アドリアーナの悪戯
翌朝、いつもと変わらぬ一週間が始まると思っていた学生たちは、学院内の大広間前の掲示板を見るなり再びざわめき出した。生徒会書記のポピーがセオドアに対する会計処理の不正の強要により解任されていた為だった。元第七王子の屋敷が灰燼に帰した件についても書かれていたが、話題の中心にはならなかった。
「えっ?あのポピーが?」
「人は見かけによらないな」
皆が揃って口にする。会計のセオドア本人の名前も挙がっていたが、服従の魔力による情状酌量により、しばらくは学院長が直接罰を与えると書かれていた。生徒会副会長代理のブリジットの名前もあった。セオドアを服従の魔力から解放する目的だが先に謹慎処分となった四名に対して呪いを放ったとしてやはり学院長が直接罰を与えるとの内容だった。
「あのとんでもない呪い誰か見た?身体中ボコボコに膨れ上がって誰だか分からなくなってたのよ。かゆいって絶叫しててそれはもう大騒ぎ」
「でもブリジットって子のお陰でセオドアは服従の魔力から解放されたんでしょ?それで罰ってのもちょっと気の毒よね」
「学院長先生は厳しいからね。呪いはやっぱり罰則対象になるんだよ」
噂話が飛び交う中をブリジットは胸を張って平然と歩いていた。学生の中にはブリジットを讃える者も少なからずいて声を掛けられた。図らずも注目の的になってしまった隣のセオはすっかり猫背になって何故か足もひきずっている。向かいから歩いてきたセシリアが銀縁の眼鏡をクイッと上げた。
「まったく…朝から大騒ぎね。分かってはいたけれど、早速投書が増えてしまって大変よ」
「それは申し訳ない」
言いながらも面白そうにブリジットは笑う。セシリアもとうとう吹き出した。生徒会執行部の会議室に入ると、すでにロージーとケイトリンがいて投書の仕分けを行っていた。意外な思いでブリジットはケイトリンの顔を見る。ケイトリンの取り巻きの二人の青年も黙々と作業を手伝っていた。というか手伝わされていた。
「なによ、何か文句でもあるの?」
「いや、別に」
ブリジットは投書に手をかざす。中から危ない気配を放つものだけ抜き取った。
「これは開封しない方がいいな。強いものではないが、呪いが仕掛けられている」
ブリジットは避けた投書を封印すると、残りの投書に目を通す。
「それはそうと、早朝からあんなに走っていて今日はこれから大丈夫なのか?」
セオが猫背になっていたのは周りの噂だけではないとブリジットは薄々気づいていた。明らかに早朝から無理をし過ぎたことによる筋肉痛だ。
「さすがに…ちょっと張り切り過ぎたので…明日からは屋敷周りを一周にしようかと…」
二人の会話にロージーは首を傾げる。いつの間に仲良くなったのかという表情だった。セシリアにだけは説明していたが、誤魔化しておくのも面倒なのでブリジットは開封した投書を分けながら言った。
「セオを四人分の服従の魔術から解放するのに、私の魔力で縛ったんだ。一時的にセオは私の支配下にある。だからってセオ個人に私が何かをしようとは思わないが、セオはあまりにも体力がないから、本人の希望もあって基礎体力から鍛え始めたところなんだ」
ロージーは納得したようなしないような顔つきのまま口を開いた。
「…あの優秀な四人がかりの服従の魔力にたった一人で対抗するなんて…そんなことが本当に可能なの?しかも更に呪いをかけたんでしょ?」
ロージーがにわかに信じ難いといった表情で眉をひそめる。確かにその通りだ。通常なら学生一人で対抗できるものではない。だがブリジットはフッと小さな含み笑いを漏らした。
「私は実は既婚者だが、伴侶がちょっと特殊で竜なんだ。竜と番になったことで竜の長に呪われた。私の魔力は竜の呪いと共に発動するんだ。従って通常の魔術とは勝手が違うものになる」
「竜…?竜と人って…そもそも結婚できるものなの?」
そのときだった。扉が音もなく開いたかと思うと一人の青年が立っていた。
