南からの使者
少年は右も左も分からない地で途方に暮れていた。ただ神官長が何かを企んでいるということだけは分かっていた。何とか阻止しなければと、馬車に積んだ荷物に紛れたまでは良かったものの、空腹と魔力切れで獣の姿に戻って気絶してしまった。いつの間にか馬車の揺れはなくなり、どこか暗い場所に彼は荷物と共に置かれていた。やっとのことで顔を出すと、食糧庫のようだった。匂いをかいで近くにあった干し肉の塊に噛み付く。神殿では穢れだと言って食べさせて貰えなかった数年振りの肉の味に少年は我を忘れて貪りついていた。そのせいで普段は気付くはずの人の気配に無防備になっていた。
「この盗っ人狐が!」
背後から棒で打ちのめされ魔力で拘束される。あまりの痛みに身体がしびれて動けなくなったが、ここで捕まる訳にはいかないと、必死で捕まえようとする相手の手に噛み付いた。相手が怯んだ隙に開いた扉のすき間に見えた明かりの方へ駆け抜ける。どこなのか分からないがとにかく森の匂いのする方へ彼は走った。足の下に草の踏みしめる感覚がしたのは覚えている。彼はそこでとうとう倒れてしまった。
***
料理長のアマロックはレイの屋敷の朝食を作り終え、少し早かったが一般学生用の食堂の準備に向かおうとしていた。森の小道を抜けたところで、ふとアマロックは風に乗って漂ってきた妙な匂いを嗅いだ。
(なんだ?)
匂いのする方へ足を向けると、背の高い草の生い茂る中に何かが倒れていた。
(狐?こんなところに?)
狐は頭から血を流している。そっと触れると息はあったがひどく衰弱している様子だった。ひょいと抱き上げると腹の下に嫌な焼印の痕が残っているのをアマロックは見てしまった。南方の奴隷階級の焼印だ。ひょっとすると厄介なものを拾ってしまったかもしれないと思ったが、かといって放り出す訳にもいかず、アマロックは来た道を引き返してレイの屋敷に用意された部屋へと足早に戻った。
***
同じ頃、学院長のフレディは南方からやって来た使節を迎え入れる準備をしていた。ブルーノが長年行方不明だった許婚を見つけたと神聖南方王朝に手紙を送ってから、数ヶ月が経ってようやく国からの音沙汰があり、この度使節が訪れることとなった。曰く、ブルーノ第三王子の言葉を疑う訳ではないが、見つかった令嬢がサフィレット本人かどうかの確認を行いたいので、巫女を連れて遊学中の王子の元を内密に訪れるという話だった。使節は南からの行商人に紛れてこの地を訪れていた。
「だからってなんで僕たちまで…」
珍しく正装させられたレイとジュディスは服の重さと暑さとですでに疲労していた。精霊の血が混じってから体感温度がすっかり変わってしまったレイにとって、何枚も重ねる衣装は苦痛でしかなかった。そんなレイに魔力で風を送りながらジュディスは諦めたように言った。
「こんな風に胴をぎゅうぎゅうに締め付けられる服装じゃないだけマシと思ったらどうだ?いっそのこと今ならレイが着たほうが私よりも似合いそうだ」
「二人とも文句はそのくらいにして、お願いだから黙って座っててよ」
南方王朝の青い正装に着替えたブルーノが苦笑する。袖が長く金糸の刺繍が見事だった。こうして見ると王子らしく見えるのが不思議だ。ジュディスと似たり寄ったりのドレス姿のサフィレットはやや不安そうな面持ちでブルーノの隣に座っていた。
「大丈夫、君が本物なんだから堂々としていたらいいさ」
ブルーノが微笑んでサフィレットの白い髪を撫でた。
やがて学院長が部屋に入ってきた。行商人の格好のまま入ってきた三人は室内で重ねていた服を脱ぐ。中からは神聖南方王朝の神殿に仕える神官の老人と巫女姿の幼い少女二人が現れた。少女は双子なのかとても似通った顔立ちをしていたが、片方の首には大仰な赤い宝石のついたネックレスがぶら下がっていた。
「神聖南方王朝よりいらした神官のガルブレイス氏だ。双子の巫女は神聖故に名は明かせないそうだ」
「このような場を設けていただき感謝申し上げる。なにぶん国の伝統的な習わし故にこの場で少量の血を流すことをどうか、お許し下さい」
神官のガルブレイスはそう言うと手にした香に火をつけた。途端に独特な臭気が広がり、レイもジュディスも顔には出さなかったものの心の中で悪態をついた。
(臭い…鼻が曲がりそう)
(何とも気持ち悪い臭いだな…どこかで嗅いだような…)
「サフィレットと名乗る者はこちらへ」
巫女の並んだ前にサフィレットが呼ばれ跪くように指示された。サフィレットの顔は強張っていた。
「少し痛みますが、あなたの血を貰います」
サフィレットの右手を取り片方の巫女が小さなナイフを指先に走らせた。浮き出る血を絞ってもう一人の巫女が首から下げていた宝石にその血を垂らす。しばらく待ったが宝石には何の変化も現れなかった。巫女が首を横に振る。
「第三王子…とても申し上げにくいのですが…この方の血は由緒正しきセイラム家の宝石には反応しませんでした。この双子はサフィレット・セイラムの叔母君の血筋に連なる者です。血をそこへ…」
ナイフを持った少女は自らの指を切りその血を再び宝石に垂らした。しばらくして宝石は赤紫に輝き出した。
「由緒正しき血筋のものが血を垂らすと本来はこのように…まことに残念ですが…この方はあなたの失ったサフィレット様ではございません…」
「そんな訳はない!それならどうして彼女はサフィレットの記憶を持っている!?」
ブルーノは椅子から立ち上がった。老いた神官に掴みかかる勢いのブルーノを止めたのは学院長だった。
「落ち着くんだ。それよりも…君はサフィレットの元へ」
ブルーノはハッとしてサフィレットのそばへ駆け寄った。
「…頭が痛いの…この香はいったい何?」
サフィレットは人形のような顔をした双子を見つめる。ブルーノが二人を振り返ると、双子は純粋に楽しそうに笑っていた。
「ニセモノ」
「サフィレットお姉さまはもういない」
双子は歌うようにブルーノに向かってそう告げた。