出現
早朝にソロは耐え難い喉の渇きに目を覚ました。が、起き上がった途端に急に吐き気を覚えて胃のあたりを押さえた。嫌な塊が痛みと共に迫り上がってくる。
「…っ!」
ひとしきり吐き出すと昨日食べた物と一緒に見覚えのない石が転がり落ちた。肩で息をしながら血の如き赤色の楕円形の石を目にしたソロは、途端に何かとても嫌なことを思い出しそうになる。
(見たくない…)
慌てて石を掴んでポケットに入れるとその嫌な感じは和らいだ。
(掃除しなきゃ…)
ふらふらとソロは立ち上がる。物音に気付いたのかアマロックが顔を出した。
「ソロ大丈夫か?」
「…ご、ごめんなさい…汚してしまって…」
「気にするな。顔を洗ってきな。着替えたら魔力を流してやるから」
アマロックはソロの頭を撫でた。掃除用具を取りに行ったアマロックだったが、不意に本能的な嫌悪感に駆られて外に飛び出した。どこだ?まだ薄暗い空を見上げる。王立学院の魔力の壁は破壊が困難だ。二重に仕掛けられた紅い竜と学院長の編んだその魔力の網を潜るのは更に危険度が増す。なのに、その網の目を潜り抜けて何かが近付いてきていた。
その翼。その色。大戦時の南方王朝の瘴気に満ちた暗い空を思い出す。黒い闇の如き翼の竜がこちら目掛けて飛んでくるのが見えた。冗談じゃない。アマロックは柄にもなく慌てて叫んだ。
「フロレンティーナ起きろ!来客だ!」
***
「もうっ!急に置いていかれたらさみしいって毎回言っているでしょ!」
「分かった…分かったから、そんなに人前でベタベタするな…」
ブリジットの困り顔に、早朝に起こされた面々は知らない一面を見てしまったことへの動揺を隠せなかった。長いクセのある黒髪に金の瞳の美少女はブリジットに抱きついたまま離れない。人目も憚らず濃厚な口付けをしブリジットを見つめてその瞳を潤ませた。首に絡みつく両腕には見慣れない入れ墨が入っていた。蔦と花の絡まる美しくも禍々しい入れ墨は時々その模様を変える。古い呪いの鎖だった。
「…母です…朝からお騒がせして申し訳ない…」
一番大人びた対応のクレメンスが皆に頭を下げる。そこでようやく息子に気付いた様子の美少女は振り返ると歩み寄ってきた。
「クレメンス!!」
自分よりも小柄な美少女に抱きしめられてクレメンスは困り顔だ。
「あなた、また大きくなった?子どもの成長って早いわよね。ついこの前まで赤ちゃんだったのに」
「アドリアーナ、みんなが驚いているわよ。まずはこの屋敷の主にご挨拶して」
フロレンティーナの言葉にアドリアーナと呼ばれた美少女は恥ずかしそうに振り返った。
「お姉さま、ごめんなさい。どなたが主なのかしら?」
辺りを見回したアドリアーナはジュディスの方に歩み寄って首を傾げる。
「あらとっても素敵な子ね。あなたかしら?」
ジュディスは慌てて首を横に振った。その隣にいるレイが遠慮がちに手を挙げる。
「僕です…レイです。隣にいるのは僕の婚約者のジュディス。よろしくお願いします」
レイをまじまじと見つめたアドリアーナはにこりと笑った。
「キラキラしていて可愛いわね。ねぇ、あなたたち二人ともロウの家に来ない?あなた!私、この子たちが二人とも欲しいわ!うまく交渉して!」
金の瞳を期待に輝かせてアドリアーナは二人を見つめる。
「…だから…呼ばなかったんだ…」
後ろでブリジットが珍しく大きなため息をついた。
「こんな母で申し訳ない…」
再び謝ってクレメンスも父とそっくりな大きなため息をつく。近くにいたフレディはフロレンティーナに聞こえないように、クレメンスに囁いた。
「君の母上はうちの紅いのに輪をかけて騒がしいな…」
「いい歳なのに、これですから…」
