不協和音
翌朝ヒューバートが目覚めると隣にはアウレリアが丸くなっていた。時折揺れるベッドは水の中を揺蕩うような感覚で心地良い。身動ぎしたヒューバートに気付いてアウレリアも目を開ける。
「おはよう。気分はどう?」
「おはようございます…大丈夫です…」
アウレリアの手がおでこに触れて熱の下がったことを確認していた。
「良かった」
アウレリアの手がヒューバートの頭を撫でる。モリス教授とは違って、ためらいなく触れてきた。
「起きられそう?」
「はい…あの…」
「どうしたの?」
「……」
ヒューバートは沈黙して目を逸らす。アウレリアはその顔を覗き込んだ。
「何か気になってるでしょ?」
「あの…昨日僕の首を噛みましたよね…その意味って…」
「えぇ噛んだわ。その意味は求愛。あのとき私はとてもあなたの血が欲しかった。でもそれ以上のことをする元気なんかなかったけど」
フフッとアウレリアは笑い声を上げる。
「これから僕は…あなたに…何ができますか?」
「何もしなくていいのよ。むしろ私があなたにお返ししたいくらい。だって私のことを助けてくれたでしょ」
「でもっ、それじゃ僕は…あなたにはもう必要ないって…ことですか?噛んだのに?」
ヒューバートは突然親に見捨てられた子どものような頼りない表情になった。この瞳にアウレリアは弱い。アウレリアはヒューバートの頬を撫でた。
「そんなこと言ってないわ。じゃあ私から聞いてもいい?あなたには私がまだ必要?もっと一緒にいたい?」
ヒューバートは子どものようにこくりと頷いた。
「いいわよ。私には余るほどたくさん時間があるの。好きなだけ飽きるまであなたと一緒にいるわ」
アウレリアはヒューバートの頭をもう一度撫でて優しく抱きしめた。
***
ハワード教授との早朝の散歩を終わらせたモリス教授がレイの屋敷の近くまで来ると、ウォードとブラッドウッドと共に走るセオの姿に気付いた。
(頑張るわね、あの子…根性あるわねぇ)
そのままモリス教授はレイの屋敷に入る。ジュディスとレイはすでに起きていてテラスのソファーの上で光る蔦を絡めて繭のようなドームを形作っていた。まるで美しいオブジェのようだ。声をかけずに通り過ぎようとすると中からジュディスが顔だけを覗かせて挨拶してきた。
「モリス先生、今日も早いですね!おはようございます」
「あら…おはよう。その格好…いったい中はどうなってるのかしら…?ヒューバートの様子を見に来たのよ」
「あぁ…先生おはようございます。ヒューバートさんのところなら今は行かない方がいいかも…」
蔦の中から上半身のみ姿を見せたレイは裸で、ソファーの背もたれに掛かったシャツに手を伸ばして羽織る。以前見たその胸の古傷がいつの間にか薄くなったようにモリス教授は感じた。
「行かない方がいいってどういうこと…?」
「そんな野暮なこと聞かないで下さいよ。女性と一緒だってことです。多分熱は下がったと思いますよ。朝方様子を見に行ったアドリアーナもそう言ってましたし」
レイが平然と答える。
「えっ?あのヒューバートが?だって、あのヒューバートよ?」
モリス教授はあんぐりと口を開けた。
「でも、案外アウレリアが気に入ってた感じだったんですよね。ちょっと意外ではあったけど」
ジュディスがそう言って傍らのレイを振り返る。
「レイ…そろそろ元に戻らない?」
「えぇ?まぁ…ジュディスがそう言うなら戻るとするか…」
蔦の中にレイの姿が消えて再び出てきたときには、いつものレイだった。蔦のドームの大きさが半分ほど小さくなる。少し遅れてジュディスが現れ残った蔦は掌の中にするすると吸い込まれて消えた。
「最近眠るとうっかり溶けちゃって一つになってることが多くて…気付いたら今朝も混ざってました」
「レイは気軽に溶けすぎなんだよ。昨日も熟睡した途端に溶けてたからね。レイが溶けるとつられるんだから…」
ジュディスは言いながら指を切ると小さな試験管に垂らして蓋をした。それをモリス教授に手渡す。レイはその指を舐めて首を傾げた。
「昨日みたいには変わってない…かな?ある程度一気に上がったらあとは緩やかに増える感じなのかも…」
三人が話しているところに、噂のその人、ヒューバート本人が現れた。やはり隣にはアウレリアがいて、しかも仲良さそうに手まで繋いでいた。
「おはようございます…」
ヒューバートの隣でニコニコしているアウレリアがジュディスとレイに向かってこう言った。
「私、しばらくここに滞在したいのだけどいいかしら?だってヒューバートに聞いたら今は寮生活だから女性と一緒には暮らせないって言うんだもの。家賃は…今は身一つで飛び出してしまったから手持ちがないけれど、後からきちんと払うからあの部屋を貸してほしいの」
