精霊の血
「人じゃなくなったって…どういうこと?」
二人に導かれるまま森の小道に入る。ジュディスが片手を動かすと、何もなかった空間に小さな小屋が現れた。高位の魔術師でも扱いにくい特定の物を空間ごと隠す魔術だ。なのに魔法陣もなしで指先で操っている。
「先生にはそのうち、きちんと説明しようと思っていたんです。でも慌ただしくて時間が経ってしまって…」
小屋の中は座り心地の良さそうなソファーにベッド、テーブルがあった。棚には何やら色々な魔法薬の瓶が並んでいる。手書きの文字からしてジュディスの作ったものだろう。ひときわ美しい赤の魔法薬に目が吸い寄せられる。
ソファーにモリス教授を座らせてレイもその隣に腰を下ろす。以前よりもレイが小さくなったので長身のモリス教授は見下ろすことになる。レイがシャツのボタンを外し始めたので、モリス教授は動揺してジュディスの方を見た。ベッドに座ったジュディスは腹の辺りを指差した。
「あの日、第七王子の屋敷で襲撃されて僕は魔力中枢の大部分を失ったんです」
レイの左肩には古い大きな爪痕が胸に向かって三本、腹には新しいかなり大きな傷痕があった。モリス教授は息を飲む。美しい顔とは裏腹に身体は傷だらけだ。
「こう…前から背中まで抜けて…死にかけたまま繭になりました。ジュディスも巻き込んで…」
その先はジュディスが引き受けた。
「繭の中でも治せるような状態じゃなかったから、女神の領域に入ったんです。こっちだとなんて呼ぶのかな…うーんと、精霊の前庭?そこに入って再び戻って来るには、半分精霊の血を取り込む必要があってレイは身体が変わってしまいました。私と同じ人と精霊との中間の存在に」
ジュディスの言葉に、レイとジュディスを交互に見つめて、モリス教授は言葉を失っていた。
「ちょっと…待って。ジュディス?今の言い方だと、あなたは最初からその中間の存在って言ってるように聞こえるんだけど、あなたに触れてもそんな気配は感じなかったわよ?」
「それは…魔力と精霊の力をうまく分けて相手に悟られないようにしてるので…それでも王家の血筋には何となく気持ち悪いって勘付かれちゃうんですけど…で、本題なんですが、今レイはそれがごちゃ混ぜで制御できない状態なんです」
モリス教授は確かに先ほどから何故かレイの隣にいると落ち着かない気分になっていた。触れるのも憚られる、うかつに手を出すと噛み付かれるそんな危険な気配を感じていた。
「大丈夫、先生のことを襲ったりはしませんから。魔力交換をしてみてくれるともっと分かると思うんですけど…」
ベッドから降りてきたジュディスがレイのいない方に座る。モリス教授は左にレイ右にジュディスの状態で、恐る恐るレイの手に触れた。
赤黒い何かが物すごい速さで腹に当たり抉られる感覚がした。一瞬第七王子の顔が見えた。口を歪めて笑っている。担がれて暗い部屋に連れて行かれる。翡翠色の髪の美青年が覗き込む。頭を撫でられる。光る蔦が揺れる。眩しい。光の方へ向かう。隣にジュディスがいる。
「…っ…!」
モリス教授は慌てて手を離す。魔力交換どころではない。一気に記憶が流れ込んできて頭がクラクラする。吐きそうだ。
「…あ、違うのを流しちゃった?…これは記憶の方か…」
レイは掌を見て首を傾げている。どうやら違いが分からないらしい。
「先生…大丈夫?」
一方でジュディスの握った手からは恐ろしく澄み切った魔力が流れ込んできた。通常、教授が生徒から魔力を一方的に流される事態に陥ることなどまずない。にも関わらず、はるか昔にかなり高位の魔術師から流された魔力に勝るとも劣らない精錬された流れに、モリス教授は飲まれそうになった。気力を振り絞ってそっと手を離す。
「レイのは…めちゃくちゃだし…ジュディスのはまるで…長寿の竜みたいじゃないのよ…」
ソファーの上でモリス教授は脱力した。まだ夜明け前なのに夕方のような疲労感だ。
「このめちゃくちゃを人並みに戻したいんだけど、難しくて…」
