精霊の結婚
「大丈夫?フレディ?」
部屋に戻るなり額に手を当てて考え込むように沈黙したきりのフレディに向かってフロレンティーナは気遣わしげな声を掛けた。
「あ…あぁ…。いや、あまり大丈夫では…ないのかもしれないな」
珍しく相手が動揺していることに気付いたフロレンティーナはやがてもう一つの変化を察知した。屋敷の空気が変わる。ジュディスとレイの気配が混ざり合うのが分かった。人としてのそれではなく精霊同士の密やかな繋がりだった。
「あなた…何かしたの?」
「……いや、知らなかったんだ…ジュディスにうっかり触れてしまって…」
「うっかり?」
「生え際の少し上に…角が出たと言うから…」
フロレンティーナは目を見開いて、思い切り呆れた表情をした。
「あなた、まさか…角に…触ったの?」
「あぁ…そうしたら、急に甘い香りが漂って…私としたことが…」
触れた右手の指先を見つめてフレディは所在なさげに手を握ったり開いたりした。あの香りを吸い込んだ途端に一瞬でも欲望に流されそうになった自分にフレディは恐れ慄いていた。フロレンティーナは大袈裟なため息をついた。
「はぁぁ…あなたが、ここまで迂闊だとは思わなかったわ。よくそれで、偉そうに学院長をやってるわよね?ジュディスとレイだから良かったようなものの、他の子にやったら訴えられるわよ?魔族の有角種の女の子なら絶対に気安く触れられたくない場所なのに。そこに触れるのは求愛行動と同じなの。触るなら私の角にしておきなさいよ」
「き…求愛…は?お前の…角?」
フレディは更に動揺した。
「異性に触れられると…意識しようとしまいと…相手を魅惑する香りが出てしまうのよ。要するにフェロモンね。上位の魔族の血が入ってるならそれはもう、クラクラするくらい良い香りがすると聞いたけど。そうだったの?よく…抜け出せたわね」
フロレンティーナは徐にフレディの右手を取ると額の左側に触れさせた。髪に隠れて見えなかったが僅かに突起がある。今の今まで知らなかった。
「竜の私にだって右と左に両方ついてるわよ。竜は触られたって別にどうこうなる訳じゃないけど。ほんとにもう、あなたって時々抜けてるわよね。もっと種族の特徴を熟知しておくべきよ。全く…信じられない!」
しばらくプンプン怒っていたフロレンティーナだったが、不意に小さく笑い出す。フレディは内心ギョッとした。
「でも…今回の場合だと…あなた、知らずに触れてしまって良かったのかもしれないわ。レイの性格だと一度そうと分かってしまったら、なかなか触れないだろうし。あの子たち…ようやく一歩先の関係に踏み込めたわよ?」
「え…?」
「長らく友人と父親の中間みたいな関係性で保っていたあなたからしたら少し寂しいのかしら?それとも感無量?ジュディスは力強い身体に戻りたくて足掻いていたけれど…レイと混ざり合ってお互いの違いを認識することで自分が少し弱い女の子の身体でもいいんだって…渋々ながらでも…やっと事実として受け入れられたんだと思うわ」
「そう…なのか…」
フレディは再び沈黙する。フロレンティーナは不意に背後からフレディをふわりと抱きしめた。
「あなた…泣いてるの?」
「あぁ…どうやら…そう…みたいだな…」
フレディはまぶたを押さえて上を向く。何故なのか分からなかった。
「自分のことなのに分かっていないのね」
フロレンティーナは頬に流れたフレディの涙を拭った。
「どうして…」
「私に聞かないでよ」
「これが…父親の感傷という…やつなのか?」
喜ばしいことのはずなのに急に喪失感を覚える。共に戦場を駆けていたジュディスがとうとう気安くは触れられない距離にまで隔たってしまったような気がした。
「良かったじゃない、本当の娘を嫁に出す前に予行練習ができて」
フロレンティーナの言葉にフレディは不思議そうな顔をして相手を振り返った。
