血を許す者
アリシアはその後しばらく眠っていたようだった。途中様子を見に来たモリス教授に貧血だと告げられて、魔力を流して貰ったところまでは記憶している。だが、気付けばいつの間にか窓の外はすっかり暗くなっていた。起きあがると身体が少し楽になっていた。部屋からそろそろと出ると、どこかからかすかなうめき声が聞こえた。誰かが苦しんでいる、どうしよう、と思ったら突然足音が近づいてきて、アリシアは驚いた。相手も僅かに息を飲む気配がした。
「あ、驚かせてすまない。君はもう大丈夫なのか?」
その後ろから指先に明かりを灯して姿を現したのは、なんと第八王子だった。
「早く行ってあげてクレメンス。また発作を起こしかけてる」
青年は頷いて、うめき声のする部屋に向かう。
「…アリシア、元の姿に戻ったんだね。良かった」
行方不明から戻って小柄になった第八王子は可愛らしい顔で笑った。なのにちゃんと男の子に見えるのは何故だろうとアリシアは思う。
「今日はちょっと慌ただしいから、うるさくて寝られなかったらごめんね。下に降りたら何人か待機してるから気晴らしに話してくるといいよ。階段は向こう」
来た方を指差しながら、そう言って第八王子は手前の部屋に消える。
「ジュディス、まだ魔石の方は大丈夫?」
扉越しに声が聞こえる。魔石?婚約者が不調なのだろうか。不安になりながらも階段を降りると、教授に講師の面々、それに知らない栗色の髪の女性とフロレンティーナが起きていた。
「あら、起こしちゃった?ごめんなさいね」
フロレンティーナがアリシアを手招きながら言う。
「今夜はハーブティーだから、アリシアも飲めるわよ」
モリス教授が言いながら隣に座る講師のウォードの首を消毒しているところだった。奥のソファーで横になっていた人物が起き上がる。魔術騎士科の講師だろうとは見当がついたがアリシアは名前までは知らなかった。
「ブラッドウッド先生、まだ寝ていて大丈夫よ?」
モリス教授が声を掛ける。
「ジュディスは…?」
「大丈夫よ、今のところ安定してるわ」
「こっちにおいでよ、アリシア」
教授と講師だけかと思っていたら何故か奥にブルーノがいた。近付いてアリシアはその膝の上に頭を乗せて眠っているもう一人の姿に気付く。サフィレット、いや今はノアだったか。ブルーノは最近自らが半獣人だと明かして周りをざわつかせていたのでこの二人は有名だった。ブルーノは手近なハーブティーを注いでアリシアに差し出す。手慣れていて卒がない。言われなければ半獣人とは気付かない。
「あ…ありがとう」
受け取ってアリシアは近くのソファーに座る。程なくして講師のウォードもやってきた。柔らかな物腰で生徒に人気がある。不定期に開催される一般学生向けの護身術の講義は大人気でいつも抽選が行われていた。
「アリシア、体調は良くなったのかい?」
ウォードの言葉にアリシアは頷いた。
「フロレンティーナとブリジットの焼いたクッキー美味しいよ。食べる?」
ブルーノの差し出した皿からアリシアはクッキーを受け取る。噛むと香ばしさとバターの風味が広がった。
「とっても美味しい…!」
アリシアは思わず微笑む。
「美味しそうに食べるねぇ」
ウォードが笑う。
「あ…」
慌てて真顔に戻るとブルーノが苦笑した。
「笑ってた方がいいよ。君のお姉さんはいつも大概仏頂面だからね。僕は少し前までの振る舞いのせいで、今だに毛虫でも見つけたかのような蔑んだ眼差しで見られてるよ…」
ブルーノは膝の上の少女を見下ろして、そっと頭を撫でた。最近では二人を応援する声も多い。が、姉のセシリアは第八王子の周辺にいたブルーノとベアトリスに取り入ったダリルも含めて、あまり良い印象を抱いていなかったのも事実だ。あの頃は第八王子も何を考えているのかよく分からなかったし、怠惰でもっと冷たく見えた。今とは別人だ。
「僕は…ノアやジュディスに会ってかなり変わったつもりなんだけどね。まぁレイには敵わないけどさ」
「そのうち分かってくれるさ。何しろ私も同僚からの印象を訂正している最中だからね」
