第6話 おじさん
【対象区域:旧港湾地区】
【人間による吸血鬼関与の疑いあり】
【記憶処理、必要とあらば対象の消去を許可】
その文言を、クロエはもう一度だけ見て、端末を伏せた。
夜の旧港湾は、潮の匂いと錆の匂いが混じり合っている。
コンテナが積み上がり、ところどころ街灯が死んでいる。
人間が迷い込むには、少しだけ不自然な場所だ。
「……消去、だってさ」
誰かが低く呟いた。
チームの空気が、わずかに重くなる。
いつもなら確認もなく動き出す命令だ。
だが今回は、文面が雑すぎた。
「“関与の疑いあり”って、便利な言葉よね」
クロエは前を見たまま言った。
誰の顔も見ない。
「疑いがあるなら、調べるのが先じゃないですか」
若い隊員が、そう言いかけて口を閉じる。
言い切る勇気はない。
この命令の発信元が誰か、全員わかっているからだ。
「対象者は人間二名とミロ。」
ノアが報告を始める。
「今回の対象の男ミロは夜間限定で、近隣住民の生活補助に関わっていた形跡あり」
クロエの指が、わずかに止まった。
生活補助。
その言葉の裏を、彼女は即座に読み取る。
「血縁は?」
「ありません。
ただ……父親が夜勤の多い仕事で、
その男が子どもの面倒を見ていたようです」
誰も「保育」とは言わなかった。
吸血鬼社会では、それは禁句に近い。
「子どもは、その男を?」
「“ミロおじさん”と呼んでいます」
血は繋がっていない。
だが生活は、深く繋がってしまっている。
「対象者本人の違反は?」
「血の摂取なし。
正体の暴露なし。
人間側も、薄々気づいていた可能性はありますが……
黙認していたと推測されます」
守られていた。
穏やかに。
当たり前のように。
それが、罪になる。
「発覚のきっかけは?」
「人間のSNSです
「写真が上がりかけてます。
“写らない人がいる”って」
クロエは、ゆっくりと息を吐いた。
──まただ。
この間裁いた、花火の親子が脳裏をよぎる。
同じ匂い。
同じ“罪にされる前の段階”。
「記憶処理で済む話だ」
別の隊員が、感情を切り離すように言う。
「その判断をするのは、私」
クロエの声は低い。
怒ってはいない。
ただ、線を引いただけだ。
「ヴァルター評議員の許可が――」
「命令は“許可”よ」
クロエは振り返らずに言った。
「“消去を許可”。
“消去しろ”じゃない」
その瞬間、沈黙が落ちた。
言葉遊びに聞こえる。
だが、裁定官にとっては致命的な違いだった。
「確認に入る」
クロエは歩き出す。
「クロエ」
初めて、レオンが声を出した。
彼女は立ち止まらない。
「背くことになる」
「わかってる」
即答だった。
レオンは一瞬だけ目を伏せ、次に前を見た。
「……了解」
その一言で、すべてが決まった。
対象者たちは住まいのアパートで静かに佇んでいた。
クロエたちが到着する数秒前、
ミロは、ゆっくりと臭いを嗅ぎ分けて、
玄関に立ち出迎えた。
血の匂いを必死に抑えているのが、クロエにはわかる。
「私だけを連れて行くんですよね?」ミロはクロエたちが来たことの意味を問う。
意に添わない返答の場合……戦う覚悟をすでに持つミロをクロエは悲しげに見つめる。
「どこに?私たちがミロさんに甘え過ぎてたならごめんなさい。助けてもらってばかりでした!反省してます!どうか居てください!」
父親が必死にミロへ懇願する。
「……すみません。」
ああ……何もわからず詫びるこの人らを守れない。とミロは項垂れる。
クロエは、静かに手を上げた。
「もういい」
ミロが、クロエを見た。
覚悟した目だ。
「殺すなら、俺だけでいい」
「殺さない」
その言葉に、周囲がわずかにざわめく。
「記憶処理をする。全員」
クロエは、淡々と続ける。
「この件は、ここで終わり」
その瞬間、端末が震えた。
【追加指令】
【対象の即時消去を推奨】
【判断の遅延は秩序違反とみなす】
ヴァルターだ。
クロエは、端末を見下ろし、
そして――電源を落とした。
「クロエ……」
誰かが名前を呼ぶ。
「記録は私が引き受ける」
彼女は振り返らない。
「この任務の裁定官は、私」
レオンが、一歩前に出た。
「俺が前に立つ」
その背中は、迷っていなかった。
「ここから先は、命令違反だ」
「ええ」
クロエは、ほんの一瞬だけ微笑った。
「だから?」
旧港湾の闇の中で、
彼らは正式に“謀反者”になった。
でもその時、
誰一人、後悔していなかった。