「お腹の子は…高確率で男女の双子よ?忘れたの?ジュディスとレイが生まれ直す可能性もあったじゃない」
「あぁ…そう…だったな」
フレディはフロレンティーナのお腹に掌を当てた。慈しむように撫でる。
「双子を育てるなら…私も片手では足りないのか…」
「そろそろ本気で腕を元通りに戻す気になった?」
「そう…だな。結局…ジュディス頼みになってしまうが…失われた再生の魔法薬に関する古代術式の内容を記憶しているのは…おそらく今はジュディスくらいだからな」
「あなたの腕の形を隅々まで記憶している私もいるもの、きっと大丈夫」
「もう一人の娘も探しに行かねばならないしな」
「そうね…サフィレットもノアも強い子よ。きっと大丈夫。負けないわ」
そう言ってフロレンティーナはフレディに優しく口付けをした。
***
一方しばらく溶け合っていた二人はようやく離れてお互いの姿に戻る。不思議な感覚だった。全てさらけ出してしまった気恥ずかしさと先ほどまでの互いの熱の余韻に浸りながら二人は顔を見合わせる。一糸まとわぬ人の姿に戻るとレイは自分の掌が大きくなっていることに気付いた。腕を持ち上げて太さも変わっているのに気付く。
「レイ…戻ったな…」
ジュディスが呟く。
「あれ…?どうして?」
以前よりも声が低い。
「私が…手離したからだ…心のどこかで…まだ男に戻りたいと思っていたんだろうな…でも、もうなくても大丈夫だと思えたから…私の中で預かっていたものを…レイに返しただけだ…」
見下ろすジュディスも裸だったがより一層小柄に見えた。心なしか以前よりも胸の膨らみが増したように見える。
「どこ…見てるんだ?」
レイの視線に気付いたジュディスが小さく睨んでベッド横に落ちていた上着を拾った。けれどもその表情すら以前よりも鋭さは消えて少し丸くなった感じがした。レイはそっと手を伸ばしてジュディスを抱きしめる。
「本当に…ジュディスはこれで大丈夫?嫌じゃない?」
耳元で囁くとジュディスはレイの広くなった背中に両腕を回して小さく頷いた。
「前ほど…嫌じゃない…」
「本当に?」
レイは振り返ってジュディスと向き合う。
「…うん」
ジュディスは僅かに自信なさげな声を出してレイの腕の中から顔を上げた。
「レイは…蔦も育つのが早いんだな…だから、新しい蔦も受け入れられるほどに回復した魔力中枢に見合った身体の大きさに…思ったよりも早く戻れたんだ…」
ジュディスはどこか寂しそうに笑って自分の細いままの腕を見た。
「ジェイドに…蔦を飲まされた時に言われたんだ。私の身体は…ここから先…もうあまり大きくはならないだろうって…薄々感じてはいたんだ…仕方ないよな」
レイは言葉に詰まってジュディスの頬にそっと触れた。
「ジュディスは…その未来を受け入れたかもしれないけど…だからって平気な訳じゃないでしょ…泣きたいときは我慢しなくていいんだよ?」
「う…ん…」
ジュディスはしばらく沈黙していたが、堪えきれずにとうとう嗚咽を漏らした。レイに縋り付いて泣き崩れる。レイはその背中を撫で続けた。そうすることしか出来なかった。ジュディスの失ったものの大きさとこれまで背負ってきた、そしてこれから背負おうとしている責任の重さに思いを馳せる。この世界の崩壊の危機に立ち向かう。こんなに細い腕のままで。
「僕がもっと大きくなるから…だから一緒に戦おう…ジュディスは一人じゃない…僕と二人で一つなんだよ。混ざり合ったでしょ」
「うん」
泣きながらもジュディスは頷いた。頷いて涙を拭う。小さくて細い身体をしっかりと抱きしめてレイは何があっても今度は自分がジュディスを守ると心に誓う。
「みんなも蔦持ちになったんだ…だからもうジュディスは一人で戦わなくていいんだよ。頼っていいんだ」
