真実
クレメンスは自分が頼られたことに、それは自分でも思いもよらなかったことだが、今までに感じたことのない喜びを感じていた。期待されない自分、平凡な自分、それでも自分よりも強い魔力量を持ってしても越えられない脅威があるのだと分かったからかもしれなかった。
屋敷の庭は片付けられていたが、折れた木々や乱れた植え込み、踏み荒らされて土が剥き出しのままの芝生が当時ここで大勢が争った形跡を今もなお残していた。ファラーシャはクレメンスの肩に飛び乗った。
「あちこちで血が流れたから、あまり長く地中に潜ると僕も影響を受けるんだ」
仔猫はすでに仔猫ではなくなっていた。闇のように黒くなり目がルビー色に輝いている。仔猫のときの三倍程の大きさになりクレメンスの首に巻き付いていた。重さをあまり感じないのが救いだ。
ファラーシャに言われるままに進むと扉が開いていた。見渡すと埃の溜まった床に力なく俯いている少女を見つけた。
「フロレンティーナ!!」
クレメンスの声にフロレンティーナはしばらくしてようやく顔を上げた。が焦点が合わない。涙の跡がある。クレメンスは迷わず介入した。
(フロレンティーナ!意識を手放しちゃダメだ)
竜に介入するのは初めてだったが咄嗟にやってしまったので、クレメンスは人とあまりに勝手が違って慌てた。突然目の前に広がった業火に包まれた街の中にクレメンスは落下しそうになった。
「そっちじゃないよ!ったく危ないなぁ」
ファラーシャに首の後ろ側を掴まれてクレメンスは落下を免れる。いつの間にかファラーシャは翼のある竜の姿になっていた。ファラーシャは空中を旋回し、今にも燃え落ちそうな塔の上で泣いている赤毛の幼い少女に近付いた。
「早くその子を掴まえて!」
クレメンスは一度掴み損ねたが、次の旋回で手を伸ばして少女を抱き留める。
「行くよ。長居は無用だ」
ファラーシャは上空を目指す。暗い空の雲を切り裂いて一瞬の光が差す。ファラーシャはその光に飛び込んだ。
「…っ!!」
景色が戻った。クレメンスは頭の痛みを感じながら、フロレンティーナの顔を覗き込んだ。金の瞳にゆっくりと光が戻る。
「あぁ…クレメンス…」
フロレンティーナはクレメンスに抱きついた。
「…ありがとう。お願い、ここから連れ出して。私一人じゃ出られないのよ…」
クレメンスはフロレンティーナを抱えて歩き出す。ちらりと二階を見上げる。影の手が清掃を済ませたはずなのに、そこは禍々しい気配が漂ったままだった。クレメンスは首を振る。早く出よう。フロレンティーナを気遣いながらもクレメンスは可能な限り早く屋敷の外へ出た。
屋敷から出できた二人を見てジュディスは明らかにホッとした顔をした。レイとリアムもダリルの幻を見なくなっていた。フロレンティーナはリアムをじっと見て少し考える素振りをした。
「私は…沈黙の誓いには縛られない存在だから話せるわ。あなたには知る権利がある。あなたのお兄さんのことよ」
フロレンティーナは力なく微笑んだ。
「私はあなたのお兄さんを救うことができなかった…許してほしいとは言わないわ。あなたのお兄さんは奇形化が進み過ぎていて元に戻せなかった。周りにいる者を傷付けて暴れて…彼にとどめを刺したのは私よ。私が彼の命を奪ったの。助けられなくてごめんなさい」
フロレンティーナはリアムに向かって深々と頭を下げた。
***
先程の幻は幻ではなかったのだとリアムは理解した。治癒院で謎の伝染病が発生してそれに感染して亡くなったと家族には伝えられていた。だから感染を避ける為に遺体もすでに焼いてしまっていてないのだと。リアムはそのことに薄っすら違和感も覚えていた。だが。