突然の申し出にレイとジュディスですらぽかんとしたが一番驚いたのはモリス教授だった。
「ヒューバート、ちょっと、どういうことなの!?さっぱり意味が分からないわ!」
「どうもこうも、アウレリアの言った通りです。一緒に暮らしてみようと思ったので…あの、僕も恥ずかしながら手持ちのお金は少ないので、モリス教授のところで大学の講義のない日は働かせて貰えると助かるんですが」
モリス教授は思わず額を押さえた。今からヒューバートが手伝いに来てくれるのは正直なところ忙しいのでとても有り難い。たった一夜にして何があったのかは分からなかったが、ヒューバートが魔族の魅力の虜になったのは確かだと思った。恐らく首を噛まれたせいだろう。体内に残った毒が影響したのかもしれない。だが幸いなことは、アウレリアはそのことに気付いた上でヒューバートとしばらく一緒にいる選択をしたことだった。魔族の恋は一夜限りで終わることもあると聞く。今回のそれがたとえ気紛れであったとしても、ヒューバートが傷付かない道を選んでくれたことにモリス教授は密かに感謝した。
(一夜限りで捨てられたら、もうヒューバートは二度と女性に心を開かなくなるわ…ただでさえ人付き合いが苦手なんだから…それにしても…なんでよりによって魔族の血を持つ相手を選んじゃうのよ…二人を隔てる時の流れの違いをこの子は本当に理解しているのかしら…?)
前向きになったのはいいことだと思っていたが、アウレリア絡みでまた新たな問題が浮上したことにモリス教授はこの先も悩みのタネは尽きない予感がした。
***
「いや、お金はいいよ。別に。もうこの屋敷はみんなの屋敷みたいになってるから、今更一人二人増えたところで何の問題もないけれど…シリルさん?」
朝食の時間にアウレリアが再び宣言したことでシリルはすっかりムッとした顔のまま黙り込んでしまった。
「なによ、お兄さまに迷惑をかけたりはしないからいいじゃないのよ」
「…アウレリア…お前はいい歳をしてそんな雛と暮らすと…本気で言っているのか?」
「ええ、そうよ。何が悪いの。私の自由でしょ」
「フン…勝手にしろ。お前はすぐそうやって雄を誑かす」
シリルはプイッと顔を背けると席を立つ。
「リュイの様子を見てくる。リュカの子を宿しているのじゃ。リュカはリシャールの魂の欠片に破壊されたがの。死んでしもうたわ」
「え…?リュカが?そんな…」
アウレリアが途端に青褪めた。けれども直後にアウレリアはシリルの背中を鋭い目付きで睨んだ。
「そう…よく分かったわ。お兄さまが大事なのはいつだってやっぱり純血の稀少種のことなのね。半純血の私のことなんか最初からどうだっていいのよ」
シリルはちらりとアウレリアを振り返ったが何も言わずに歩み去る。ジュディスが何か物言いたげな顔をしたが、結局彼女は口を開いて思っていたこととは別のことを言った。
「すまないな、せっかくの朝食の時間なのに空気を悪くしてしまって」
だがアウレリアはジュディスの顔を見ると我慢出来なくなったように叫んだ。
「あなただって同じでしょ?どうしていつも我慢ばかりして怒らないのよ!?純血じゃないから優遇されなかった。それどころか幼い頃は放置されて…運良く育ったらその後は父親に狂王の駒として利用され続けてきた!あなたがリシャールにされたことを忘れたなんて言わせないわよ!?」
「アウレリアさん!!」
レイが思わず声を荒らげて立ち上がる。俯くジュディスの肩にレイは手を置いた。
「もう止めて下さい。わざわざあなたに指摘されなくてもジュディスは分かってます。それでも前を向いて進む為に、今ジュディスは戦ってる。過去の呪いを蒸し返さないで下さい。ジュディスの傷はいつだって鮮明なままなんですから」
「すまない、アウレリア。この話は…大勢の前ではしないでくれ。皆が皆…私が何者なのかを全て理解している訳じゃないんだ。混乱を招く」
ジュディスは立ち上がってレイを見上げた。
「皆は食事を続けてくれ」
ジュディスはふわりと笑ったが、食事もそこそこにレイと共に屋敷の外へと出て行ってしまった。残されたアウレリアは俯いて小声で言った。
「ヒューバート…私は呪われてる訳じゃないのに…周りの人を不快にさせてしまったわ…どうして毎回こうなのかしら。私たち…身内が集まると…いつも何故かうまくいかないのよ…」
ヒューバートは何と言っていいか分からず、落ち込んだ様子で隣に座る小柄な相手を困ったように見つめることしかできなかった。