諦めたようなクレメンスの声色にフレディは苦笑した。
***
「賑やかでいいじゃないですか」
朝の給仕にやってきていたエステルは眉間に浮かぶアマロックの深い縦皺に思わず笑ってしまった。
「紅いのだけでも騒がしいのに黒いのまで…」
忌々しそうに大広間の方を見やり、アマロックは焼き立てのパンを食い千切る。エステルはエリアルと共に食事を摂っていたが、近くに座るソロの様子を気に掛けていた。
「どうしたの?今日は向こうに行かないの?」
「うん…ちょっと…」
アマロックはソロの手を握ると眉をひそめた。
「栄養が足りてないな。食えないなら魔力を流すぞ?」
「うん…」
ソロはのろのろとアマロックの膝の上に移動する。アマロックの近くにいる方が何となく気分が楽だった。ぼんやりしたまま首に手を回す。そこでソロは急に思い出した。魔力の吸い上げ方を。
「おいっ!?」
アマロックが慌てた声を上げる。ジュディスがするのと同じようにソロはアマロックから魔力を吸い上げ始めた。
呆気にとられるエステルとエリアルの前で次第にアマロックの様子がおかしくなり始めた。
「ソロっ…ダメだ…」
焦った様子のアマロックを見てエステルは大広間へと走る。
「大変です!料理長が!!」
学院長とジュディスが立ち上がったが、ジュディスはレイに止められた。学院長とブリジット、フロレンティーナが厨房へと向かう。
「ソロ!やめて!」
エリアルがソロを引き離そうと必死になっていた。アマロックは床に倒れ白目を剥いて痙攣している。学院長とブリジットが同時にソロの身体を掴んで引き剥がす。フロレンティーナがアマロックを抱き起こして魔力を分け与えながら、ソロを鋭い目つきで振り返った。妙な気配を感じる。
ソロの姿は徐々に変わりつつあった。髪が白混じりの翡翠になり身体が少し大きくなった。
「ふぅ…やっと足りたな…」
閉じていた目が開く。薄桃色と紫の混じりあった瞳はサフィレットにもどこか似ていた。
「…君が二番目か?」
ブリジットの言葉に少年は目を細める。途端に酷薄な顔付きになり、ブリジットは柄にもなく恐怖を覚えた。
「我が名はシリルじゃ。そなたに用はないが…身二つか。瑞々しくて美味そうじゃの」
不穏な言葉を口にしてシリルと名乗った少年はペロリと赤い唇を舐める。辺りを見回した少年は次にフレディに視線を移した。
「おお、その顔には見覚えがあるぞ。盗人め。私の雛を返してもらおうか」
「雛…?」
フレディは背筋に冷や汗が流れ落ちるのを感じた。遅れてやってきたのは、レイとジュディスだった。相手を見たジュディスの気配が急に変わった。
「なぜお前がここにいる…」
冷やかな声を出したジュディスは攻撃態勢に転じる。身体から噴き出すような憎悪を感じ取り、共鳴したレイもジュディスを守るかのように身体を低くして相手を睨みつけた。
「おぉこわいこわい。せっかく可愛い雛に会いに来てやったというのに。して、それがようやく見つけたお前の番という訳か?」
シリルはにこにこと話し掛ける。
「闇に染まったお前は眷属じゃない…二度と私の前に出てくるな」
ジュディスの蔦が身体から噴き出してシリルを襲う。フレディもフロレンティーナもジュディスがこれほどまでに怒り狂うのを初めて見た衝撃に言葉を失っていた。
シリルはジュディスの蔦を自分の身体から出した蔦で止めた。シリルの蔦は青白いジュディスのそれとは違って常闇のように黒く禍々しい気配がした。
「無駄だと分かっていても、かかってくるのがまだまだ青いの。じゃが…今のままではお前は地底のあれには到底敵わぬぞ?」
闇色の蔦が更にもう一本伸びてジュディスの頬を撫でる。ジュディスは憎悪の表情を浮かべたまま押し黙った。




