ込んでくる。
左腕の短砲身が開き、散弾のようなものがばら撒かれた。
「っ!」
恒一は障壁を張る。
だが散弾は障壁に当たった瞬間、小さな炸裂を起こした。単純な実弾ではない。広く削って防御に穴を開けるための弾種か。
障壁が砕け、破片のような光が散る。
重装型の右腕ハンマーが、振り下ろされた。
受ければ終わる。
恒一は半歩踏み込んだ。
「そこだ!」
相手の懐。
大型であるがゆえに、腕を大きく振るう瞬間だけ胸部中央が甘くなる。
恒一は敵の装甲板へ掌を押し当てる。
「解雷穿孔!」
今度は外からではなく、内部を穿つための術だ。
装甲の隙間へ無理やり魔力をねじ込み、電撃を細く鋭く束ねて中枢層へ直接撃ち込む。
重装型の全身がびくりと跳ねた。
赤い単眼が荒れた明滅を繰り返す。
《異常侵入》
《異常侵入》
《制御核温度上昇》
《緊急遮断――》
言い終える前に、胸部の内側から爆発が起きた。
装甲の継ぎ目が裂け、内部の赤黒い結晶体が露出し、そのまま粉々に砕け散る。
重装型が二、三歩よろめき、ビル壁へ激突し、そのまま沈黙した。
残るは二体。
一体は胸部を損傷した銃撃型。
もう一体は片脚と側面を焼かれた四つ足機。
霧の中で、二体の動きが変わった。
正面から来ない。
あからさまに間合いを取り、左右へ散って恒一を中心に回り始める。撃たず、突っ込まず、包囲角度だけを調整している。
「……学習してるのか」
恒一は低く呟いた。
敵は理解したのだ。
正面の強引な突破は危険。雷撃は関節と中枢に通る。近づきすぎれば逆にやられる。
だから距離を取り、視界外から削る。
気味が悪い。
異世界の知能ある敵でも、戦闘中にここまで淡々と戦術更新するものは少なかった。
雫が小さく震える声で言う。
「こいつら……そうやって、だんだん人間の戦い方を真似するんだよ。最初は馬鹿みたいに突っ込んでくるだけなのに、何回も遭ううちに、待ち伏せとか、囮とか、撃ち合いとか……」
「……厄介だな」
ならば長引かせるべきじゃない。
恒一はぐっと魔力を絞る。
大きい術を使えば消耗がきつい。だが今は節約より確実な殲滅が先だ。
「最後だ」
杖を上段に掲げる。
魔力の収束に伴い、霧の中の青白い光が一か所へ吸い寄せられた。
「雷墜――」
残った二体が反応する。
四つ足機は地面すれすれに突進し、銃撃型は横へ跳んで死角へ回り込もうとする。
だが遅い。
「《グラウンド・ノヴァ》!」
轟音とともに、落雷が地面ごと弾けた。
青白い閃光が道路を走り、地上の二体をまとめて包み込む。
アスファルトがめくれ上がり、電流が裂け目から噴き上がり、金属フレームを内側から焼いていく。
四つ足機が真横に吹き飛び、ビルの壁面に叩きつけられて動かなくなる。
銃撃型は数歩ふらついたのち、頭部と胸部の両方から煙を上げ、その場に膝をついた。
《部隊損耗率……閾値到達》
《戦域評価……更新》
《新規脅威――》
最後の電子音は、恒一が放った短い雷刃で断ち切られた。
頭部が裂け、赤い単眼が消える。
静かになった。
いや、正確には“近く”だけが静かになったのだ。
遠方ではまだ爆発音が続いている。どこかで別の戦闘が行われているのかもしれない。
恒一は深く息を吐いた。
術式の余熱で指先がじんじんと痺れている。思った以上に魔力を使った。異世界ならここまで消耗しなかったはずだ。やはりこの世界は魔法に向いた環境ではない。
「天城さん……!」
男が呆然とした顔で立ち上がる。
「全部、やったのか……」
「今のところはな」
恒一は答えながら、崩れたドローンの一つを足で裏返した。
小型の飛行機械。昆虫じみた薄い羽根、単眼カメラ、下部の小銃身。無駄のない殺戮装置だ。
雫が恐る恐る瓦礫の陰から出てくる。
彼女は恒一を見つめ、次いで足元の残骸を見て、信じられないものを見るように眉を寄せた。
「……本当に、一人で」
「まだ終わったとは限らない。周囲を見ろ」
そう言うと、雫ははっとして辺りを警戒した。
その反応は悪くない。ただの怯えた民間人ではなく、ここで生き残るための判断力がある。
子供を抱えた女性が、泣きそうな顔で頭を下げる。
「あ、ありがとうございます……ほんとに……」
「礼はまだいい。移動できるか?」
「は、はい……でも、どこへ」
男がすぐに言った。
「地下だ。すぐ近くに地下鉄の保守通路がある。今は使われてないけど、一時避難にはなる」
「そこに他の生存者も?」
「日による。だが地上にいるよりはマシだ」
恒一は頷いた。
「案内しろ」
「……信用するのか?」
「信用はしてない。でも、ここに留まる方がまずい」
男は苦く笑った。
今の戦いを見せられたあとで、もはや天城恒一をどう疑えばいいのか分からない、という顔だった。
だが移動を始めようとした、その時。
