クレメンスの憤懣
訓練中に連続で激しいくしゃみをし始めたクレメンスに講師のウォードは木刀を振る手を止めて言った。
「大丈夫?風邪かな?」
「いいえ…」
クレメンスは木刀を構え直す。視界の端に複数人を相手にほぼ遊ぶように舞っているレイの姿が見えた。王家の剣技にロウの剣技の型を混ぜている。ジュディスは生徒の動きを採点中だ。レイの動きにほぼついていけずに息を切らす生徒たちの中で意外にも粘っているのはノアだった。
ノアは並外れた跳躍力を利用してレイに追いつき木刀を繰り出す。以前は威力がなかったそれは、鋭さを持ってレイの顔の横の空気を切り裂いた。
不意に気配を感じてクレメンスの意識は観覧席に逸れる。慌てて降ってくるウォードの木刀を受け流し攻撃態勢に戻ったが、クレメンスの目は少女姿の父とベアトリスの二人を認識していた。ポツポツと他にも観客はいたが、二人が揃った場所から妙に親しみのこもった気配が漂い出ていて、クレメンスは落ち着かなくなった。何故父とベアトリスが仲良くなっているんだ?途端に何故かムッとして、クレメンスはウォードの木刀を渾身の力で弾き飛ばした。
「君は、集中力があるのかないのか…かと思えば突然本気になって、面白い子だね」
弾かれた木刀がくるくる回って落ちてくるのをウォードは片手で受け止める。クレメンスの番は終わり次の生徒に移ったが、席に戻ると早速隣の生徒が声を掛けてきた。
「今朝掲示板に載っていたの…ベアトリス嬢と一緒に来たあの子だろ?ブリジット・ロウって。実物も美しいなぁ。君のお姉さんか何か?」
「…あれは…従姉で、すでに既婚者だ。相手を怒らせると厄介だから止めておいた方がいい」
真実と嘘を織り交ぜてクレメンスは釘を刺す。全て嘘でも相手は信用しない。それに黒い竜である母が実際は怖いのも本当だ。言われた相手はガッカリした声を出した。
「君、最近ベアトリス嬢と噂になってるけれど、実際のところはどうなんだい?」
クレメンスは小さく嘆息した。誰かにも同じことを聞かれた。
「…それを話す義務はないと思うが、少なくとも周りで噂されているような子ではないよ。以前どうだったかは知らないが、少なくとも今はね」
「そのうちメッキが剥がれて正体が見えるんじゃないかな?」
相手の言葉にクレメンスは冷ややかな目を向けた。
「先の行いを悔いて変わることができる者もいるさ…それに僕の前では少なくとも彼女は素のままを晒しているよ。それがどんな風かは君には教えてあげないけどね。だって、それは関わった者の特権だろう?」
クレメンスの金の瞳に僅かに浮かんだ笑みに相手はたじろいだ。こういう表情をするとなんだか妙に色気を感じる。彼は傍らの水の瓶を取り上げて動揺を誤魔化すようにぐびぐびと飲み干した。
***
「…なんで見に来たんだ…」
仏頂面のクレメンスにブリジットは鼻で笑ったが、ベアトリスはしゅんとしてすぐに謝った。
「…ごめんなさい…嫌だった?」
「いや…今のは君に言ったんじゃなくて、こっちだ…」
少女姿の父親を指差す。中身は父親のくせに無駄に美人なのが困る。他にも数名、興味本位で近付いてきた青年がいたが、ブリジットは優雅に微笑んで頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ない。私は資格を取りたくてここに通っているんだ。他の誘惑に流されると私の配偶者に叱られるから、そっとしておいてもらえると助かる…」
ブリジットに声を掛けようとしていた青年たちは諦めたように去ってゆく。が、その後ろに先ほど話しかけてきた青年が立っていた。
「君は…僕の話を聞いていなかったのか?」
クレメンスの言葉に青年は慌てて首を横に振ると、意を決したように言った。
「僕は君と友だちになりたいんだ!まずは名前を覚えてほしい。僕はリアム・マクミラン。あぁ…似てないだろ?ダリルは異母兄だったから…」
「…あなたが…ダリルの弟…?あの…ダリルのこと…お悔やみを申し上げます…」
