親と子
今夜も学院長夫妻がレイの屋敷に滞在すると知ったクレメンスは夜にその部屋の扉を叩いた。予め告げてあったので学院長はクレメンスを待っていた。
「どうした?何かあったか?」
部屋の奥ではフロレンティーナがお茶を淹れていた。クッキーもある。椅子に座るとクレメンスは途端に何を言おうと思っていたのか分からなくなった。しばらくためらってようやく口を開く。
「あの…父のことで…僕は…誤解をしていたのかな…と…」
口ごもるクレメンスに学院長は僅かに笑ったが、すぐに真面目な顔になった。
「カルヴィンの件を知りたいのか?彼の不貞行為は揉み消され、その後何とか復学させようと高等部で署名を集めたブリジットの友人たちも皆懲罰房送りになった。私は中等部に在籍していたが、行った署名活動が学院内の秩序を乱すとして謹慎処分になったな…」
そこで学院長はフッと低く笑った。あのときの憤りが、今ここに彼がいる原動力にも繋がっている。いつか学院ごと変えてやると誓ったあの日。今思えば若かった。
「そのとき運悪く現国王のオーブリーも高等部に在籍していたのだが、南から連れ帰ったばかりの羽化の守の少年がとんでもない暴言を吐いた」
学院長はそこでお茶を飲んだ。フロレンティーナは気を遣ったのか、いつの間にか姿を消していた。
「ブリジットの身体的特徴が学院内の秩序を乱すと言うのなら、王族の身体的特徴もまた秩序を乱すだろう。だったらこいつも退学させろ、と本人を指差して言ったんだ」
「は…?」
クレメンスは思わず開いた口を閉めることも忘れて学院長を見つめた。
「まぁ、当時は暴力も当然といった時代だったから、その場にいた講師にジェイドは殴り飛ばされて王族に対する不敬罪に値すると言われ懲罰房送りになった…当時は何を言い出すのかと驚いたが、よその国から見たら確かにその視点も一理ある…とは思ったな」
クレメンスはお茶を飲む。華やかな香り。茉莉花茶だ。つい分析してしまうのはロウの教育故の癖だ。毒など盛られる訳がなくとも神経を研ぎ澄ます癖がついている。父の生きた時代にいたら、自分はどうしていただろう。そんな恐ろしいことは口に出さず無難に沈黙しているに違いない。物思いに耽るクレメンスに学院長は静かに告げた。
「君は…色々な物事に興味を持つのは良いことだが、独自の伝手で調べようと個人的に諜報員を雇うのはあまり感心しないぞ。特にジュディスには…触れるな」
クレメンスはビクリとして顔を上げた。学院長の瞳に浮かぶ光が陰る。父よりもこういう暗い表情になると怖いとクレメンスは動揺した。
「知りたいのなら私に直接聞け。危うくロウではなく他国の諜報員かと思って始末するところだった」
恐ろしいことをさらりと口にして学院長は笑った。が、不意に真面目な顔に戻る。
「ジュディスは、ジェイドの再来だ。二十年の空白の時を経て戻った。オーブリーの羽化の守だった少年は今少女の体になってレイの守を務め婚約者となった。悪いが聞いたからには沈黙の誓いを交わしてもらう。君はまだ若い。何かの勢いで漏らしてしまうと厄介だからな」
学院長は中空で手を振り自らの人差し指を切った。クレメンスも慌ててそれに倣う。血の誓いは更に縛りが強くなる。互いの唇に血の滲む指先を押し当てる。クレメンスは僅かにめまいを覚えた。あの少女が現国王の羽化の守?歴史書から消された緑の魔術師ジェイド?
