モリス教授の覚悟
「ね、ジュディスお願い」
屋敷に到着するなりジュディスはアストリアに懇願された。何かと思えば、もう一度蔦を交配する、そういう話だった。
「今度は私が実を作るわ。前回は勝手が分からなかったからジュディスに負担をかけてしまったけれど、今なら出来そうな気がするの」
後学のために見ておきたいと話を聞きつけたクレメンスとベアトリスもやってくる。
「見世物じゃないんだけどなぁ」
ジュディスは言いながらも右手の掌から青白く輝く蔦を出し始めた。アストリアも薄紫に輝く蔦を出す。二つの蔦は惹かれ合うように絡まった。
「神秘的ね…」
ベアトリスが囁く。蔦とは聞いていたものの、実物をきちんと間近で見るのは初めてだった。そもそもお腹から欠片を取り出してもらったときにはそんな余裕など全くなかった。
しばらく絡まり合った蔦はするすると離れてお互いの腕に戻る。ジュディスの蔦は掌に戻ったがアストリアの蔦は腕に巻き付いて動きを止めた。
「うまくいったみたいだわ」
アストリアが満足そうに自分の左腕に巻きついた蔦を見る。
「ジュディスと私の蔦って何となく相性がいい感じがするのよね。うまく実ができたら、このうちの一つをベアトリスが食べるのよ」
そう言ってアストリアは微笑んだ。こうして笑っていると歳上に見えない。可愛らしい人だなとベアトリスは素直に思って、そんなことを考えた自分に可笑しくなった。
(捻くれてる私がこんな風に誰かを本気で可愛らしいなんて思ったのはジュディスとアストリアくらいだわ)
最近ジュディスは魔族の二次成長期を迎えて以前よりも女子らしい可愛らしさが増した。以前自分が着ていた服を貸してコーディネートしてみたりと女子っぽい交流も増えてきた。何よりレイに対しての愛情が以前よりも増したように見えた。レイも友だちのような触れ合いから、より婚約者としての扱いに変わったように見えた。テラスのソファーでそっと口付けを交わす二人を何度か見掛けた。そんな二人をぼんやりと見ていたベアトリスにクレメンスが世間話でもするように告白してきたのだった。
「ベアトリス…僕は君のことが好きだよ。君はまだレイのことが気になるのか?」
自分はそんな風に見えていたのかとベアトリスは驚き、慌てて首を横に振った。
「私が口付けしたいと今思っていたのはクレメンス…あなたよ?」
「えっ?そう…なのか…?」
「私もあなたのことが好き。でも私は呪いを抱えてる。私と付き合うことになったら、あなたにもこの先負担をかけることになると思うわ…」
ベアトリスの言葉にクレメンスは僅かに微笑んだように見えた。
「僕の家は父も母もそれぞれ呪いにかかっているから、今更呪いを抱えた君が一人増えたところで、どうってことないよ。でも僕はレイほど忍耐強くはないから、その辺りは許してほしい」
クレメンスは屈むと素早くベアトリスに口付けをした。その日からベアトリスが媚薬の禁断症状に苦しみ出すと、クレメンスの対応はそれまでとは全く違ったものになった。恋人としてのクレメンスの対応は何もかも甘美でベアトリスをあっという間に虜にした。こうしてベアトリスはあっさりとクレメンスに陥落したのだった。
***
西の空に陽が落ちてから、いつものように沈黙の間の監視室にハーブティーと軽食を片手に顔を出したアラステア・モリス教授は、看守のミシェルに向かっていつになく真面目な調子で切り出した。
「ねぇミシェル…そろそろ私たち、今のような中途半端な関係は終わらせるべきだと思うのよ」
ついにこの日が来てしまったとミシェルは思った。僅かな胸の痛みを懸命に振り払う。泣いて縋るのだけは止めようと思っていた。優しいこの人を困らせるだけだ。それに最初から分かっていたことだ。振られる覚悟を決めてミシェルはアラステアの次の言葉を待った。
