新たな来訪者
生徒の姿が訓練場から消えてジュディスは小さな咳払いをした。
「いつまで…こうしてるんだ?」
レイはようやく顔を上げて周囲を照れたように見回す。いつの間にか着替え終わったモリス教授がやってきて小さく笑った。
「かなり効いたと思うわよ。だってジュディスみたいに強い恋人がいる男性なんて、私くらいでしょ?」
プッとジュディスが吹き出し、それで頬が痛かったのか顔をしかめた。モリス教授は周囲を素早く遮断する。
「そろそろ朝の血液の数値も送ってね。二人の間に何があったかなんて私は全てお見通しよ?レイ、少しは私の猥談も役に立ったでしょ?それにしても怖い目に遭ったのに、それを逆手に取ってその日のうちにレイに捧げちゃうなんて…やっぱりあなた男前よね。素敵よ。それで毒性まで増えるとは正直思ってなかったけど…」
昨夜の数値を見たモリス教授は最初は結果を見間違えたのかと思った。血中に前日までには見られなかった毒性が突如として大量に検出されたためだった。
「毒性が増えた方が血は甘く感じたよ。この先もどんどん甘くなるのかな?」
レイがニコニコしながら告げる。
「あなた…味見までしてたの?」
モリス教授はやや呆れたようにレイの顔を見た。
「そりゃあね。料理長の血でも耐性は上がったと思うけど、ジュディスの血も徐々に取り込んでいかないと、子どもの顔を見る前に死んじゃったら困るからね」
「まぁ前向きだこと。あらブラッドウッド先生。二次成長期の魔族の毒性に関して興味深い結果が出たから教えてあげるわ」
モリス教授は遮断の中にブラッドウッドを手招くと引き込んだ。
「アリシアとのキスくらいじゃ彼女の体内の毒性は上がらないから安心して大丈夫だと分かったのよ。でもね、その先の恋人同士の営みに至ると急に増えるわ。その先は…ひょっとして回数なのかしら?是非とも試してほしいところだけど…」
意味深な笑みを浮かべたモリス教授の視線の先にレイとジュディスがいることに気付いて、ブラッドウッドは途端に全てを理解し目を泳がせた。
「モリス先生…研究のためにブラッドウッド先生にまで変な事吹き込まないで下さいよ」
レイは苦笑している。昨日の事件が二人に影響を与えた結果なのだろうとブラッドウッドは思ったが、その選択をしたことに正直驚いてもいた。
「だって有鱗種と有翼種のカップルのデータなんて滅多に取れないじゃない。もちろんジュディスとレイの方も興味深いわよ。若いんだから今を楽しめばいいのよ」
「…モリス先生って、経験豊富なんですか?なんで角の触り方まで知ってたんです?」
ジュディスの言葉にモリス教授はクスリと笑った。
「秘密よ。あなたが大人になったら教えてあげる」
「えぇ…?意味深だなぁ」
そう言ったレイの隣ではジュディスが細長い紙に自分の血を滲ませ早速液体を垂らしていた。
「うわっ!」
液体を垂らした紙が煙を上げて燃え尽きる。
「ちょっと…もうこの試薬じゃ計測不能じゃないのよっ!」
モリス教授が目を剥いた。
「レイ、どうする?」
「まぁそりゃ、舐めるよね」
紙が燃え尽きたのにレイは平然とジュディスの血の滲む指を口に含む。
「わーすごく甘いしピリピリしてるよ。刺激的」
レイは計測不能と書き込んでそのままモリス教授に渡した。ジュディスは紙に再度血を滲ませて封印する。そのままモリス教授に手渡した。
「…あら、えっ?あらあら…」
モリス教授はちらりと今朝の記述に目を通すと僅かに顔を赤らめながら中空に鞄を呼び出して、ジュディスの血と共に厳重にしまった。
「…私の角のせいで…レイの始祖の血も昨日から急に暴走気味で…始祖の話って多分、盛ってるんじゃなくて本当なんじゃないかと…」
横から気まずそうにジュディスが口を挟んだ。