ウォードがにこにこしながら言う。起き上がったブラッドウッドが瓶の水をゴクゴク飲みながら歩いてきて、突然ウォードの肩に腕を回して抱きついた。
「クリス、どうしたの?魔力を吸われ過ぎて酔っ払った?」
「あぁ…酔ってるのかもな。ちょっと膝を貸してくれ」
普段は真面目なブラッドウッドの奇行にブルーノは思わず目を疑う。そのままブラッドウッドはウォードを膝枕にすると再び目を閉じる。
「少し魔力交換しようか。呼ばれたときにそんなにグダグダだと困るよ」
ブラッドウッドの片手を握ってウォードは魔力を流し始めたようだった。ブラッドウッドの両手首にある無骨なブレスレットにアリシアは気付く。
「ブラッドウッド先生がこうなるのは珍しいですね…」
ブルーノが呟く。
「まぁ、みんな色々あるんだよ。今は先生の仮面を被ってないしね。クリスは真面目過ぎるから、たまには羽目を外してもいいと思うよ」
「真面目じゃない…臆病なだけ…だ…」
ブラッドウッドが呟く。
「アリシア、びっくりした?」
ウォードに聞かれてアリシアは慌てて首を横に振る。
「私も…臆病で…真面目な姉を真似すればなんとかなるんじゃないかって…いつも自分を偽っていたから…」
アリシアが恥ずかしそうに呟くと、ブラッドウッドの目が不意に開いた。漆黒の闇のような瞳。王都には少ない自分と同じ色の瞳と目が合う。僅かに驚いたような相手の瞳にアリシアは吸い込まれそうな感覚に陥りハッとして手首を掴んだ。アリシアの手首のそれは装飾品に見えるよう細工が施されているが多分用途は同じだ。二卵性の双子の姉には引き継がれなかった力。欠点。汚点。いつもそう思っていた。
「君も…私と同じだな…その力は…使い方次第で…人助けもできるんだ…」
ブラッドウッドはアリシアの目を見て僅かな笑みを浮かべた。
「アリシア、いらっしゃい。ちょうどあなたとも話がしたかったのよ」
モリス教授に呼ばれてアリシアは席を移動する。アリシアと向かい合うとモリス教授は遮断した。
「ここからはあなたの身体についての話をするから、素直な気持ちを話してね」
モリス教授は言う。アリシアは頷いた。
「最近、私が処方した以外に抑制剤を何か使った?」
アリシアはドキリとしたが仕方なく頷いた。
「実家から…取り寄せて…使いました…」
「…でも、効かなかったのね?」
アリシアは小さく頷く。効かないどころかより一層飢えは激しくなった。
「私…それで…」
「そうなのよ。最近学内を騒がせている吸血騒ぎの噛み跡には種類の違うものがあった…明らかに人ではないものと、人のそれに近いものと…その手首の魔道具を外した形跡はないから、ほぼ無自覚なんでしょうけど…あなたはそのとき魔族の力を使ったんだと思うわ。相手を酔わせて検知をすり抜けた」
モリス教授はアリシアの頭を撫でた。
「私…どうしたら…」
「そうね。あなたはもう魔族の二次性徴期に入ったのだと思うわ。ご実家に連絡したらあなたの意思を尊重してほしいと、有り難い返事が返ってきたわ」
認めない家も多い。力で押さえつけて管理しろと身体に負荷のかかる薬の増量を平気で命じてくる家もある。モリス教授はより副作用の少ない薬をベンジャミンと開発している最中だ。
「抑制剤が効かないのなら、魔道具で押さえても効果の出た子はいないのよ。それにあなたはすでに血の味を知ってしまった。一度知ると断つのも難しいと聞いているわ。だからここで一つ提案。これからは定期的な血の提供を受けるの。どう?」
アリシアはモリス教授の顔をぽかんと見上げた。そんなことが許されるのだろうか。
「さっき会ったでしょ?ブラッドウッド先生。彼の血ならあなたの衝動を恐らく抑えられる。先生はアリシアさえ嫌じゃないなら血を提供すると言ってるわ」
「でも私がそれを受け入れたら…私は…人じゃ…なくなってしまう…?」
アリシアは手首を強く握る。モリス教授は微笑んで首を横に振った。遮断の外側に声を掛ける。
「本人に聞くといいわ。ブラッドウッド先生、もう少し魔力を流すわよ。あなたジュディスに取られ過ぎなのよ」
「すみません…」
しばらくして遮断の中にブラッドウッドが入ってきた。起き上がるととても大きな人なのだと分かる。アリシアはもじもじした。
