モリス教授の要望
翌朝講義の合間にガルブレイスとブルーノの様子を見に来たモリス教授は、順調に回復しているガルブレイスと少し話をした後でブルーノの寝室を覗いた。ベッドの上に起き上がったブルーノは片手から蔦を出して冷や汗を流しているところだった。
「ブルーノ!無理しちゃダメよ!」
モリス教授が慌てて駆け寄るとブルーノは不意に悪戯が見つかった子どものような頼りない表情を浮かべた。いつも穏やかでどこか達観しているように振る舞う彼の本心がその一瞬だけ透けて見えて、モリス教授は思わず断りもなく抱きしめてしまった。
「焦る気持ちは分かるけど、あなた自分で思ってる以上に重症なのよ?今はまだ休むべきときなの」
「すみません…」
つぶやいたブルーノは片手から蔦を出したままモリス教授の胸に顔を埋めた。
「私たちの間に血の繋がりはないけれど、私、今はあなたのことも弟だと思っているわ。だから弱っているときは兄に頼っていいのよ?」
ブルーノは何も言わなかったが、そっとモリス教授の背中に腕を回してきた。自然と掌から出た蔦もモリス教授に絡まるが、アストリアを見舞っていたときすでに経験していたのでモリス教授は慌てなかった。
「魔力が足りないならついでに持っていっていいわよ。あなたもジュディスもガルブレイス氏も…南の人って揃いも揃って我慢し過ぎなのよ」
蔦が遠慮がちにモリス教授を浸食する。ゆっくりと魔力が蔦の方に流れるのを感じた。
「…弱音を吐くと…南では…相手につけ入る隙を与えると教育されます…それに血の繋がった兄も姉も…たくさんいますけど…誰にも…心を許したことはないし兄姉だと思ったこともないです。なのに…アストリアは…違った…」
モリス教授は黙ったままブルーノの頭を撫でた。
「モリス先生…」
「アラステアよ」
「アラステア…兄さん…僕は…サフィレットを失うのが…一番怖い。サフィレットだけが…幼い頃の僕を…支えてくれた…僕が生きる意味…そのもの…だったから…」
ブルーノは泣いていた。本来ならこんな風に弱い感情を外に出すのも苦手なのだろう。モリス教授はそっと頭を撫で続ける。少し自分を解放するために片手で眼鏡を外した。癒やしの魔力でブルーノを包み込むように抱きしめた。
「あなたとサフィレットの番の絆を断ち切れる者はいないわ。今はノアとサフィレットを信じましょう」
やがてブルーノは涙を拭って照れたような顔をした。モリス教授はブルーノの片手の蔦に絡まれたまま、少し身体を離すと鉤爪でえぐられた怪我の部分に手を当てた。
「少し回復を早めるわね…身体に負担にならない程度に…」
ブルーノはモリス教授の素顔を初めて見たと思った。話し口調とふざけた眼鏡からいつも女性っぽい雰囲気だと思っていたのに、眼鏡を外したモリス教授はむしろ男性的だった。それに整った顔立ちだ。少し怖いくらいだと思った。
「どうしたの?そんなに見つめちゃって」
「いえ…印象が…随分変わるな…と」
「そうでしょ?私、素顔だと生徒が怖がって寄って来ないのよ。話し方も変えたわ。生家に帰ったときにはこんな風に話したりはしないのよ。ここにいるのは別の私。でもこちらの方が楽なのも事実ね。生家は息苦しくて…私には合わなかったから、って秘密よ。この話はあくまであなたが弟だから打ち明けたのよ」
話している間にモリス教授は癒しの魔力を流し終わっていた。ブルーノの蔦も自然と離れる。魔力が満たされていた。
「二人の…ときだけ…兄さんって呼んでもいいですか?」
遠慮がちなブルーノの声にモリス教授は微笑んだ。
「もちろんよ」
***
ブルーノの寝室から降りてきたモリス教授は外に出たところで、庭で木刀を振るっているジュディスを目撃した。珍しいなと思いながらそこから死角になっている場所に人がいることに気付く。一緒に木刀を振っているのがセオだ分かってモリス教授は仰天した。レイが時々セオの姿勢を直す。ジュディスが不意にモリス教授が立ち尽くしているのに気付いて片手を上げた。
「モリス先生、どうかしましたか?」
「どうもなにも…セオ…あなた、急にどうしたの?騎士にでもなるつもり?」
「はいっ!」
軽口のつもりが真面目に返答されてモリス教授は目をしばたいた。
「えっ?本当に!?」
セオの言葉にレイとジュディスまでが目を見開く。
「セオって案外筋は悪くないと思っているけど…本気で騎士を目指すのか?」
「あの…剣を捧げたい人がいるので…まずは最低限自分の身は守れるようにならないといけないんですけど…」
セオは口ごもって目を泳がせた。
「剣を捧げたい相手…?」
ジュディスは最初にセシリアを思い浮かべたが、すぐに除外する。セシリアも貴族だがセオが騎士になって喜ぶイメージが湧かなかった。ここ最近でセオと深く関わった相手は一人しかいない。あの人たらしだとジュディスは見当をつける。
「ブリジットか?」
「ええっ!?」
驚きの声を上げたのはレイだった。