「あぁ…十二人の妻がいてみんな仲が良かったっていう…始祖の話よね。ん?あらっ、それって、つまりはそういう意味で?」
そのときだった。観覧席の上の方から呼び声が聞こえた。
「あのっ!モリス教授!来客なんですが。ヒューバート・レインさんが、怪我した子どもを連れてきていて…」
慌てた様子のエステルが駆け込んできた。
「えっ?」
ヒューバートの名前にモリス教授は慌てる。その場にいた三人もつられて瞬間移動した。
***
庶務課の前はざわついていた。ヒューバートは一見するとボロ布の塊を持っていた。それが子どもだと分かるまでジュディスですら間があった。やせ細った手足はあちこち赤黒く染まっている。そしてヒューバート自身も無数に怪我をしていた。
「モリス先生…僕…誘拐してきて…しまいました。狭い納屋に閉じ込められてて…泣いてたから…どうしていいか…分からなくて」
周囲を威嚇するかのように睨んでいたヒューバートはモリス教授の顔を見て安心したのかその場にへたり込む。人が集まってきたのでレイはモリス教授に小声で言った。
「今日は先生、次の時間の講義はないですよね?とりあえず僕の屋敷に移動しましょう」
「みなさん、お騒がせしたわね。大丈夫よ。ではごきげんよう」
モリス教授が笑顔で手を振る。レイは全員を一度に屋敷へ移動した。
「さすがはレイね。あぁヒューバート。第八王子と婚約者のジュディスよ。くれぐれも口は慎んでね。ここは王子の屋敷よ」
突然大勢が現れたので、大広間にいたシリルとアドリアーナが驚いて飲んでいたお茶をこぼしそうになる。いつの間に茶飲み友だちになったのかと、ジュディスは呆れる。
「あら、あなたも厄介な呪いにかかってるのね」
ヒューバートを一目見たアドリアーナが微笑む。ヒューバートは途端にゾッとした顔付きになった。
「な…なんで、ここにも竜がいるんですか!?」
「仕方ないわよ。ブリジットの奥さんだもの。それよりも、その子を見せて!一体どこから連れてきたのよ」
モリス教授がそれで果たして相手は納得するのかと甚だ疑問な返事をしながらボロ布を開くと、破れた下着一枚に等しい姿の子どもが現れた。ジュディスが途端に遠ざかって自身を遮断した。
「まずい、私は今は近くにいない方が良さそうだ。下手に近寄ると刺激してしまう。その子…ブラッドウッド先生と近い種族じゃないのか?血の匂いが…似てる…」
「…確かに…」
屈んだブラッドウッドは子どもの伸び放題の髪を避けて額に手を当てた。
「モリス教授はヒューバートさんの治癒を。この子は私の魔力の方が吸収効率も良さそうです」
ブラッドウッドはやせ細った子どもに少しずつ魔力を流し始める。辛うじて息はしているが熱もある。なにより暴行されたのか身体中酷い怪我だ。手足には拘束されていたような擦り傷もあった。が、ふと違和感を覚える。
「ヒューバート何があったか話して」
モリス教授はその場で脱力しているヒューバートの怪我の様子を調べた。傷口が早くも膿み始めているのに気付いてモリス教授は慌ててヒューバートの全身を呼び出した水で洗い流した。
「毒だな。子どもなのに体内に毒が?いや、違うな。その大きさでもう二次成長期に入っているのか。モリス先生、ヒューバートさんの治療は私とレイが行うので、先生も早く身体を洗った方がいいです」
モリス教授は飛んだ水しぶきの下の自分の皮膚までが赤くなったのにギョッとした。
「こうなると雌でも雄でも厄介だな…遮断しているが…気付かれるかもしれない…」
ジュディスは小声でぶつぶつつぶやきながらヒューバートの治療を始める。
「こんにちは。ヒューバートさんは魔族の毒に身体がやられているので、今から僕とジュディスで治療しますが、何を見ても驚かないで下さいね」
