心の距離
「ちょっと、どこ行くのよ?」
走り出したジュディスの背中にモリス教授が叫ぶ。ジュディスはフレディとフロレンティーナの気配のする寝室の扉を蹴破る勢いでやってきたが、直前で立ち止まって意外にもきちんとノックをした。
「はぁい」
扉を開けたフロレンティーナはそこにジュディスが立っていることに気付き目を見張る。フロレンティーナはジュディスが本当の意味で少女らしい姿になったことに驚いていた。どこか頑なだった部分が消えて、丸くなったように感じた。
「フレディは…いる?」
僅かに俯いた額の上には確かにごく小さな突起がある。生まれたばかりの可愛らしい角だ。
「本当に迂闊な人でごめんなさいね…」
フロレンティーナはジュディスの頬に触れた。
「いや…それに関しては別に怒ってはいないんだけど…でも…別のことには怒ってる。中に入ってもいい?」
きちんと断ってから寝室に足を踏み入れる。思い立ったら即行動だったのに、そこも変わったとフロレンティーナは思った。
「フレディ!」
どこか上の空で本を開いていたフレディは、目の前に立った少女をジュディスだと認識するのに間があった。そのくらい身にまとう気配が変わっていた。
「誰が娘で誰が父親だ!!勝手に嫁に出すな。フレディはフレディだし、私は…そりゃ、前とは見た目はけっこう変わってしまったかもしれないけれど、本質はそう変わらないんだからな!」
ジュディスは叫んでフレディに抱きつく。驚いて本を落としたフレディは、右手をどうすべきかしばらく逡巡した後に、ジュディスをそっと抱きしめることで決着した。
「フレディは…数少ない友人なんだ。勝手に距離を置かれると困る…嫌いになったんなら…仕方ないけど…」
「…そんな訳はない…ただ…魔族や精霊の女性との…接し方が正直なところよく分からないから…戸惑っているんだ…」
その言葉を聞いたジュディスはフフッと意味深に笑う。
「…知ってる…角を触ったのも…本当に知らなかったからだって。だって数少ない異種族の生態に関する講義の時間に、フレディは配られた冊子の裸の挿し絵を見ただけで鼻血が止まらなくなって治癒室に運ばれたって聞いたからな。あいつは堅物だから刺激が強過ぎたんだろうって、オーブリーが笑いながら言ってたぞ」
過去一番の恥ずかしい話を暴露されてフレディは顔が上気するのを感じた。
「…でも、私だってさっきは恥ずかしかったんだ…今度触ったらフレディのことだって容赦なく本能で襲うぞ?そのくらい今はまだ制御が出来ないんだ…それさえ忘れないでいてくれたらいい」
ジュディスはそう言って不意にフレディの左右の額の上を不思議そうに覗き込む。
「フロレンティーナ…フレディも…竜になるのか?」
「えっ?あら…もうそんなに?」
フロレンティーナが駆け寄ってきてフレディの髪の中を触った。
「あら、本当ね。これは触っても大丈夫よ、ジュディス。この人は自分の変化にもこんな風に無頓着だから、私の角にも気付かなかったのよ」
フレディの額の上に現れたほんの僅かな突起にジュディスはそっと触れた。
「蔦の実を食べた影響かも…自分も含めて…変化が早くなってる気がする…フレディの変化を見逃さないで。突然竜に変身されたら大事になるよ?」
「そうね、ありがとう。気をつけるわ。ジュディスの角も…しばらくは頭を撫でるのは厳禁にしておかないと、うっかり触ってしまう殿方がいるかもしれないわよ?」
フロレンティーナは不意に後ろを振り返る。開け放した扉の前にモリス教授とレイが立っていた。
「あら、レイったら急に大きくなったわね」
近寄ったフロレンティーナはレイを見上げる。レイは何やら遣い鳥に手紙を持たせて飛び立たせたところだった。
「急に真面目な顔してどうしたの?」
「僕が不真面目だったのは、ジュディスに出会う前までだよ?うん…ちょっとね。責任について考えた結果、少し父上と話をしようかと思って」
「あなたも、うっかりジュディスの頭を撫でちゃダメよ?この屋敷にいる中ではレイの次にその可能性が高い気がするわよ?」
フロレンティーナの言葉にモリス教授はフフッと笑った。
「いやだわ。私はちゃんと異種族の生態に関する講義は受けたわよ。誰かさんみたいに鼻血なんか出さないんだから。それに魔族の女の子の角は相手にお願いされたら触れてもいいのよ。レイにもそのうち触り方を教えてあげる」
モリス教授は片目を瞑って見せる。
「…なんか妙に詳しいですね…それは先生の経験談なんですか?」
「あら秘密よ。真っ昼間からする話じゃないわ。ついにレイともこんな話ができるようになるなんて…感慨深いわよ」
「はぁ。男って集まればそういう話をするのが好きよね。ミシェルにでも蹴られればいいんだわ」
「やめてよ、元軍人のミシェルに蹴られたら私なんか大怪我するじゃない」
ため息をつくフロレンティーナの後ろからジュディスがひょいと顔を出した。フレディも本を片手にやって来る。
「楽しそうなところを邪魔するが、レイの髪の変化…薄桃色の髪は…王国の始祖エイヴェリーの再来と過去には呼ばれていた…そのくらいめでたく珍しいものだそうだ」
フレディの開いた本を覗き込んでジュディスは何故か顔を赤らめた。
「薄桃色の髪は子孫繁栄の象徴だそうだ。ちなみにエイヴェリーには十二人の妃がいたが、不思議なことに妃同士が争うこともなく平和な世が続いたと書いてある」
「…本当にそんなことってあるのかしら?都合の良い改ざんなんじゃなくて?それかよほどできた妃たちだったのか…」
時代によっては不敬罪にも値する台詞を吐いてモリス教授は首を傾げた。ジュディスも同様のことを思う。だがレイは全く別のことを考えていたようだった。
「僕は十二人じゃなくてジュディス一人がいいから、そもそも争いなんて起きないよ。あ、早いね。もう遣い鳥が戻ってきた」
だが遣い鳥はレイを通り越しフレディの元へと降り立つ。一通をフレディが受け取ると、それからモリス教授、レイの元へと飛んできた。
「…ようやく許可が降りたか。議会も揉めていたらしい。この度元第七王子の屋敷を解体する運びとなった。フロレンティーナもいることだし、ここは派手に燃やして清めようと思っているのだが。国王陛下も同席するそうだ」
「あー良かったわ。私犯罪者になるところだったから。妹の件に関してはお咎めなしだそうよ」
「えぇ…僕の方は、再度話し合いの場を設ける。まぁ、そうなるよね」
レイがため息をつく。
「どうしたんだ?レイ?」
ジュディスが不安そうにレイを見上げると、レイは首を横に振って微笑んだ。
「大丈夫だよ。ジュディスと正式に結婚したいって言っただけだから」
「えっ?そうなのか?」
ジュディスが動揺する。
「王族の結婚までの準備ってけっこうかかるんだよ。本当は今すぐ結婚したいけど、さすがに許されないからね。その…精霊としての結婚が…まさかあんな風だとは思ってなくて…さっきはとにかく…理性もどこかに吹き飛んで流されてしまったから…」
レイは赤くなって口ごもった。フロレンティーナが傍らのフレディを意味深な目で見上げる。
「…今回の件は…完全に私の落ち度だ。レイは悪くない。国王陛下にもきちんとその旨を伝える」
「きっとオーブリーなら笑って終わりだよ」
ジュディスが言うとフレディは肩を落とした。
「それが一番…嫌なんだがな」




