抗拒と和解
「南のあれが再び目覚めるですって?」
話を聞き終えたフロレンティーナは驚きのあまり思わず元の姿に戻ってしまった。額に手を当てて考える。
「確かに…あれと真っ向から戦うのを想像したら…」
フロレンティーナは口をつぐんで両腕をさすった。あの戦いで竜も一族を大勢失った。
「…知っているのか?」
フレディは聞きかけたが途中で気を取り直し、掌を向けて制した。
「いや、やはりいい…シリルは私やブリジットが蔦の眷属になったら戦局が変わるかもと…そんなことまで仄めかしてきた…」
「その誘いには乗ってほしくないな…」
突然声がして、仮眠室からジュディスとレイが出てきた。フロレンティーナはハッとする。自らの足元の陰に猫の目が光り、するりと仔猫が姿を現した。
「僕たち精霊には遮断も効かないからね…話は全部聞かせてもらったよ」
ファラーシャが伸びをする。
「あいつは嘘は言ってないだろうが、肝心なことを話していない…蔦の眷属になるのはそう簡単なことじゃないんだ」
繋いだ二人の手の隙間から淡く光る蔦が伸びて二人の腕にも絡まっていた。どちらがどちらの蔦なのか分からない。ジュディスは続けた。
「自分や大切な誰かが死にかけて女神の領域に入った場合は眷属に加えられる可能性も高まるが、こちらでそれをやるのは容易なことじゃない…あいつは確かにそれが出来る。出来るが、あいつの蔦をその身に取り入れた者が眷属になれるかと言ったら、なれないことの方が多い…」
ジュディスはそこで息を吐いた。その身体を支えてレイがソファーに座らせ自分も隣に座る。ジュディスはレイの肩に寄りかかると目を閉じる。まだ具合が良くないのは明白だった。
「少なくとも…こちらで蔦の眷属を増やせるのはあいつだけだ…でも、あの蔦をその身体に取り入れた者は即座に惨たらしい死に方をする者が多い。身の内から蔦に喰われて精神も崩壊する…」
途端にレイが身体を震わせ顔をしかめる。ジュディスの頭に過ぎる何かを見てしまったようだった。
「レイ…共有し過ぎだ…」
ジュディスは僅かに目を開けて眉をひそめる。
「うん…ごめん。でもこれは確かにお勧めできないな…うっ…気持ち悪っ…」
レイが呟いて口を覆う。
「それに…もし本当にあれの眠りにまだ三年の猶予があるなら…他に方法がないこともない…」
ジュディスは腕に巻き付く蔦に視線を移すと言った。
「一時的に蔦持ちを複数作ることは可能なんだ…どのくらいその蔦の力が保たれるかは相性にもよるから正直なところよく分からないが…候補者の身体の中で数年かけて種から育てれば…あいつの蔦を飲むよりは遥かに緩やかで身体にも馴染みやすい…」
「種ねぇ…で、それはどこにあるの?」
フロレンティーナが首を傾げる。
「…この花が咲いたら…恐らく種になる…」
ジュディスが繋いでいない方の片手で絡まる蔦を指差した。驚いて目を丸くしたのはレイだった。よく見るといつの間にか肩の辺りに丸い膨らみがある。まだ青い花の蕾だった。
「えっ?ちょっと待って…どういうこと?前も大量に咲いたけど種になんかならなかったよね…?」
「うん?あぁ…私も初めてのことだからよく分かっていなかったんだ…私やレイの意思とは関係なく蔦が絡むと…自然とそうなるみたいだ…だからちょっと…そのせいもあるのか…今は身体が思うように動かない」
「えぇ…?」
レイは急に気まずくなり片手で顔を覆った。確かに今も二人の蔦は絡まったままだ。血を分け与え循環させるために。急に赤くなったレイの顔を見てフロレンティーナは思わずクスリと笑ってしまった。
「なるほどね…」
「…女神の領域で飲んだ蔦がレイの中で育ったんだ…だからそのうちもっと色々出来るようになる…」
ジュディスは淡々と語る。
「ねぇ、色々って何?」
レイは慌てたがジュディスは目を閉じて微笑んだだけだった。
「ちなみに、私もその種を飲むことは可能?」
フロレンティーナの言葉に傍らのフレディは目を剥く。