レイの言葉と同時にジュディスが掌から蔦を出してヒューバートの身体を包み込む。
「わあっ!」
ヒューバートは危うく喉元まで出かかった罵倒の台詞を飲み込んだ。
「な…どこ…触って…!」
ヒューバートは慌てる。
「仕方ないだろ。あぁ、やっぱり噛みつかれてるな」
ヒューバートの首の後ろに小さな、けれども鋭い歯型がくっきりとついていた。
「あの子の性別は分かるか?雌なら色々と厄介だぞ?雄の首を噛んでるってことは八割方雌なんだろうけど…二割程度、雄が雄に求愛する種族もいるにはいるし…噛んだのは番に選ばれた証だ」
ジュディスがチラリとブラッドウッドの方を振り返る。
「クリス、首を噛まれないように注意しろ。噛まれたらアリシアに怒られるぞ?」
あえて名前を呼ぶとブラッドウッドはビクッとしたが頷いた。ようやく違和感の正体に気付く。相手は子どもではない。成人だ。
「お互いの呪いが見えると気持ち悪いよな…この距離で申し訳ないが、この中で毒耐性の一番強いのは私だから我慢してくれ」
「僕より…とんでもない呪いの人だらけで…驚きました…なんか、僕はこんなちっぽけな呪いに振り回されて一人で大袈裟に不幸ぶってただけなのかな…って」
「悪いが話は後だ。首の後ろを舐めるぞ。番の申し込みまでは残念ながら消せないが、取り急ぎ毒を中和する」
「えっ?舐めるの?」
声を上げたのは痛みを中和する蔦を一緒に絡めていたレイの方だった。ジュディスは顔を近付けるとヒューバートの首の後ろを本当に舐め始めた。
「うわっ…くすぐったい…ちょっと…あれっ…?あっ…なにっ?気持ち良過ぎ…っ!」
嘘をつけないので思わず本音が口から漏れたヒューバートはレイと目が合って途端に物凄く気まずくなった。必死に唇を噛み締める。失言どころではない。あんまりだ。
「ま、否定はしないけどね。しょっちゅう舐められてるから、君のその意見には同意するよ」
レイはしれっと言って、遠くで身体を洗って戻ってきたモリス教授に声をかけた。
「先生も念の為に首を守って下さい。気が付いたら噛まれるかもしれません。僕は対象外ですけど」
「え?何?あの子あんなに小さいけれど、もしかして二次成長期なの?レイはジュディスの匂いがついてるから、さすがに手は出せないわよね?」
ヒューバートが一瞬浮かべた怪訝そうな表情に気付いてレイは答えた。
「あぁ、ジュディスは魔族の有角種の血が入ってるから、今二次成長期真っ最中で体内の毒性も爆上がり中。僕はもう番として何度も彼女に噛まれて血も飲まれてるから契約済なんだ。さて、重大な秘密も共有したことだし、君がどこであの子を見つけたのか教えてよ」
「で?どこなのかしら?ってジュディス…何をしてるのよ?」
熱心にヒューバートの首の後ろを舐めるジュディスをモリス教授は可能な限り見ないようにした。ようやく舐め終えたジュディスは顔を離して言った。
「毒は毒をもって制す…私の唾液に含む微量の毒で噛み傷から入った毒を中和しました。体内に回ったのも可能な限り中和したけど…今夜あたりは発熱するかもしれません…で?もしかしてあの子も南から来た…とか?荷物にでも紛れてた…?」
ジュディスの言葉にヒューバートは驚きを隠せず目を見開いた。
「なんで…そのことを?」
「あの子の身体から…南方特有の香辛料の匂いがしたんだ…その香辛料の中には雄のフェロモンに似た香りを感じる組み合わせがあって…それにつられて紛れ込んだ可能性があるなと…」
ジュディスは再び振り返り、小さな足がピクリと動くのを確認した。またアリシアにしたのと同じあれをやるのか、と気が滅入る。しかも相手は二次成長期どころか成人している。すでにヒューバートまで予約済みだ。