レイはジュディスが握りしめたままだった服をそっと着せる。ボタンを留めていると、カタンと扉の向こう側から小さな物音が聞こえた。
「ごっ…ごめんなさいっ!覗くつもりじゃなかったのよ。ジュディスと少し親和性が高くなってるから、感情が流れてきてしまって…私までちょっと冷静じゃいられなくなって…」
閉じた扉の外で人目をはばかることもなくボロボロと泣いているのはモリス教授だった。レイの目にはそれがまざまざと見えた。
「大丈夫なら…いいのよ…ああっ、感情がうまくまとまらないわ。ジュディス、あなたが泣いたら私まで悲しくなってしまったわ」
眼鏡を外して目をこすっていたモリス教授は不意に顔を上げて驚愕の表情を浮かべた。
「ちょっ…レイ!?なんでまた急に元の姿に戻ってるのよ。あ、元の姿じゃないわよね。いやだ、すっかり青年じゃないのよ!可愛らしいレイがいなくなっちゃったわ!もっと小さいうちにたくさん抱きしめておくんだったわ!」
モリス教授の慌てっぷりにジュディスがとうとう噴き出した。レイも苦笑する。
「そりゃ可愛げはもう向こう側に置いてきちゃったけど…モリス先生、慌てるのはそこじゃないと思うんですけど…」
ジュディスがベッドから降りる。レイも後ろで服を着て身なりを整えているのに気付いてモリス教授は慌てて後ろを向いて眼鏡をかけ直した。背中を向けたまま呟く。
「…あなたたち…ひょっとして…そういうこと…?」
寝室から服の長さを魔力で調整しながら出てきたレイは扉を開けた。モリス教授のつぶやきを聞きつけて低い声で訂正する。
「見えすぎる目と親和性も厄介な組み合わせですね。さすがに婚約者相手でも、結婚前にそういうことはしないですよ…今回のはあくまで精霊同士の繋がりです」
「そう…だったのね。びっくりしたわ。ジュディスが号泣してるんだもの…。嫌だ、レイ…なんで私よりも背が高くなってるの?もう…急に男になっちゃって」
モリス教授が肘で小突く。後ろからジュディスが恥ずかしそうに顔を出した。
「でも…実はちょっと…危なかったんだ。フレディが角を触るからだよ…私の方がレイを襲いそうになってたから…レイが蔦を出してくれたお陰で精霊の力に引っ張られて助かった…」
「え?そうだったの?僕はてっきりジュディスが蔦を出したんだと思ってたよ」
「え…?」
二人の記憶に齟齬が生じている。
「まぁ…どっちでもいいか。精霊としてはもう結婚してしまったし」
ジュディスがさらっと言ってモリス教授とレイを再び動揺させた。
「えっ?どういうこと?羽化するときみたいではあったけど…結婚って?あの溶ける感じが?」
レイが今度こそ慌てる。
「そうだと思う…私だってこんなの初めてなんだ。ハイ、これがそうです、なんて簡単に説明できないよ。精霊のことは精霊に聞けばって…あれ?そういえばファラーシャは?」
「あれ?ファラーシャ?」
レイの呼び掛けに、少し遠くにいたらしいファラーシャが戻ってきた。
「あら?何その格好!レイの小等部の頃にそっくりじゃない」
モリス教授が嬉しそうな声を上げる。それもそのはず、七歳児くらいの子どもの姿でファラーシャは現れた。ジュディスも内心では確かにかわいいと思った。口には出さなかったが。
「どこ行ってたの?」
レイが問うとファラーシャは笑う。
「主さまたちが愛を交わしてるのに隣で見てろって言うの?そりゃないよ…実際のところは魔族の魅惑の香りに当てられて途中まで気絶してたんだけど、気付いたら主さまたちは溶けて完全に混ざり合ってたんだ」
ファラーシャはクスクスと笑う。
「で、部屋を出てフラフラしてたら…あの人…娘を嫁に出した気分になって泣いてたよ」
「え…?誰が?まさかとは思うけど…フレディ?」
ジュディスは額の上を押さえて押し黙る。けれども急に赤くなると、突然走り出した。