「フロレンティーナは前に私の蔦を食べたよね…それで平気だったから種を飲んでも多分…でもお腹に赤ちゃんがいるうちは試さない方がいいと思う。何が起こるか分からないからね。フレディも、ブリジットが興味本位であいつの蔦を飲まないように注意しておくべきだと思うよ。好奇心の塊みたいな人だから」
ジュディスは薄く目を開ける。僅かな表情の違いでその顔が先ほど見せたシリルの顔付きと重なって、フレディはより一層複雑な気分になった。
「ねぇ僕たち精霊のこと忘れてない?」
不意に仔猫が口を開く。フレディとジュディスは仔猫を見下ろした。
「先の戦争で大地に血が流れて僕たちの仲間の多くの形が変わってしまったけれど、浄化すれば戻れるんだ。地底の悪鬼が浮上しやすくなったのは精霊が減ったのも一つの要因なんだよ?」
「…ということは、精霊を浄化すれば悪鬼の眠りを長引かせることができるのか?」
フレディが目を光らせる。
「そういうことだね。待ち望んだジュディスも戻ったしね。ジュディスの血は僕らを目覚めさせる。ま、僕が一番早起きだったけどね」
仔猫は得意気に言った。
***
同じ頃、クレメンスと共に屋敷に戻ったベアトリスは再び禁断症状に襲われて苦しんでいた。ベッドに横になって荒い呼吸を繰り返すベアトリスにクレメンスは告げた。
「…魔力を流してもいいだろうか」
ベアトリスは頷いた。手足が痺れて血の気が引いているのが分かる。見苦しい姿を晒しているのは分かりきっていたが、苦しくてボタンもいくつか外してしまっていた。そのまま喉を掻きむしろうとする手をクレメンスに掴んで引き剥がされる。
「傷がつくから止めるんだ」
両手にクレメンスの指が絡まり力尽くで封じられる。一瞬脳裏を恐怖が過ぎる。第一王子はベアトリスに甘い言葉を囁きながらも入念に服従の魔力をその言葉に織り込んで徐々に自由を奪った。
「怖がらせてすまない…でも、これ以上君に傷が付くのを見ているのは耐えられないから、少し介入する…」
クレメンスの両手から魔力が流れ込んできた。ゆっくりと静かに流れ込んでくるのは炎だった。なのに冷たい。一瞬ベアトリスは混乱した。身体の中で暴れるベアトリスの炎が冷たい炎に冷やされてゆく。燃えているのが不思議なほど冷たい。やがてそれは混ざり合って、最後にはほのかな熱だけが身体中に広がった。ベアトリスが目を開けると、静かなクレメンスの金の瞳にぶつかった。まるで凪いだ水面のようだ。これほど近くにいて自分に欲望の眼差しを向けないのはレイとクレメンスくらいだとベアトリスは思った。
「…落ち着いた?」
クレメンスの両手が呆気なく離れる。それを少し寂しいと感じる自分にベアトリスは驚いた。
「介入って…」
王立学院内で魔力での介入を許されるのは補助講師以上で特定の階級と資格を有する者のみだ。クレメンスは苦笑して、中空に証明書を取り出した。
「ロウの家では勉学よりもまず魔力暴走をいかに止めるかが優先事項なんだ。だから資格も持ってるし、学院長から使用許可も得ている」
クレメンスは手近な椅子に座ってベアトリスのあちこちが変色した腕に触れた。
「…少し痕を消してもいいかな」
指先が触れる。針を刺して身体に広がる媚薬の感覚に溺れた自分が脳裏を過ぎる。そうしてその一瞬の記憶をクレメンスにも読まれたことに気付いてベアトリスは羞恥のあまり顔を背けた。
「自分のしたことときちんと向き合わないと、先には進めないよ」
淡々とクレメンスに告げられる。
「家には君よりももっとひどい状態で運び込まれる子もいる。自分の意思とは無関係に薬漬けにされていて、助からない子もたくさんみてきた…君はまだ戻れる…もちろん、平坦な道のりではないけれど…」
クレメンスの指先が離れるとそこにはあざの代わりにごく淡い桃色の小さな魔法陣が描かれていた。
「一人で耐えられなくなったり危険な目に遭いそうなときはここに触れて僕を呼んで」
まるで明日の予定でも話すような軽い口調でクレメンスは告げる。立ち上がって部屋を出る背中にベアトリスは思わず叫んだ。
「…どうして?私に、そこまでしてくれるの?」
扉の近くでクレメンスは振り向いた。
「どうしてかな。ただ…君はもっと大切に扱われるべきだと…そう感じたから、かな」