「先生に…前に言いましたよね。農園直営店のお茶にクソ不味いって言ってしまって、就職できなかったって…その農園から再度連絡があったんです。いつも買い付けていた香辛料の味が変わっていたのに気付かず混ぜて使っていたって。僕に言われて飲んで初めて味が全く違うことに気付いて、それで感謝されて、一度は断ったけれどやっぱり働いてくれないかって…。でも先生と一緒に働くことを決めたから断りに行ったんです。そうしたら…納屋の方から悲痛な声が聞こえてきて…何かって聞いたら、荷物に紛れてたあの子のせいで新たに取り寄せた香辛料まで全部台無しにされたって…」
ヒューバートはそこで口をつぐんだ。
「そろそろ目覚める…モリス先生、嫌なものを見せますが、我慢して下さい。殺さない為の手段なので」
ジュディスが遮断を解いて立ち上がる。察したブラッドウッドがすぐに避けた。ブラッドウッドはモリス教授に説明をしているようだった。
「やぁ、目覚めてすぐに有角種に会うのはしんどいよな。悪いな。殺すつもりはないから少し付き合ってほしい」
ジュディスは人差し指を切って微量の血を出して、僅かに開いた相手の口に垂らした。途端に相手は暴れそうになる。ボロボロの下着の胸の間に僅かな膨らみが見えた。近付くと確信する。香辛料の匂いと混ざって最初は性別が分からなかったが、やはり女だ。とても小さいが成人している。ジュディスは両手を押さえて首筋に噛みついた。変わった味がする。一口飲んで傷を塞いだ。そっと自分の匂いを嗅がせると、先ほどとは打って変わって落ち着いた様子でジュディスに抱きついてきた。うっとりした様子で頬を肩に寄せる。小柄な相手をジュディスは抱き上げてそっと撫でた。
「なにそれ…すごい技ね」
感心した様子のモリス教授に言われてジュディスは困ったようにため息をついた。
「いいのか悪いのか…魔族の上の方の血を引いてると、いちいちこうして相手に対して序列を示さなきゃいけなくて面倒ですよ…」
「…あなた…誰?あたしは…昏き森のアウレリア」
伸びてボサボサな黒い前髪の間から翡翠色の瞳が見えた。
「私か?ジュディスだ。ん…?アウレリア?嘘だろ?アウレリアなのか?こんなに縮んでボロボロになって…私だ…姿は変わってしまったが…一昔前まではジェイドだった」
ジュディスはじっと相手を見つめる。
「え…?嘘っ!?でも…確かにその顔…見覚えがあるわ。あなた…てっきり死んだと思ってたのに…随分と可愛らしい女の子になっちゃったわね…」
「えっと…ひょっとして…昔の知り合い?」
横から口を挟んだレイの姿を見たアウレリアは盛大な悲鳴を上げた。
「いやぁぁぁ!野蛮なオーブリーがいるじゃないっ!ここ、一体どこなの!?今はいつ!?」
「いや、違う!彼はオーブリーの息子のレイだ。オーブリーじゃない!」
「だとしても!そっくりじゃないのよ!いやだわ!なんであなたから彼の匂いもするのよ!べったりこびりついてて取れそうにもないわ。せっかくいい匂いなのに!」
額の近くの香りを嗅ぐアウレリアの言葉にジュディスは困りながら告げた。
「それは…レイが婚約者で…もうじき結婚するからだよ」
「ええっ!?あなた正気じゃないわね。あのオーブリーの息子よ?乱暴に決まってるじゃないのよ。その顔だってどうせ彼に殴られたんでしょ?あなた被虐趣味なの?」
レイは途端に父の過去の所業を恨めしく思った。
「違う!僕は一度もジュディスに暴力を振るったことはない!」
言っても全く説得力がない。
「うん…これは昨日違う奴に殴られたんだ」
「やっぱりオーブリー?」
「だからそれも違うって」
ジュディスが大きなため息をつく。そうして半ば諦めたように言った。
「彼女は…シリルの異母妹…つまり…私の叔母に当たる…」