ベアトリスが途端に青ざめる。王立治癒院にいたダリルの元にも第一王子が訪れていた件についてベアトリスは王宮付きの魔術師に沈黙の誓いを立てさせられた。ダリルについて第一王子が語った内容についても。ベアトリスは口許を抑える。暗闇の中に突然第一王子の手が伸びてベアトリスを絡め取った。
「ベアトリス!しっかりしろ」
ブリジットに顔を覗き込まれて、僅かな間に介入された。ベアトリスは吐き気を堪えて顔を上げる。ブリジットの水の魔力がベアトリスの炎を包み込む。必死にその手に縋り付いてなんとか自我を保った。
「…ごめんなさい…」
ベアトリスが小さく呟くと、リアムは首を横に振った。
「僕は…その…彼の最期には正直同情できなかった。そんな酷い弟なんだ。元々仲も悪かったし。でもクレメンスと友だちになりたいと思ったのは本当なんだ。君と知り合いのようだし…君について…少し噂以外のことも知りたいと思ったのも本当だけど…君がそんなに辛いのなら…諦めるよ…」
金髪碧眼のリアムは髪の色も目の色もダリルと同じなのにあまり似ていなかった。人混みに紛れたら探せなくなるだろう。本人の浮かべる迷子の子どものような気弱そうな表情がそう思わせるのかもしれなかった。
「私…は…知っていると思うけれど療養中だから、すぐこんな風になってしまうのよ…あなたのせいじゃないわ…」
ベアトリスの言葉に僅かにリアムはホッとしたようだったが、傍らのクレメンスを見て再び不安を覚えた。クレメンスはものの見事に仏頂面だった。だがクレメンスはそのまま右手を出して握手を求めてきた。
「こちらこそ、これから、よろしく頼む」
「こいつは昔からこういう顔なんだ。気にするな」
ブリジットが慰めるようにそう言って苦笑した。
***
クレメンスはブリジットからベアトリスの車椅子を託され、一度レイの屋敷に戻ることにした。ブリジットは空いた時間に吸血騒ぎの犯人探しを続行するらしかった。ベアトリスの車椅子を押しながら、なんとなくリアムもそのまま同じ方向に歩き出す。突然クレメンスは後ろから肩を叩かれた。振り向くとジュディスとレイだった。
「ロウ先生…じゃなかったジュディス先生、レイ先生も!」
振り返ったリアムが破顔する。二人とも名前に先生をつけることで定着したのは、ロウと呼ばれてもいまいちジュディスが反応しきれなかったせいもあった。魔術騎士科の生徒に二人は大人気だった。
「もう今日の先生業は終わりだ。ベアトリスは屋敷に戻るのか?」
「えぇ…ジュディスも?」
「まぁ本調子じゃないからな」
ベアトリスはさりげなく繋がれた二人の手を見た。視線に気付いたジュディスはニヤリと笑う。
「これでも魔力交換の練習は欠かさずやってるんだ。こうやって歩きながら」
ジュディスが大袈裟に繋いだ手を振るとレイが慌てた。
「ちょっと…!流れを乱さないでよっ!」
「…そんなことをやってたのか」
ボソリとクレメンスが呟く。まぁね、と気安く返したレイは、隣のリアムが不思議そうな顔をして見ているのに気付いて笑った。
「あぁ…クレメンスと僕は幼馴染なんだよ。君となかなか個人的に話す機会がなくて…行方不明になっている間にダリルがそんなことになっていたとは知らず…お悔やみを言えずに申し訳ない」
本日二度目の謝罪とお悔やみの言葉にリアムは困った顔をした。
「僕は…ダリルと仲が悪くて…結局、口を利かないまま別れてしまったんです。周りのみんなほど、ダリルに同情もできなければ悲しいとも思えなくて…冷たいですよね。いつも意地悪なことをされていた記憶ばかりで…」
「兄弟だって親子だってみんな仲が良いかと言ったらそうじゃないだろ?歩み寄れないことだってある。リアムがことさら冷たい訳じゃない。私はダリルのことはよく知らないしな…」
ジュディスはそんなことをサラリと口にして歩き始める。リアムはさりげないジュディスの言葉にホッとした。リアムは葬儀で泣きもせず、兄のことを良く思っていなかったくせに派手に泣き崩れる母をどこか冷めた目で見ていた。あの日の所在なさを思い出して、自分はずっと居場所を探しているのだと気付いた。ここに自分が存在することを許してくれる場所がほしい、そう思ったときにレイが笑いながら言った。
「良かったらリアムもこれから屋敷においでよ。お昼をみんなで食べよう」