「…あの…彼女の記憶は…どうなっているのですか?先ほどまでの体調不良にも関わりが?」
学院長はやれやれと嘆息する。
「大人しそうに見えて君の好奇心はブリジット並だな。勿論記憶は全て引き継いでいるし、体調不良もその身体に流れる精霊の血に関わっている。レイも死にかけてジュディスが眷属に引き込んだから同じだ。ずっと違和感を覚えて落ち着かなかっただろう?君は竜の力は持っていないが、それでも身体に刻まれた何かしらの片鱗が、それを嗅ぎ取るのかもしれない。見ないふりをしていないと、時として深淵に引き込まれるぞ。私はもう戻れないが、君はまだ人としての人生を全うできる」
竜と番うとはそういうことだ、と以前父には聞いていた。紅い竜もその伴侶として学院長を選んだ。一族を捨ててまで。悪趣味な好事家から虐待されていた母を引き取り飼い慣らした父も父だが、なぜ自分は良くも悪くも人並みで突出した何かを持ち合わせていないのだろう、とクレメンスは思った。人としての人生を全うできることが果たして幸せなのかも分からないと考えて、そもそも自分にとっての幸せが何なのかも見失っていることに気付く。
「クレメンス、君はまだ若い。悩む時間はたっぷりあるぞ。ロウの家が独自の教育機関を立ち上げたのは、自分と同じ身体で生まれてくる子が不当な扱いを受けて居場所がなくなった場合の受け皿にするつもりもあったのだろうな。本人は絶対に認めないだろうが」
学院長は考え込むクレメンスに向かって出来るだけ何の感情も込めぬようにして、そう告げた。
***
同じ頃フロレンティーナはブリジットの部屋を訪れていた。
「あ…動いたわ!」
横になったブリジットのお腹に手を当てたフロレンティーナが小さな声を上げる。二人はベッドの上で紅水晶の実を仲良く摘んでいた。規律正しい息子がこの姿を見たら、だらしないと怒るだろう。
「ブリジット…あなた、無理してない?」
唐突なフロレンティーナの言葉にブリジットは不思議そうな顔をした。
「何を言ってるんだ?そんな訳が…」
フロレンティーナの指先に光る紅水晶の実でブリジットは言葉を封じられた。強引に口に入れられ食べさせられる。
「あなたは強いから意思を捻じ曲げてでも、それを成し遂げるわ。でも…服従を強いられたあなたの痛みと恐怖が…まだ残っている…」
先ほど触れた左手を見返してフロレンティーナは小さな息を吐いた。
「ごめんなさいね。お節介で。でも見えてしまったものは戻せない…あれは誰なの?あなたにこんなことをしたのは…」
ブリジットはフッと自嘲的に笑った。
「フレディが聞かないので油断していたら、君がそれを聞くのか…まいったな」
ブリジットは片手で顔を覆った。
「まぁ幸か不幸か、あいつは二代前の当主が他所の女に生ませた婚外子だ。血の繋がりはない…が、今も当主の座を狙っている…私を踏み台にしてでも手にする気だろうな…」
不意に頭に何かが触れた。フロレンティーナが優しい手でブリジットの頭を撫でている。どうにも調子が狂うとブリジットは思った。
「あなたはその男をどうしたい?望みを言って。喉笛を切り裂く?腸を引きずり出す?跡形なく喰らい尽くす?」
ブリジットは覆った手を避ける。気休めの冗談なのだろうか。だがフロレンティーナの目は半ば本気だった。
「あんな男でも…今はまだ…ロウの家には…必要なんだ…」
フロレンティーナはブリジットの隣に横になると、その頭を強引に引き寄せた。
「分かったわ…でも、いつでも私はそれが出来るってことも覚えていて。そうね…でも、あと二十年もしたら、あなた自身の手で望みを叶えることも可能になっているかしら…竜の長の呪いは彼が死ぬまで解けないから…。あなたは損な役回りね。卵の頃に盗まれたあの子は竜としての生き方もよく分かっていないのに。でも妹を救ってくれて感謝してるのよ。だからこれは私からあなたへの祝福…」
フロレンティーナはブリジットの額に少し長い口付けをした。
「その痛みと恐怖は、少しの間、帳の向こうに預かっておくわ。胎教に良くない悪夢はもう見ない。睡眠不足は良くないわよ」
その日以降、ブリジットは本当に夜毎苛まれた悪夢から解放された。心穏やかな眠りとは無縁だと思っていたが、夢の中でブリジットはようやく自由を手に入れた。そうしてその翌日、それはまるで嵐のようにやって来たのだった。




