三日月
同日の夕方、国王オーブリーは第二王妃ソフィアと共に治癒院の第二王女ジーンを見舞った後に第五王妃レティシアの元を訪れようとしていた。離宮に到着する頃にはもうすっかり夜になっていたが、国王の到着に慌てた様子の執事が飛び出してきた。
「申し訳ございません。レティシア様はただいまお取り込み中でして…」
「こんな時間に?」
執事の言い方に不審感を抱いたオーブリーは、今まで一度も疑いもしなかったとある可能性に思い至り、荒々しい足音を立てレティシアの寝室に突入しようとした。
「突然何を言い出すの?私に子どもを産めですって!?」
寝室の外にまで漏れ聞こえたレティシアの声に、オーブリーは絶望と怒りを顕にして扉を蹴破り剣を引き抜いた。
「え…!?」
間男を斬り捨てる勢いで突入したオーブリーが目撃したのは、レティシアと行方不明の後に三歳ほど縮んだ息子のレイ、そして婚約者のジュディスの姿だった。
「あら、どうしたの?そんな怖い顔をして」
「妻の寝室を訪ねるのは、扉を蹴破るのが最近の流行りなのか?」
そのまま就寝できそうな白い薄着のジュディスが窓際に座ったまま面白そうに笑う。ほっそりした妙に生々しい白い脚が剥き出しでオーブリーは目のやり場に困った。近くの椅子に座ったレイもお揃いの薄いシャツを着ている。裾が長めなのでやはり下は素足に革紐を巻き付けただけのサンダルを履いていた。顔立ちは違うのに同じ服装だと何故か双子のように見える。
「園庭には影の手がいたはずだが?」
不審者は問答無用で排除する彼らが見逃したとも思えなかったが、レイとジュディスは互いの目を合わせて笑うだけだった。
「ちょうど良かった。王宮を訪ねるのは流石に骨が折れるからな。国王陛下もどうかお聞き下さい。本日は第五王妃との間に子を儲けて下さい、とお願いしたく伺った次第です」
「な…突然何を言い出すんだ?」
蹴破って壊してしまった扉を気まずい思いで直した後にオーブリーが部屋へと入ってきて周囲を遮断した。
「真面目な話をすると…」
ジュディスは淡々と語り出した。
***
二人がテラスからひらりと姿を消すと、オーブリーは深いため息をついた。レティシアはジュディスの持参したお茶を淹れてオーブリーを労った。薄い桃色が美しい。馥郁たる花の香が広がった。
「私は…ジュディスがこの国の未来のことまで考えてくれたからこその提案だと思ったら嬉しかったわ。陛下のお考えは?」
曰く、自分とレイは精霊の血により長寿を得たため、子を成すのが難しい。仮に出来た場合は、その子は魔力を持たない平凡な子か、または強大な魔力を持つあまり近隣諸国の脅威となる可能性を持つ。精霊の血に連なる者は互いを殺すことが出来ない為、後者が生まれた場合、より強い血の持ち主が存在しない限りは困難が待ち受ける。幸いなことにその強大な血を持つ存在は一年以内に現れる。決して王家の敵に回すことなくその者を守ること。そのときにレティシアにも子がいたならば、より危険を遠ざける強みとなるだろう、と。
「仮にお母さまに新たな王子が生まれた場合にはその子が大きくなるまでは、後ろ盾として王家に残ります。その後は廃太子にでもして下さい。魔物の出没の多い土地でも下されば、鉄壁の警護を約束します」
その後に続くレイの言葉を思い出しレティシアは含み笑いを漏らした。
「それにしても、ジュディスに出会うまで大切なものなど何もないみたいな顔をしていたレイが、あんなことを言うとは思わなかったわ」
「あぁ…そうだな。まったく欲のない奴め。玉座には向かん」
オーブリーは渋い顔をしてお茶を飲む。そうして目を見開いた。
「美味しいわよね。このお茶。茶葉の配合を今度教えてもらわなくちゃ。でもある意味、レイは貪欲なのかもしれないわよ。一番欲しいものはもう手に入れてしまったんだから。そうして二度と手離すつもりはないのよ。あなたとは違って」
最後の余計な一言に再びオーブリーは眉間にシワを寄せる。が、程なくして何を思ったか手を伸ばしてレティシアの長い栗色の髪に触れた。
「レティシア…今宵は共に夜明けを迎えるまでここにいてもいいだろうか」
レティシアは僅かに驚いて、次にクスクスと笑い出す。
「いつも自分勝手で強引なあなたにしては上出来ね。どこでそんな殊勝な台詞を覚えてきたのかしら?」
オーブリーは天を仰いで片手で顔を覆った。見透かされている。
「…先日真夜中に私の寝所にまで忍び込んできた大胆な少女がいたんだ。警備の抜け穴まで指摘して行ったが、あれは女になった途端に細かいことに口煩くなったのか?気遣いが足りない、少しはレイを見倣えと説教された…」
「この国の国王陛下に説教できるのはジュディスくらいね」