「そうね…これはかなりの難題だわ。ねぇ、ジュディス魔力交換しましょ。疲れちゃったわ。ジュディスにとっては低位の魔力で充分だから…」
差し出したモリス教授の右手にジュディスは掌を合わせた。相変わらず小さな手だとモリス教授は思う。なのに、この小さな器の中はとんでもないもので満たされている。流れ込んでくる魔力に精霊の気配は感じられない。巧みに上澄みだけ流している印象を受ける。
(先生、頭の中で目を開けてみて)
隣にジュディスが立っている。魔力の流れの上にモリス教授は浮かんでいた。
(少し降りるね)
下がってゆくと、魔力に小さな精霊たちのざわつく気配が加わって途端に賑やかになった。この程度ならまだ耐えられる。
(この更に下は…人にはちょっと毒…これくらいのが好きな人もいるけど…)
モリス教授は爪先だけで触れる。胃をぎゅっと掴まれるような緊張感と共に流れの深みにいる何者かの巨大な瞳がこちらを伺っているのが分かった。決して目を合わせてはいけない。きっと合わせた瞬間に喰われる。
「先生、どんな感じ?」
目を開けると先ほどの部屋だった。身体が軽くなっている。モリス教授は隣のジュディスを見てふと湧いた疑問を口にした。
「一番最後のが好きなのって…いったいどこの誰なのよ…?」
ジュディスは猫のように目を細めると大きく伸びをした。
「国王陛下と学院長」
「あぁ…聞かなきゃ良かったわ」
モリス教授は眼鏡を外して瞼を押さえた。学院長はともかく、国王陛下とここまで親密になる時間などなかったように思うのだが、そこは聞かない方が無難だろう。
「お父さまと伯父さまがどうかした?」
レイはげんなりするモリス教授を不思議そうに見上げる。幼くなったのをいいことに、モリス教授が頭を撫でると、僅かに不満げな表情になった。
「仕方ないじゃない…中等部に入り立ての頃みたいで、見た目だけは可愛いんだもの。でも触ると…やっぱり…ゾワゾワするわね。これをまずはどうにかしなくちゃね」
「先生、一応こう見えても精神年齢は十六のままなんですよ…婚約者だっているんですから」
「はぁぁ…まさか、あなた方に先を越されるとは思わなかったわよ。まったく…」
モリス教授の言葉に、レイは居住まいを正して急に真面目な顔をした。
「先生が今も独身を貫いているのって、やっぱり妹さんのことがあるから…なんですか?記憶って相互交換なんです。さっきので見るつもりはなかったのに見えてしまって…心を読んでしまいました。すみません」
途端にモリス教授の顔色が変わった。レイを見つめる瞳に仄暗い敵意が過るのをレイは瞬時に読み取った。
「レイ、止めろ!」
間にジュディスが割り込み、慌ててレイを抱き留める。レイは荒い呼吸を繰り返し右手首を強く掴んでいた。モリス教授に本能的に攻撃しようとした自分に困惑し、沸き起こった殺意にも恐れ慄いていた。
「レイ…大丈夫。大丈夫だから。先生!眼鏡して下さい!気配に敏感だから今のはちょっと危ない」
モリス教授は慌てて眼鏡を戻して顔を背けた。
「ごめんなさい、私としたことが…駄目なのよ。あの子が絡むとどうしても冷静じゃいられなくなって…この話は終わりにしましょう。そろそろ行かなくちゃ」
モリス教授は力なく微笑む。ゆっくり立ち上がると小屋から静かに出て行った。ジュディスはレイの握ったままの手首に刺さった爪を素早く外す。唇でそっと傷口を塞いだ。レイの血も迂闊には流せない。何が起こるか分からない。されるがままに任せていたレイは、ようやく本来の自我を取り戻す。自身の中にこんな獣のような殺意が眠っていたことに衝撃を受けていた。
「初めて…自分のことが…怖くなったよ」
レイの呟きにジュディスは頷いた。
「その怖さを知る必要もあったから、経験できたって意味では良かったんだよ。ただ相手がモリス教授ってのが、意外だったけれど…」
「先生の抱えてる闇は思ったよりも深くて…でも、その闇を作ったのは…僕たち王族なんだ…僕は全然知らなかったけど…」
レイはジュディスに抱き締められたまま、珍しく沈んだ声を出した。