「その通りだよ。やぁ、僕のお嫁さんが学院内で揉め事を起こしていると聞いたからちょっと覗きに来てしまったじゃないか」
そう言いながら突然入ってきたのは長い黒髪を無造作に束ねた美青年だった。両腕に不思議な入れ墨が入っている。ブリジットは絶句した。
(な…なにやってるんだ、アドリアーナ)
「僕はエイデン。ブリジットの夫だよ。こう見えて彼女は妊娠中なんだ。だからあまり無茶ばかりされると本当は困るんだけどね」
ブリジットのそばに来たエイデンことアドリアーナはブリジットの金色の髪の一房を手に取り愛おしげに口付けをした。
(あなただけ楽しそうなんだもの。私だって遊びたいわ)
「エイデン…まさか学院にまで来るとは思わなかったよ」
「美しい君に余計な虫がついたら困るからね」
黒髪の美青年は優しい仕草でブリジットのお腹に手を触れてそっと撫でる。ケイトリンの取り巻きの青年の一人はその様子に何故か顔を赤らめて目を逸らした。美青年が指を鳴らすと投書は綺麗に二つに分かれた。
「右は生徒会への非難だからあまり相手にする必要はないよ。左の投書は別の内容だからきちんと目を通しておいた方がいいかな。いじめに関する相談もある。今回の一件で新たな正義感に目覚めた者がいるのかもね」
エイデンはそう言うとブリジットの唇に執拗なくらいに口付けをして満足気な表情になり生徒会執行部の会議室から去っていった。
「…あれが…あなたの夫なの?すごい綺麗な人だったじゃない。竜になった姿もきっと美しいんでしょうね!」
ぽうっと頬を赤らめていたロージーが我に返った途端に目を輝かせる。ケイトリンまでが心ここにあらずといった様子でエイデンの消えた方を見ていた。
「あ…あぁ…」
呆気に取られた様子のブリジットを見てセオはブリジットでもこんな顔をすることがあるのかと、意外な思いでその横顔を見守った。
***
魔術騎士科の講義を受講中だったクレメンスは観覧席が急にざわめいたことに、集中力が切れてしまった。危ういところでウォードの木刀を躱す。ウォードにはまた苦笑された。しばらく打ち合いをして、次の生徒と交代になる。
「さっきは危なかったね。ねぇ、あのめちゃくちゃ綺麗な男の人は誰?君のことじっと見てたけどまさか知り合い?」
先に休んでいたリアムが観覧席の方に目配せをする。水を飲んでいたクレメンスはその姿を見て吹き出しそうになり、慌てて水を飲み込んで今度は盛大にむせた。
「ちょっと、クレメンス、大丈夫?」
近くで別の生徒に稽古をつけていたジュディスがクレメンスをチラリと振り返り笑ったような気がした。
(ちょっと母さん、なんて格好してるんだよ!?)
父親が美少女の姿になり学院内を闊歩しているだけでもすでに気まずいのに、今度は母親が美青年に変身して活動を始めている。クレメンスは目眩がした。
(あぁもう…なんなんだよ、うちの両親は。自由過ぎる)
魔術騎士科の生徒目当てに観覧席にいた少女たちもチラチラとアドリアーナのことを見ている。家柄も程々で魔力の才能にも突出した何かがないと早々に悟った令嬢の中には魔術騎士科に在籍する将来有望な若者と親しくなろうと別の努力をし始める者もいた。社交界デビューを控える年頃の少女が入れ替わり立ち替わり観覧席を埋めているのはそのせいだ。今日は休みにも関わらず観覧席に控えていた補助講師のブラッドウッドがアドリアーナの方に向かうのが見えた。
(えっ?母さんったら、いつの間にブラッドウッド先生とも仲良くなっているんだ?)
何やら小声で会話している様子の二人だったが、ブラッドウッドは頷くと席を離れて何処かへ去ってゆく。アドリアーナは自分と違って他人と距離を詰めるのが早い。生まれ持った性格なのか彼女の歩んだ過酷な境遇がそうさせるのかは分からなかったが、なかなか母のようには振る舞えないと、クレメンスは深いため息をついた。