立ち上がったレティシアはふわりと後ろからオーブリーの両肩に腕を回した。
「いいわ…一緒に夜明けを迎えましょう」
レティシアの琥珀色の瞳がオーブリーを見つめる。歳を重ねたと言ってもレティシアはそれを感じさせない若々しさを今もなお保っている。第一王妃の呪いの黒い蔦に侵されたオーブリーを他の妃は恐れたが、第二王妃とレティシアが諦めずに看病し続けた。蔦に魔力を奪われたオーブリーを生かしたのはレティシアの炎だ。第二王妃は剣術には秀でているが魔力自体は少ない。腕から流れ込む炎の熱さを感じながらオーブリーはレティシアに口付けをした。
***
「レイも策士だよなぁ」
あっという間に屋根を渡り森の木々を飛び越え二人は王立学院まで戻っていた。そうして仲良く一つのベッドでゴロゴロしていた。
「どっちが?あのお茶…ジュディスの赤い花から抽出した成分もしれっと混ぜたよね?」
レイは熱心に獣人のつけた傷痕を指先でなぞるジュディスに向かって言った。
「早々にその気になって貰わないと、私たちもおちおち引退も出来ないからな…ちょっと動くな」
ジュディスの指から淡く光る糸のような蔦が出てレイの傷痕に同化する。レイと共に女神の領域に入って以来、蔦の量の調節が以前よりしやすくなった。時折悪夢と共に痛むレイの古傷を少しずつ消すのがジュディスの最近の日課だった。
「お母さまは夜にお茶を飲むのが好きなんだ。元は寝る前に毒の耐性を強くするために僕と一緒に飲んでいたのが、ただのお茶になったんだけどね。だから王宮の馬車が離宮に向かう日に差し入れを持って行く方が確率は上がると思っただけだよ」
僅かな痛みにレイは息を飲む。身体の奥に刻まれた見えない微細な傷痕までをもジュディスの蔦に入念に探られていた。
「日々の繰り返しをさりげなく観察しておくこと、そうすると後々に思わぬところで役立つこともある…ロウ公爵家の教えだよ。生き残るための知識はそこで仕込まれた。君の名前にも使われているよね…」
「ロウの家なら…ジェイドの頃に連れて行かれたよ。礼儀作法を知らない野蛮な南のクソガキ相手にみんな手を焼いてた。あの頃は反逆心の塊だったからな…誰も信用出来なかった…」
ジュディスは指先の蔦を引っ込める。長時間はお互いの負担になる。離れようとしたジュディスの手をレイは不意に掴んだ。
「ジュディスは…本当に子どもは欲しくないの?」
「え…?」
不意を突かれてジュディスは表情を取り繕うことも出来ずに驚いたままレイを見下ろす。
「もちろん、まだ先の話だけど…この先、僕は色々と欲張りになって、だんだんと自制が効かなくなるかもしれない…」
ジュディスは返答に戸惑ったが、結局本音を口にした。
「子ども以前の問題なんだ…この前だって私の断片が流れて吐いてただろ?あれより酷い悪夢を共有して、二度と触れたくもないと憎悪されるくらいなら私は今のままでいたい…私にかけられた呪いは複雑で…まだ解けないんだ…」
「それは…魔力の流れの底に潜んでいるあの巨大な目も関係している?」
レイも気付いていたことにジュディスは内心驚いた。
「そうだな…少なくともしばらくは…待たせることになる…すまない」
「こうしてジュディスを抱きしめて一緒に眠るだけでも今は満足できるから大丈夫だよ。縮んだことにもっと感謝しておかなくちゃ。僕がもっと強くなってジュディスの傷痕も全て消せるくらいにならないといけないんだね」
腕を伸ばしてレイはジュディスを強く抱きしめた。
「必ず強くなるから…今はまだ守られてばかりだけど…根気強く待ってて」
ジュディスに生かされた自分には意味があるはずだ。奇跡的に同じ時を生きて今、目の前に確かにジュディスはこうして存在している。触れられると思っていなかった歴史書の中の魔術師。
「僕は欲張りだから何があっても離れないし離さないからね」
耳元で囁くとジュディスはようやく笑った。
「私だけで満足するなんてレイは欲張りじゃないよ。オーブリーには五人も妻がいるのに」
「そうだよ、国王になんかなったら、嫌でもジュディスの他にも妻を娶らなきゃならなくなるんだよ。何が嫌ってそれも嫌なんだよ」
「ごく普通の魔力の少ない第二王妃に子どもを産んでもらえば済む話なのに、私に拘るからややこしくなるんだ。まぁそんなところがレイらしいんだけどな」
まんざらでもなさそうな口調で言って、ジュディスはレイの銀の髪を優しく撫でる。触れられる距離にいると安堵する。レイもジュディスの翡翠色の髪に指を絡ませてそっと目を閉じた。束の間の平穏を享受する。二人を照らす窓の外の対の三日月は獣の鈎爪のように尖って鈍い光を放っていた。