「あの…血を…飲み過ぎたら…人じゃなくなる気がして…」
アリシアが言うとブラッドウッドは困ったように笑った。
「そういう風に言うのはどちらかと言えば人の方の都合だ。好き放題血を求められると迷惑だから。それに、より多く血を飲んだからと言って強い魔族になる訳ではないよ。二次性徴期の衝動を制御する程度の吸血で左右されるものではない…」
「そう…なんですか…私…自分がおかしいのかもって…思って…怖くて…」
アリシアは自分が魔族になる訳ではないと知って安堵と共に小さな息を吐く。喉が渇くと不意に思ってギョッとした。思わず口を押さえる。
「…足りてないな。稀に血の相性もあるから試してみた方が早い。いいよ」
ブラッドウッドはそう言ってアリシアの方に無防備に首を晒した。
「えっ…そんな…」
人としてのアリシアの理性が抵抗する。なのに吸い寄せられるように首筋の血管から目が逸らせない。思わず喉が鳴る。
「人より魔族の血が混ざった方が旨い。私も抑制剤は効かなかったから血の提供を受けた」
そろそろと近付くアリシアの手がブラッドウッドの肩をそっと掴む。首筋に唇の触れる気配がした。無自覚に相手の痛みを緩和する魔力を流している。やがて小さな、けれども尖った犬歯が刺さるのをブラッドウッドは感じた。最初は遠慮がちに。けれどもそのうち無心になってアリシアはブラッドウッドの血を飲み始めた。この時期の飢えのような辛さは知っている。葛藤も罪悪感も。最近は食事も料理長に管理されているし規則正しい生活をして身体も鍛えている。荒れていた時期より血は旨いはずだと思ってブラッドウッドは小さく笑ってしまった。
「あ…私っ…」
アリシアが我に返って顔を上げる。急に顔が真っ赤になっていた。
「旨かったか?まだ飲んでも大丈夫だ」
何となく頭を撫でてしまってからハッとしてブラッドウッドは手を離す。俯いて目を逸らしたアリシアがそれでも小声で呟くのが聞こえた。
「美味しい…です…」
「それは良かった。飢えがなくなるまで飲んでいい」
アリシアは今度は素直にその言葉に従った。耐え難い渇きが満たされてゆくのを感じる。父の書斎にあった度数の高い酒を舐めたときのような少し痺れる味を堪能した。相手に許されて飲む血はとても甘美だった。
***
程なくして学院長が沈黙の間から戻ってきた。遮断して講師と教授を集めて話し始める。アリシアは少し赤い顔をして遮断の中から出てきたところだった。
「おかえり。うん、顔色もずっと良くなったね」
ブルーノが微笑む。恥ずかしいと思ったら思考を読んだようにブルーノは言った。
「半獣人は鼻が利くから、君からブラッドウッド先生の血の匂いがするのも分かるんだよ。僕たちもお互いに血を飲んで誓いを交わしたりするしね。別に恥ずかしいことじゃないよ」
「…何の話?あぁ…血?ジュディスも僕の血は頻繁に飲むからね。僕だって羽化の守の絆を結んだときジュディスの血を飲んだけど、美味しいと思ったし」
二階から降りてきたレイが話を聞きつけて平然と言ってのける。アリシアはポカンとした。
「そ…そうなの…?」
眠れないほど悩んで損した気分だ。第八王子はあっさりと乗り越えている。
「ジュディスにも魔族の血が少し入ってるって、つい最近知ったばかりだよ。通りで魔力切れ寸前の度に噛み付かれる訳だってようやく理解したんだけど」
レイは首筋を触る。薄桃色の小さな魔法陣で傷口が丁寧に塞がれていた。
「…あぁ…あの香が効いたときもそれで本能的に…ん?最近って、それまで噛まれてて変だと思わなかったのか?」
ブルーノが呆れたように言うとレイは笑った。
「あぁ?うん、ちょっと過剰な愛情表現くらいに思ってたから」
「アリシア今の聞いた?このくらい能天気な相手もいるんだから、気にしなくて大丈夫だよ」
「僕は一度死にかけて戻ってきたら身体も色々変わったから、細かいことを気にしてたらやってられないんだよ。受け入れた方が楽なこともあるって、学院長にも言われたしね。当初の予定ではここまで縮むつもりはなかったんだけど、思うようにはいかないよね」
レイは肩をすくめて笑った。




