朝靄の屋敷
朝靄の中、いつものように体力作りの一環で森を走っていたウォードは、しばらくして反対側から近付いてくる人影に気付いた。相手も驚いたようにウォードを見る。走ってきたのはブラッドウッドだった。
「おはようございます」
そのまま通り過ぎるかと思いきやブラッドウッドは戻ってきてウォードと並走し始めた。
「いつもこんな早くから?」
「そうですね」
しばらく走るとレイの屋敷が見えた。ブラッドウッドが不意に立ち止まる。不思議そうに屋敷の方を見ていた。
「何か…光ってるような…」
「何でしょうね」
二人がそっと近付くと、どうやら光っているのはテラスのソファーのようだった。敷地の外の植え込みの間から恐る恐る顔を覗かせたブラッドウッドは慌てて隣のウォードの頭を抱えて地に伏せた。
「見ると失礼に当たるかもしれない…」
動揺するブラッドウッドの傍らでウォードは僅かに顔を上げて、光るものの正体を確認した。柔らかそうな輝く蔦のドームの中で屋敷の主と婚約者が眠っていた。
***
「そんなところで寝ていると二人とも風邪を引きますよ?」
大胆に植え込みを飛び越えて敷地内に入り込んだウォードにブラッドウッドは肝を冷やす。
「やぁ…今日も早いな」
声を掛けたのはジュディスの方だった。慌てることもなく起き上がり、蔦の隙間から出てくると乱れた服の裾を払った。足の白さが目につく。
「またレイは出しっぱなしか…早くこれをどうにかしないと、北方警備隊の実地訓練の同行も難しくなるよなぁ…婚約者だからって流石に同室にはしてもらえないだろうし。ブラッドウッド先生も隠れてないで出てきて大丈夫だ」
翡翠色に淡く輝く蔦をかき集めてジュディスはそれをレイの身体の上に布団のように乗せる。無防備に眠っているレイの指先をそっと撫でると、ゆっくりと蔦が引っ込み始めた。
「お…おはようございます」
何か信じ難いものを見たような顔つきのブラッドウッドにジュディスは苦笑した。
「少しずつ慣れてもらわないと困る。一回死にかけたら私のみならずレイも化け物じみた能力が増えてしまっただけだとでも思ってほしい…」
ジュディスは言いながら糸のような細い蔦を指先から出し、素早くブラッドウッドの首に巻き付けた。僅かに絞まる感覚にブラッドウッドはゾクリとする。これは動かない方が無難だろう。
「もっと力を入れたらどうなると思う?」
「…首が…絞まりますか…?」
「残念。不正解。この蔦は治療用だ。昨日アマロックと戦って首を傷めたんじゃないのか?」
ジュディスは立ち上がるとブラッドウッドに近付いてきた。
「ちょっとそのままで」
細い蔦が首の表皮から中の方に入り込むような、何とも奇妙な感覚がした。首輪をつけられたならこんな感じだろうか。ピリピリするような痺れる感覚の後に蔦はするりと離れる。寝違えたように痛かった首が嘘のように楽になっていた。
「という訳で…満月じゃなくても例の治療が可能になったんだが、ケイレブは毎日そこそこ痛いのと、一気に目茶苦茶痛いの一度ならどっちを選ぶ?」
「えぇ…うーん、それなら…前者ですかね」
満月と聞いて、ウォードはあのときは目隠しされていたが、この蔦に触られていたのだと納得がいく。程なくしてレイが目覚め、半分脱げかけた服を羽織り直しボタンを留め始めた。ちょうど蔦に隠れていた肩から胸にかけて無残な爪痕が刻まれているのにブラッドウッドは息を飲む。だがこちらは古い。魔力中枢の真上の大きな傷痕の方が生々しく生きていることの方がむしろ不思議なくらいだった。ウォードはすでに知っている様子だったが、おやと首を傾げた。
「少し薄くなりましたか?」
ウォードの言葉に寝起きのレイは笑う。
「爪痕の方はジュディスが毎日ちょっとずつやってくれてるからね」
「いずれはレイにもできるようになってほしいんだよな。ケイレブ服を脱いでソファーに横になれ」
「えっ?今からですか?」
驚きつつもケイレブは言われた通り上半身裸になった。こちらも魔力中枢器官のある辺りに爛れた大きな傷痕がある。魔獣につけられたのだろうか。切り裂かれたような傷だ。初めて見たブラッドウッドの慌てた顔にウォードは照れたように笑った。
「いや、そんなに見られると恥ずかしいんですが」
「ブラッドウッドもちょっと寄れ。一応声を上げてもいいように遮断する」
ジュディスの言葉にレイが片手を振る。テラスのソファー周辺が瞬時に遮断された。ブラッドウッドはこんな魔力の使い方をするレイを見たのは初めてだった。不安定だと説明を受けて以来、レイは人前であまり魔術を見せなくなっていた。不安定どころか今の早さはまるで学院長のようだ。基本の魔方陣すら描かない。