「セオ…師匠にハマると…人生、嵐の海の小舟状態になるよ?セオってそんなに刺激を求めるタイプだった?」
レイの言葉にセオは慌てて首を横に振る。顔が赤くなっていた。
「レイ…別に剣を捧げたくらいでブリジットも取って食いはしないと思うけど…そうか。そこを目指すならもっと本格的に鍛えないといけないかもね」
突然素早い動きでジュディスは身を沈め、あっという間にセオとの間合いを詰めた。首筋にナイフを突き付けられてセオは木刀を手にしたまま硬直した。
「…ほら、死んだ。ロウの家にはこういう風に喧嘩を売ってくる奴がごまんといる。反射神経を鍛えないとすぐに首が落ちるよ?」
ジュディスは急に酷薄な笑みを浮かべて下からセオを見上げた。本気だ。セオはゾッとした。ジュディスは殺気を消してナイフを離すと太腿に装着していたナイフホルダーに手際よく戻した。その時になってようやくモリス教授はジュディスに感じていた違和感に気付く。妙に女子っぽいスカートを履いている。
「…先生どうかしましたか?」
ジュディスがモリス教授の方に歩み寄ってくる。有角種の角を隠すヘッドドレスも似合っていた。
「ジュディス…雰囲気が…変わったわね」
モリス教授の言葉にジュディスはフフッとまるで少女のように小さく笑った。
「この格好のせいですかね。色んな格好で戦い方を試してみているところなんです」
しばらく黙ってジュディスの話を聞いていたモリス教授だったが、やがて意を決したように顔を上げた。
「ねぇ、ついでと言っては失礼かもしれないけれど、私にも剣を教えてほしいと言ったら…本気で教えてくれる?」
「え?」
再びレイとジュディスは目を丸くする。
「いやだわ、そんな顔しないでよ。そりゃ私は剣に関しては全然よ。なんだけど…のんきにそんなことも言ってられないのよね。結婚することになったから」
「えっ?そうなんですか?それはおめでとうございます」
レイとセオは言ったが、ジュディスは何かをじっと考える素振りをした。
「…先生の相手って、ラウレンティス家のご令嬢で合ってます?」
二人の祝福の言葉に笑っていたモリス教授は肩をすくめた。
「はぁぁ…ジュディスって何でもお見通しなのね。そうよ、その通り。ミシェルよ」
モリス教授が苦笑した。
「ラウレンティスの剣かぁ。舞うように優雅でありながら素早く鋭い」
ジュディスは突然今までの型とは全く違う動きで木刀を繰り出し始めた。セオの前にレイが割り込んでジュディスの木刀に合わせる。カンカンと鋭い音が辺りに響き渡った。
「これで合ってるか?昔見たのを思い出したんだけど」
「見ただけでよく覚えてるよね。合ってるよ」
呆れたようにレイが笑った。
「ラウレンティス家って、結婚式のときにも剣を交えるそうですが、先生の言ってるのも、もしかしてそれですか?」
レイの言葉にモリス教授は頷いた。
「…そうなのよ。最低限そのくらいは格好良く決めないとって思っていたのよ。私順調にいけば婿養子になる予定になっちゃって。人生何が起こるか分からないものよね」
すでに今朝、王宮に出仕前のミシェルの父、ゼイン・ラウレンティスが沈黙の間にまでやってきたのだった。モリス教授がミシェルを眠らせて早朝の散歩に出掛けようとしていたところに遣い鳥が飛び込んできた。そうして遣い鳥と大差ない早さでゼイン・ラウレンティス本人も姿を現した。
「ひぇぇ、先生がラウレンティス公爵家の婿養子!?今年最大の珍事じゃないですか!」
ミシェルの父を王宮で見たことのあるレイは思わず仰け反った。国王補佐官である彼が国王と共にいると、しかつめらしい顔の二人が並んでいてそれだけで見る者を震え上がらせる効果がある。ゼインが立っているだけで敵陣が皆逃亡したなどという逸話もある人物だった。モリス教授は大きなため息をついた。
「義理の父になる予定の人に、君に対して母君のような剣の技量は全く期待していないから案ずることはない、剣は娘が振るうから隣で守られておれ、なんて言われたら何だか癪じゃない。結婚式のときだけでお茶を濁そうと思っていた私の燃えかすみたいな闘志に火をつけて去って行ったのよ」
「先生も大変ですね。お察し致します」
レイは言ったが、恐らくそんな風に彼が言いに来たのだとしたら、本気でモリス教授を婿養子にもらうつもりなのだろうと予測した。何を気に入られたのかはよく分からないが、気に入らない相手に時間を割くほど彼も暇ではない。
「婿養子ってことは、ラウレンティス先生になるってことですよね?うわっ言いにくいな!」
ジュディスが発音して顔をしかめる。
「とりあえず早急に先生の剣の腕前を上げる必要があるってことですよね、分かりました。早速日程を組みましょう」
レイはテラスへとモリス教授を案内する。
「少し休憩にしようか」
ジュディスが振り返るとセオは首を横に振った。
「もう少しだけ…」
「そうか?無理するなよ?」
何やらセオのやる気にも更に火がついたようだった。ジュディスはニヤリと笑うと木刀を再び構えた。




