温室
「温室を開けるしかない」
フレディはジュディスに魔力を注ぎながら呟いた。同じことを考えていた様子のフロレンティーナも頷く。
「ベッドごと移動するわ」
フロレンティーナの魔力によって四人は学院長室の前に移動していた。扉を開けて中に入る。フレディは中空に鍵を差し込んだ。
清浄な空気が辺りに満ちている。レイは呼吸が楽になるのが分かった。ベッドに乗ったまま二人が戻った大樹の前に到着する。フロレンティーナは枝を見上げた。
(また血が流れたか…)
明滅しながら現れた精霊は前とは異なりしっかりと小さな人の形を保っていた。蝶のような煌めく羽が光の軌跡を作り出す。ジュディスの頭の上に降り立った精霊はジュディスの額に小さな指で触れた。
(悪しきものに触れて…主さまの蔦の一部が焼け落ちておる…そこから精霊の力が流れ出し魔力でも補い切れずに弱っている…)
精霊はジュディスの右手に移動し人差し指の先に手を伸ばす。指先から蔦の一部が見えたが、その先端は黒く変色していた。
「…治せますか?」
フロレンティーナの言葉に精霊は首を横に振る。だが、思いも寄らない言葉を口に出した。
(そこなる子は一度黒き蔦の呪いにかかりし子。そなたならばこの傷を引き受けることもできよう…我に名を与えたまえ。さすれば契約は完了する…)
精霊はじっとレイを見つめているようだった。だが視線が合わない。どこを見ていいのか分からずレイは困惑した。
「そなたに名を授けよう。そなたの名は…ファラーシャ…」
半ば勝手にレイの口から漏れ出た言葉を受けて精霊は光輝いた。
ジュディスの指先から出てきた傷ついた蔦はレイの右手の人差し指から出た蔦に繋がってレイの身体に入り込む。
「…っ!」
一瞬の間に脳内に膨大な量のおぞましい光景が流れ込みレイの視界は赤く染まった。レイはジュディスになって身体を切り刻まれ、腸を引き抜かれた。バラバラにされ虫に喰われ烏のような魔物に目を突かれた。かと思えば誰かに組み敷かれ必死で抵抗していた。目の前に第一王子の顔が迫り右手に鋭い痛みが走った。第一王子の顔は次第に歪み、それはいつの間にか流れの底に潜む巨大な瞳に変わっていた。お前の行いの全てを見ている、とその目は語っていた。
「レイ!しっかりして!こっちを見るのよ!」
フロレンティーナの声にレイは自分が金切り声を上げていたことにようやく気付いた。身体の震えが止まらない。レイの身体をフロレンティーナが抱きしめる。フロレンティーナはゆっくりと言い聞かせるように告げた。
「落ち着いて、レイ…それはあなたの記憶じゃないわ…」
レイは震えながらも、ジュディスから蔦が離れてしまったことに気付いて慌てて左手を戻そうとした。が、そこでベッドの中からこちらを見つめる悲しそうなジュディスの瞳とぶつかった。
「…レイ…すまない…嫌なものを見せた…」
「ジュディス、身体は?僕が離れても大丈夫!?」
レイの言葉にジュディスは目を瞬いた。その顔が不意に歪んでジュディスは両手で顔を覆った。
「なんでレイは…っ…自分のことじゃなく…私の…心配ばかり…」
ジュディスは珍しくしゃくり上げて突然子どものように泣き出した。
「ここを出よう。あまり長居するものではないからな…こんな風に感情の制御ができなくなる…」
フレディが言って泣き続けるジュディスの頭を静かに撫でた。
***
ベッドごと屋敷に戻ると、部屋にいた一同は驚いて集まってきた。
「ごめんなさい、ジュディス!レイも。まさか止血剤が効かないどころか悪影響を及ぼすなんて…!」
モリス教授が駆け寄ってくる。そうしてあ然としたようにレイを見た。
「ねぇ…私…目は良いはずなんだけど…」
モリス教授は眼鏡を外して目を擦る。だがそれはレイの肩にちょこんと座っていた。透ける蝶の羽を持つ精霊が。だがそれは瞬き一つの間に小さな灰色の仔猫の姿に変わった。
「ちょっとこの姿じゃ目立つから変えてみたよ」
仔猫は事も無げに言う。