恒一の耳が、かすかな異音を拾った。
ジ……ジジ……。
まだ壊れきっていない機械のノイズ。
振り向くと、さっき胸部を焼いた銃撃型の残骸が、まだ微かに動いていた。赤い光は消えているのに、頭部の奥で何かが点滅している。
「下がれ!」
恒一が叫ぶ。
次の瞬間、残骸の胸部から細いアンテナめいたものが伸びた。
それが空へ向かって赤い光信号を放つ。
「通信……!?」
恒一が雷で叩き壊すより早く、信号は夜空へ飛んだ。
数秒の沈黙。
そして遠く、はるか向こう側の闇の中で――。
ブツ、ブツ、ブツッ。
いくつもの赤い光が、同時に灯った。
今度は数が違う。
十や二十では利かない。ビルの谷間、崩れた道路の先、空の彼方にまで、点々と赤い目が増えていく。
雫の顔から血の気が引いた。
「……うそでしょ」
「最悪だ」
男が呻く。
「追跡信号だ。部隊損耗すると、近隣の巡回機を全部呼ぶことがある……!」
恒一は舌打ちした。
なるほど、だからさっきから数が妙に多かったのか。倒すたびに更に呼ぶ構造なら、地上での消耗戦は不利すぎる。
頭上でもまた、高周波音が増え始めていた。
ドローンの増援まで来る。
「急ぐぞ!」
恒一は雫たちを促した。
「地下鉄入口はどこだ!」
「こっち!」
雫が先頭に立って走り出す。
足取りは軽くない。それでも街を知っている者の動きだった。瓦礫を避け、崩落しそうな壁面から距離を取り、最短で走れるルートを選んでいる。
男が女性を支え、恒一は最後尾についた。
背後から赤い単眼の光が近づいてくる。機械音も、もう隠そうとしない。
ギ、ギ、ギ、ギ……。
路地を曲がった先に、半ば崩れた地下鉄入口が見えた。
階段の上部はコンクリート片で塞がれかけているが、人一人ずつなら通れそうだ。
「そこだ! 早く!」
雫が叫び、女性が子供を抱えたまま階段を駆け下りる。男もそれに続く。
恒一は最後に残り、振り返った。
追ってくる赤い光の群れ。
その中に、人型だけでなく、脚の長い跳躍型や、背中に砲身を背負った個体まで見える。さっきより明らかに編成が変わっていた。
こちらの戦い方に合わせて、部隊構成を最適化しているのだ。
「本当に気味の悪い連中だな……!」
恒一は短く詠唱し、入口前の瓦礫へ魔力を叩き込む。
「崩落せよ!」
道路脇のひび割れた外壁が音を立てて崩れ、コンクリート塊が階段上へ雪崩れ込む。
完全封鎖には至らないが、追跡を数秒は遅らせられる。
それだけあれば十分だった。
恒一は地下へ飛び込み、雫たちと共に薄暗い保守通路へ駆け込む。
背後で、瓦礫をどける金属音がすぐに響き始めた。
「まだ来る……!」
雫が息を切らせながら言う。
「でも通路は狭い。地上よりはマシなはず」
「分かってる。先に進め」
通路の中は真っ暗ではなかった。非常灯らしき小さなランプがところどころで赤く光っており、錆びたレールと壁面の配管をぼんやり照らしている。
湿った空気。古い油と鉄の臭い。地上の焼けた臭いよりはましだが、安心できる匂いではない。
しばらく走ったところで、男がついに壁に手をついた。
「はぁっ……はぁ……この先、分岐がある。いったん、そこで……」
女性も限界らしく、しゃがみ込んで子供を抱きしめている。
雫は息を整えながらも、まだ恒一の方を見ていた。
恐怖。警戒。困惑。
だがそれだけではない。
この地獄の世界で、目の前の男だけが明らかに常識外れの力を持っている。理解したいのだろう。
恒一もまた、彼らから聞きたいことが山ほどあった。
「……少しだけ、時間をくれ」
そう言って、壁に背を預ける。
肩と脇腹が痛んだ。呼吸もまだ荒い。だが意識ははっきりしている。
雫が口を開いた。
「聞きたいこと、山ほどある」
「こっちもだ」
恒一は短く答える。
「まず一つ。今は西暦何年だ」
雫は一瞬、怪訝そうな顔をした。
だが次の瞬間、その問いの意味を考えたのか、表情を強張らせる。
「……まさか、あんた」
男も目を見開く。
「知らないのか?」
「知らないから聞いてる」
短い沈黙。
保守通路の奥で、水滴の落ちる音がした。
地上ではまだ遠く機械音が響いている。
そして雫は、信じられないものを見るような目で、ゆっくりと答えた。
「西暦……二〇三六年」
恒一の喉が、ひどく乾いた。
二〇三六年。
自分が異世界へ飛ばされたのは、二〇二六年の春だったはずだ。
十年。
ほんの一言で済む数字なのに、その重みはあまりにも大きかった。
帰ってきた。
だが、帰ってきた先は、自分の知る“今”ではなかった。
恒一はゆっくり目を閉じ、そして開く。
異世界の戦場とは違う地獄。
十年遅れの日本。
赤い単眼の機械たち。
この国に、いったい何が起きたのか。
その答えを知るための夜が、ようやく始まろうとしていた。