「レイはこの先もっと細い蔦を出せるようになってほしいんだ。自分で自分の腹の中を掻き混ぜるのは疲れるんだよ」
「え…?自分で!?」
ウォードがギョッとしたように目を剥く。
「実験もせずにぶっつけ本番でケイレブの腹を治す度胸は流石に私にもなかったんだよ。わりと後遺症の原因も似ていたから自分で試したら学院長に叱られた…始めるよ。ブラッドウッドは一応腕を押さえてて。レイは私と意識を共有して」
ブラッドウッドは冷や汗が出始める。こんなテラスのソファーで何をするというのか。
「両手方向の二本を通したので合ってるか?三本目をやる前に行方不明になっちゃったからなぁ…」
ウォードは頷く。
「何を…通したんですか?」
何となく察したものの信じられずブラッドウッドは声が震えた。自分はこれからいったい何を見せられるのか。
「魔力中枢の再構築をしたんだよ。バラバラに粉砕されてたのを集めて繋いだ…ちょっと集中するから質問は後…」
ジュディスの両手の指先から光る細い蔦が何本も出る。傷痕の上を這うように探っていた蔦は程なくしてウォードの肌に吸い込まれるように入り込んだ。レイの両手はジュディスの背中に触れていた。レイも集中しているのか無言でジュディスの指先の恐らく更にその先の皮膚の下に潜る蔦を見つめている。
「…っ!」
ウォードが眉をしかめて小さく息を漏らした。痛みを我慢しているのだろう。不意に背後のレイから翡翠色の蔦が伸びてきた。徐々に先端が細くなる。
「ジュディスの蔦に同調させてもいい?再構築はまだ無理だけど痛みの緩和ならできそうな気がするんだ…魔力中枢って他の場所より痛みの感覚が強いんだよね。命に直結する感じ…あのときぶち抜かれて嫌ってほど分かったよ…」
あのとき。ブラッドウッドは戦慄する。行方不明になった王子はすでに亡くなっているとの噂もあった。確かにさっきの傷痕ではそう思ってもおかしくはない。それに仮に命を取り留めても自分なら魔力を失うだろう。だが。
十分ほどでウォードの治療は終了した。レイの蔦が同調してからは、ウォードの険しい顔も少し和らいだ気がした。
「どうだった?僕、ちゃんとできてたかな?」
少し不安そうなレイにジュディスは破顔した。
「初めてなのに上出来。レイにはこっちの方が向いてるのかもな。ケイレブ?大丈夫か?右手側に一本増やしたから前より通すのが楽になると思う。お疲れ様」
ごく簡単な治療のように言うが訳が違う。それなのにその程度の時間で終わってしまったことに、ブラッドウッドはあ然とする。
「あの…手を離してもらっていいですか?」
ウォードに言われるまで、きつくその腕を押さえていたことすら忘れていた。ブラッドウッドは慌てて両手を離した。
「ふぅ…」
ウォードは息を吐いて起き上がると右手を握ったり閉じたりしていたが、不意に掌に水の玉を出した。放り投げて弾きながら光を合わせて小さな虹を作った。
「あぁ…また広がりました…」
ウォードはそう言って子どものように無邪気な笑顔を見せる。魔力を使えるのが嬉しくて仕方ないという様子だった。
「あの満月の夜に決意していなかったら、第七王子の屋敷の庭で私は多分、死体になっていて、お嬢の提案を受け入れなかった自分を恨んでたと思いますよ。お嬢のお陰で魔術がまた使えるようになったお陰で、私は二度も救われたんです」
ウォードの使える魔術はまだ基礎的なものばかりだ。剣技でそれを補っているがあまりに自然で、そのことを普段は格別意識させることがなかった。ブラッドウッドは再び新たな視点でウォードを見て驚いていた。実はサボっていたのではなく、治癒院通いとその副作用による体調不良で以前は休んでいたこともごく最近知ったばかりだ。ウォードは自分のことをあまり語らない。経歴も不明だった。
「このくらいだったら、さほど生活にも支障は出ないだろ?ここ数日レイで試してたんだ」
ジュディスはニヤリと笑う。
「ええっ?僕のこと実験に使ってたの?ネズミ扱い?」
傍らのレイは不服そうな顔をしたが、ジュディスは上目遣いに続けた。
「ちゃんと綺麗になるまで続けるから安心しろ…なんとなく責任を感じるんだよ。その爪痕を見ると…痛い…」
「もう、可愛いなぁ。ジュディスのそういうところ…」
レイはジュディスの髪を一房持ち上げて唇を寄せる。
「さて、邪魔者はまたひとっ走りしてきますかね」
ウォードは笑って立ち上がると、本当にあっという間に軽々と植え込みを飛び越えて消えていた。
「置いていくなっ…!」
二人にペコリと礼をしてブラッドウッドは慌ててウォードを追いかけたのだった。