クレメンスは静かな瞳でベアトリスを見つめそっと扉を閉めた。
ベアトリスの部屋を出たクレメンスは自室に向かう途中で腕組みをしたブリジットに突然行く手を遮られた。
「仏頂面のわりには、随分と甘い台詞を吐く口だな」
ブリジットはニヤニヤ笑っていた。
「別に…」
関係ないと言いかけて、クレメンスは思い直す。僅かにためらった後にクレメンスは続けた。
「あの子は…父親に殴らそうになっても身動き一つしなかったんだ…まるでそれが当然であるかのように…」
「ふぅん。それで同情して代わりに殴られてやったのか?」
「いや、むしろ初めて殴られてから分かったんだ。僕でも痛かったのにあれは女の子に日常的にしていいことじゃない…あの子は暴力に慣れすぎていて針の刺さる痛みの感覚すらも鈍ってる。だから第一王子に強いられた服従にも安々と従ってしまったんだ…」
一瞬見えた光景の中におぞましい気配がした。あの危険な媚薬を教えたのもひょっとすると第一王子か。
「そこがジュディスとは真逆だな。ジュディスは服従を跳ね除け急所を蹴り飛ばしてたぞ。すごいなあの動き」
ジュディスは自分の掌に刺された短剣まで引き抜いて、第一王子の背中を刺していた。ブリジットは思わず乾いた笑い声を立てた。気を失ったジュディスに魔力を流し込む際に脳裏を過った光景の数々。なるほど王家が必死に揉み消す訳だ。まさに地獄絵図。ジュディスでなければレイ諸共死んでいた。
「…それが、羽化の守になった者となれなかった者の違いだとでも?」
クレメンスは額を押さえる。あの第一王子の服従を跳ね除ける?尋常じゃない。
「まぁいい、あまり甘やかし過ぎなければ。下手に憐憫をかけると、あれは簡単に恋に落ちるぞ?その責任は取れるのか?」
「…あなたも母との距離感を誤ったじゃないですか」
クレメンスの言葉にブリジットはピクリと眉を上げた。
「…それは誰の言葉だ?当主か?」
ロウ公爵家の現当主はブリジットの父親だ。クレメンスは無言だったが金の瞳に浮かんだ僅かな動揺をブリジットは瞬時に読み取った。
「…あれは、他に何と言った?」
クレメンスは俯く。口にすべきか迷っている様子だった。以前のクレメンスなら言わなかっただろう。だがここ数日で父親に対する印象が揺らいでいた。
「…竜の子が…出来損ないで…あなたは失望している…と…」
ブリジットは大股に一歩を踏み出して、大きくなった息子の肩を抱いた。
「あれは親子の間に楔を打ち込むのが得意なんだ。私は一度たりともそんなことは思ったことがないし、アドリアーナのことだって間違った訳じゃない。私がこの手で選んだことだ。なるほど…お前の自己評価の低さはそこにあるのか?あの老いぼれの妄言には耳を傾けるな。いいな?」
クレメンスは顔を上げた。その瞳にはまだ迷いが残っていた。不意にその手がブリジットのお腹に触れた。
「でも…これは…少なくとも…あなたが望んだことじゃない…僕は…あいつを…殺したいほど憎んでる…」
ブリジットは肩を抱いたまま天井を仰いだ。聡い子はこういう見えなくていいことまで分かってしまう。
「そうだな…だが腹の子に罪はない。それに私はお前に無駄死にして欲しくはないからな。まぁ…気長に待て。この報復はいずれきっちりつけさせてもらう…私にとって竜の呪いはむしろ祝福だ。いつかその喉笛を噛み切ってやる…」
ブリジットの深い青の瞳に金の虹彩が過ぎる。瞳孔が縦長に変わった。苛烈な竜の魔力に晒されているのに、クレメンスにはむしろそれが心地良かった。自分もベアトリス以上に感覚がズレている、そう思ってから全く違うことに気付く。この魔力はクレメンスを絶対に傷つけない。だから自分はずっと平気だったのだと、急にすとんと腑に落ちた。
「父さん…今まで…その…色々とごめん」
クレメンスの言葉にブリジットは笑った。
「調子が狂うから止めてくれ。それよりお前は、もっと笑え。楽しいときはちゃんと楽しい顔をしろ」
ブリジットは大きくなった息子の栗色の髪をわざと乱暴に撫でてぐしゃぐしゃにした。