「話し方が…さっきと随分違うんだけど…」
肩の仔猫はクスクスと笑った。
「そりゃそうだよ。だって君と意識を共有してるから。あれは君にはもう古い言葉だったんだね」
布団に入り込んで顔を隠したジュディスがくぐもった声を出す。
「レイ…私が名付ける前に名前を与えたな。それはもうレイの契約精霊となった」
「えっ?」
呆気にとられるモリス教授とブリジットをよそに、レイは自分に何が起こったのか分かっていなかった。
(後で説明する…もう少しこのままで)
布団の中でジュディスの手が動いてレイの右手を握る。
「ジュディスは!?」
ブリジットは我に返って立ち上がる。布団の中から左手だけが出てヒラヒラと合図した。
「大丈夫です…生きてます」
一同はホッとした。レイの肩で灰色の仔猫が伸びをする。フロレンティーナはふと思い出したように、ブリジットを振り返った。
「早く生地を型抜きして焼かなくちゃ!」
程なくして部屋に甘い美味しそうな香りが漂い出す頃、布団の中からジュディスが顔を出した。少しまぶたが腫れている。仔猫がそのまぶたを舐めるとあっという間に腫れが引いた。
「このくらいかな?上出来、上出来!」
仔猫はご機嫌だった。
ジュディスはゆっくり起き上がりレイの隣に座った。先に身体を起こしていたレイはジュディスに手を貸した。
「起きて大丈夫?」
まだ不安そうだ。
「レイの方が…とんでもない記憶を引き受けたのに…気持ち悪いよな?あんな…」
ジュディスの口に手を当ててレイは首を横に振った。
「無理に言葉にしなくていいよ。君の方が辛くなる。僕は君になって体験してきた。それだけだよ…」
「それだけって…」
ジュディスは唇を噛んだ。そんなはずはないのに。するとレイは言いにくそうに口を開いた。
「ごめん、ジュディス。先に謝っておくよ。僕は、君の記憶を引き受けて、正直なところ僕が今まで体験してきたことなど取るに足らない、ちっぽけな経験だったと、そう思ってしまったんだ。君ほど酷いものじゃないと…君と比べて哀れんでしまった自分がいた…」
「そうか…」
「そして、そんな風に決めつけて上から君を見てしまった自分が嫌になった。僕が引き受けてもそれは僕の記憶にはならない。ただ君になって僕が自分勝手に追体験している…焼印に触れた時を凝縮したような酷い時間だった」
「嫌になっただろ?」
ジュディスは笑おうとしたが、中途半端に終わる。
「ジュディスを嫌にはならないよ。強いて言うなら自己嫌悪なんだ…だから…」
そのとき仔猫が膝の上に飛び乗った。
「下らないことで人の雌と雄はケンカするんだね。嫌じゃないなら仲良くすればいいじゃないか。それだけだよ」
灰色の仔猫が言う。
不意を突かれて二人は顔を見合わせた。
「まぁ、そう…だね。ファラーシャの言う通りだ」
「…そうか…」
「精霊は好きは好きだし、嫌いは嫌いでハッキリしてるんだ。そんなに散々くっついてて嫌いなはずないよ」
その言葉にレイがファラーシャを思わず二度見したときだった。階下が騒がしくなった。
「娘はどこにいる!!」
眼光鋭い白髪混じりの髪の男性が足音も荒く部屋の前を通り過ぎる。通り過ぎざまにちらりとこちらを見て慌てたように顔を背けた。
「娘ってまさか…」
ミトンを手に嵌めたままのブリジットも、ものすごい早さで相手を追いかけて行くのが見えた。
「レイ、行って!!」
「僕がいるからジュディスなら大丈夫だよ」
仔猫がジュディスの膝に乗る。レイが開いた扉の前に到着する前にすでに怒号が響いていた。
「お前はキャンベル家の恥だ!!また性懲りもせずどこの馬の骨とも分からぬ男を寝室にまで引き込みおって!」
扉の前でブリジットが両手のミトンをゆっくり外すのが見えた。不穏な気配だ。
「師匠、落ち着いて…」
「落ち着いているとも」
振り返ってニヤリと笑ったブリジットの横からレイが恐る恐る覗き込む。怯えるベアトリスを庇うように、男性の前に立ちはだかっているのはクレメンスだった。