「長い間、私は妹の看病を理由に私たちの関係について言及することを避けてたわよね。ずるくてごめんなさい」
家督を継がなかったのは妹への償いだと以前彼が言っていたのも覚えていた。ミシェルは首を横に振る。それにずるいのは自分だって同じだ。
「私こそ…あなたの優しさに甘えて…ずるかったと思ってるわ。だから気にすることは何もないのよ」
ミシェルは微笑む。笑ってお別れしようと思っていた。
「ねぇミシェル、私は家督も譲ってしまったし持っているものは少ないけれど、こんな私でも良かったら結婚してくれないかしら?」
「え…?」
ミシェルは耳を疑った。
「結婚…?うそ…だって…私…てっきり振られるとばかり…」
不意を突かれてミシェルの目から大粒の涙が溢れ出す。一粒流れるとボロボロと止まらなくなってしまった。
「ちょっ…どうして、ミシェルを私が振る前提になってるのよ!?それとも私と結婚するのが嫌だった?そうなら言って?」
「嫌じゃない…嬉しいの…でも…私…長女で妹も嫁いでしまったから家督を継げと…言われたの。あなたが…ラウレンティス家の婿になってくれる?」
「えっ?あっ?そういうこと?ちょっと待って…それこそ…私じゃダメなんじゃない?」
途端にアラステアは自信を失う。ミシェルは微笑んだ。
「私、一度大勢の前で婚約破棄されて行き遅れた身よ?それにモリス公爵家はラウレンティスと並ぶ武術に秀でた家柄じゃない。家柄としては申し分ないわよ」
「家柄だけならね。ミシェル…私が剣はからっきし駄目なのを知っててそういう意地悪言わないでくれる?そりゃ私以外はみんな剣を振り回してるけど…妹ももう少し元気になったら魔術騎士科に復帰するし…」
アラステアは困った顔でミシェルの涙を指先で拭う。ミシェルは言った。
「お父様はラウレンティスの名を遺したいだけなのよ。あなたが人の命を奪う剣じゃなくて癒す道を選んだことも知っているわ」
「えっ…ミシェル…まさか…私のこと…話したの?」
アラステアは途端に挙動不審になった。
「羽化の守の儀式のとき…実は…お父様も来ていたのよ。私も全然知らなかったのだけど。元婚約者が最近おかしな動きをしているから気をつけろと誰かから忠告されたみたいで念の為にって…こっそりと…過保護よね。びっくりしちゃった」
「えっ…まさか…」
「そうなの。後から元婚約者を言葉だけで撃退したあの男性はひょっとしてモリス公爵家の長男かと聞かれたから正直に話したわよ。あなたお母さまに似てるのね。一目でそうだと分かったみたい」
「いやだわ。精一杯無理したときの私を評価されても、素直に喜べない…」
アラステアは眼鏡を外す。目頭を押さえて、アラステアはミシェルに向き直った。
「分かったわ。あなたのお父様にも正式にご挨拶をしたいから、そちらのご都合を聞いておいてくれる?うちは…そうね。母には連絡は入れておくけれど…あまり期待はしないでね」
モリス家の複雑な事情はミシェルもある程度把握していた。父と母は別居中。もとより母は北方警備隊の仕事に従事していて屋敷に帰ることはないと聞いていた。屋敷には家督を継いだ弟夫婦と父がいるが、アラステアと妹のアストリアとは不仲だ。ミシェルは頷いた。
「父はあなたのお母さまとは魔術騎士科時代からの知り合いよ?ある程度はそちらの事情も分かっていると思うわ」
「そうね…昔から…私の弱さを知っているのもミシェルくらいよ…でも血を見ても倒れないくらいには私も成長したのよ」
「もう…あの頃の意地悪な私を思い出させないで。力だけが本当の強さじゃないってことをあなたが私に教えてくれたのよ?愛してるわ。アラステア」
ミシェルはそう言うとアラステアの広い胸に思い切り飛び込んだ。




