第13話 エマ
その夜は、やけに静かだった。
風の音も、遠くの車の音も、すべてが遠い。
イリヤは距離を保ったまま、前を行く背中を追っていた。
リュカ。
足取りは一定で、迷いがない。
振り返らないのに、こちらの存在を知っているような歩き方。
クロエの言葉が頭の奥に残っている。
「目で追いなさい。判断はしなくていい」
ただ追え。
それだけの命令。
―――
人気のない区域に入る。
廃ビル。
灯りはない。
窓は割れ、風が抜ける。
リュカが中へ消える。
イリヤは数秒待つ。
気配を探る。
……いる。
複数じゃない。
一人。
それと、もう一つ。
かすかな、人間の気配。
イリヤの喉がわずかに動く。
中へ入る。
鉄の匂い。
湿った空気。
靴音が響く。
階段。
上へ。
そのとき。
「……イリヤ?」
声。
小さい。
でも、間違えようがない。
エマ。
足が止まる。
心臓が一拍、遅れる。
「……いるんでしょ……?」
上の階。
確実にいる。
―――
同時に。
別の音。
奥へ向かう足音。
リュカ。
一定の速度で進んでいく。
追えば、捕まえられる距離。
逃せば、もう掴めない。
イリヤの呼吸が浅くなる。
上へ行けばエマ。
奥へ行けばリュカ。
クロエの命令。
「追え」
エマの声。
「……怖い…たすけて…」
指先が震える。
一歩。
出ない。
頭では分かっている。
ここで動けば、どちらかを選ぶ。
選ばなければ――
両方失う。
分かっているのに。
体が、動かない。
―――
リュカの足音が遠ざかる。
規則的に。
静かに。
消える。
エマの声も弱くなる。
「……ねえ……」
沈黙。
完全な静寂。
イリヤは、その場に立ったまま。
何も選ばない。
いや――
選べなかった。
―――
背後で、扉が軋む音。
別の足音。
迷いのない歩調。
レオン。
「……遅い」
短い声。
イリヤは振り向かない。
レオンは前へ出る。
階段を上がる。
躊躇いはない。
イリヤは動かない。
ついていかない。
ただ、そこにいる。
―――
数秒。
長い時間。
そして。
爆音。
建物が揺れる。
粉塵が落ちる。
遅れて、熱。
衝撃が胸を打つ。
イリヤの視界が白くなる。
何が起きたか、理解するまでに時間がかかる。
爆破。
―――
レオンが戻ってくる。
煙の中から。
服は焼け、煤がついている。
でも表情は変わらない。
「……爆弾だ」
短く言う。
「仕掛けられてた」
イリヤは何も言わない。
言葉が出ない。
レオンが続ける。
「おまえ……エマがっ……!」
それがすべて。
イリヤの目が、わずかに動く。
「……上は」
一拍。
レオンは答える。
「崩れた」
それ以上は言わない。
言えないんじゃない。
言わない。
イリヤの喉が震える。
でも、声にならない。
―――
帰路。
車の中。
誰も喋らない。
エンジン音だけが続く。
セラが煙草に火をつける。
ノアは窓の外を見ている。
クロエは前を見ている。
レオンは何も言わない。
イリヤも。
何も持っていない手を見つめている。
―――
夜。
端末が震える。
動画。
再生。
暗い室内。
エマ。
椅子に座らされている。
縛られている。
生きている。
爆破の前の映像。
画面の端。
レオンの姿。
静かに立っている。
エマが顔を上げる。
「イリヤは……」
そこで映像が止まる。
切れる。
イリヤの手が震える。
理解する。
あのとき。
すぐ選んでいたら、エマは。
足が止まる前に。
ああ……俺が。
―――
執務室。
イリヤは座っている。
一人。
ドアが開く。
クロエ。
「……報告は?」
イリヤは顔を上げない。
「失敗した」
クロエはそれ以上聞かない。
しばらく沈黙。
「そう」
それだけ。
イリヤがゆっくり顔を上げる。
「……助けられた」
言葉が落ちる。
「行けば」
一瞬の間。
「でも、行かなかった」
クロエは否定しない。
慰めない。
ただ言う。
「結果は変わらないわ」
静かな声。
冷たいほど正しい。
イリヤは目を閉じる。
その一言で、全部が繋がる。
自分は選ばなかったんじゃない。
逃げた。
―――
端末が、もう一度震える。
《適性あり》
短い一文。
送信元は表示されない。
それでも分かる。
イリヤは画面を消す。
何も壊さない。
何も叫ばない。
ただ、
何かが静かに終わる。