あの幻のようなダリルの顔を持つ異形を目にしたとき、リアムは遺体がなかったのはそれだったのだと分かってしまった。ダリルに何が起こったのかは分からないがダリルは異形の者となり狂気のままに暴れた。目の前の少女はそれを止めたのだと。
「兄は元々…意地悪なところがあって…僕の顔を水につけて苦しむのを見ては…楽しむような人だったんです…。それに抵抗できなかった僕が…兄の残忍さに拍車をかけていたなら…彼のその性格を増長させたのは僕なのかもしれません…」
リアムは無意識に左腕を触る。フロレンティーナはそっとその腕に触れた。服の下に火傷の痕がある。
「…それもお兄さんが?」
フロレンティーナの言葉にリアムは頷いた。
「そのくせ、僕がドジだから怪我をしたり溺れたりすると…そう見せかけるのだけは上手い人でした。僕は彼をずっと憎んでいました。だから正直…彼が死んだと聞いて…悲しむどころかホッとしてしまったんです。もう酷いことをされることはないんだと思って」
リアムは長い間隠していた気持ちをとうとう吐露してしまった。顔を覆う。今ですら実に残忍な兄らしい最期だと思ってしまった。泣く資格などないのに涙が流れ出た。最低な弟だ。
不意に良い香りがして温かい腕に抱きしめられた。驚いて顔を上げると赤い燃えるような髪の美女が彼を抱きしめていた。
「私の本来の姿はこちらなの。私はフロレンティーナ。今まで辛かったわね。あなたは十分我慢したわ」
兄を屠った手のはずなのにその腕は温かくて優しかった。リアムが落ち着くまでフロレンティーナはずっとそうしてくれていた。レイとジュディス、クレメンスは少し離れた場所にある岩の上に座って待っていた。
「…あの屋敷には誰かの魔術が掛けられているんだと思う…私には…二階の窓辺に…あの人たちが見えた」
ジュディスは口を閉じて右手の甲に縦に残った傷痕に視線を落とした。レイはその手を上からそっと撫でた。
「私は大丈夫だ。レイの方が痛かっただろ?」
ジュディスの手がレイの魔力中枢の辺りに触れる。慈しむように優しく撫でた。
「…僕らは羽化の守を巻き込んで兄弟で殺し合いをしたからね…リアムのとこよりずっと質が悪いよ」
「おいっ…!」
ジュディスが慌てて傍らのクレメンスの顔をちらりと見る。レイは苦笑した。
「ロウの家の諜報機関は侮れないから、その辺りはバレてるんだよ。王家の影の手の中にもロウで共に学んだ仲間がいるから…」
「そう…なのか」
ジュディスは拍子抜けしたような表情をした。
「じゃあ、私がレイの腹に開いた穴の中に入って一緒に繭になったのも知ってるのか?」
「えっ…?」
クレメンスがジュディスを振り返り僅かに動揺を見せる。
「…なんだ、知らなかったのか。全部が全部筒抜けな訳でもないんだな」
ジュディスは小さな笑い声を立てた。
「君たち…本当に…一緒に繭の中に入ったのか?」
クレメンスはレイの顔を見る。
「僕はそのとき…もうほぼ意識を失ってたから…覚えてないけどね。でもここをジュディスが塞いでくれようとしてたのは…なんとなく感じてた」
「王家の正史には書かれないからそっちに記録でも残しておいてくれないか?歴代の羽化の守でも一緒に繭に入った頭のおかしな奴はさすがに存在しなかった。あくまで記録上は…だけどね」
「君たちの瞳が入れ替わったのも…それで?」
クレメンスが問いかけるとジュディスは悪戯な目をした。
「そういうことにしてある」
「じゃあ…本当のところは?」
クレメンスの言葉にジュディスはニヤリと笑った。
「何でもかんでも話す訳じゃない。それは秘密だ」
「えっ?何?僕もそれはよく知らないんだけど」
レイの言葉にもジュディスは意味深に笑うだけだった。




