空を舞う
一瞬緊迫した空気の朝食の時間は無事に終わり、それぞれが講義に向かう準備を始めていた時、王宮からの遣い鳥が姿を現した。テラスに出ると学院長とレイ、ブリジットの元に遣い鳥は伝言を残してゆく。学院長はちらりと見てすぐに返事を預けたが、ブリジットは僅かに眉を上げた。無言でブリジットも魔術でサラサラと書き記し遣い鳥に預ける。傍らのアドリアーナが心配そうにブリジットの顔を覗き込んだ。
「あなた…大丈夫?」
「あ…あぁ。療養院にいる第二王女の件で…大事な話があると…」
以前レイと共に面会の申し込みはしたが当然ながらその日に会うことは叶わず、許可が下りれば追って連絡をすると言われたのみだった。第八王子であるレイを連れて行けばひょっとして、と思ったブリジットだったがその守りは堅かった。
「それから…改名したと書かれていた…当然だな。羽化の守を亡くしたのだから…ジーン改めジェイレンだそうだ…ジェイレン…だと?」
王族は羽化を遂げて王女になった場合やその身に不幸な出来事が起こった際などに改名することが許されていた。だが聞いたブリジットは名前の響きに何故か違和感を覚える。亡くなった息子の名前が取り込まれているように思えてならなかった為だった。
(エレン…)
自分よりも若くして亡くなった夫によく似ていた息子の名前を心の中で呼ぶ。そんなブリジットの肩にアドリアーナがそっと触れた。
「大丈夫?ブリジット…」
レイが歩み寄ってきてブリジットに言った。
「僕もジュディスと一緒に呼ばれたよ。魔術騎士科の講義があるから…ちょっと非番の誰かに頼まないといけないな」
レイは少し考えて中空に呼び出した魔術騎士科の名簿に目をやる。だが二人となると難しい。すると学院長がやってきて言った。
「私が交替する。そうだな。あともう一人は…研究塔から引っ張り出してくるから、なんとかなる」
「え?モリス教授はさすがに…倒れちゃいません?それに講義時間も被ってる」
レイの言葉に学院長は人の悪い笑みを浮かべた。
「いや、モリス先生ではない。助手の方だ。まったく…その教授にしてその助手あり、だな。勿体ないから兼任させる。今はヒューバートもいるし助手の仕事なら彼で問題ないだろう」
「ん…?もしかして…ベンジャミンさん?あぁ…それでなのか。最近モリス先生の剣筋が冴えてるのは」
傍らのジュディスが納得したように頷く。
「フレディ…どっちにしても…夏季休暇の間に南に行って帰ってこれたらそれが一番なんだろうけど…帰って来られなくなった場合を想定して補助講師を増やしておいた方が無難だと思うんだ…。だから…近々面談するならレイや私も同席したい」
フレディは何とも言えない表情になりジュディスを見下ろした。まだ青い頬に触れて慎重に魔力を流すと、ジュディスが小さな笑い声を立てた。
「今日はこれで四人目だぞ?みんな、私の顔を見たらそんな風になって魔力を流してくるんだ」
「私は…残念ながら使節団のメンバーには名前が挙がらなかった…いつ竜に転じるとも分からないという理由でな。だが服従させてでも…この地に留めたいと思っているほどだということは忘れないでほしい…」
「でもフレディは、そんな物騒なことはしないだろ?いつだって私には甘いからな」
ジュディスはおもむろに飛び上がるとフレディに抱きついた。慌てて片腕で抱きとめた相手の額に二つ現れた僅かな角の突起にぐりぐりと無遠慮に触れる。
「さっさと竜になって人の形に戻れるようになれば一緒に行けるのか?南の地理にも気候にも強いのはやっぱりフレディだからな。でも竜はここを刺激してもあまり関係ないんだよな…そうだなぁ…ちょっと庭に出て貰った方がいいかな?レイも来てよ」
レイは急に自分も呼ばれたことに何やら嫌な予感がした。
フレディは言われるがままに庭に出る。ジュディスはレイの片手を握って気軽に言った。
「竜の逆鱗って確かこの辺だったかな?レイ見えるか?ちょっと試すぞ?フレディもいいよな?」
「えっ?いや、場所は合ってるけど、いや、待ってジュディス!!」
手を繋いだレイは慌てたが、ジュディスはすでに逆鱗のある喉元に噛み付いた後だった。血が飛び散る。学院長の瞳に金の虹彩が煌めき瞳孔が縦長になるのをレイは間近で仰ぎ見た。ジュディスは口を離すと素早く背中に飛び乗る。身体全体が輝きを放ち、どんどん姿が巨大化した。
「レイ!私に掴まれ!振り落とされるぞ」
ジュディスが片腕を伸ばして何故かレイまで背中の上に引っ張り上げられる。額から伸びた二本の角にジュディスが掴まった。
「ちょっと!何の騒ぎよ!」
テラスから顔を覗かせたフロレンティーナは夫が竜の姿に変わるのを、あ然として見上げた。めきめきと背中に翼が生えるのと同時にどういう訳か失ったはずの左腕までが再生して竜の腕が出来上がった。バサリと巨大な翼が風を切る。巨大な美しい琥珀色の竜だった。
「フロレンティーナ、多分、大丈夫!」
背中の上でジュディスが叫んだ。竜となったフレディは大空へと舞い上がる。眼下に小さくなったフロレンティーナと遅れて出てきたクレメンスの姿が辛うじて見えた。
「うわぁ!学院長先生!飛んじゃったよ」
眼下に小さくなった王立学院が見える。
「フレディ…落ち着いて、大丈夫。ちゃんと竜になったぞ?後は…そうだな、戻り方は…昨日の夜にフロレンティーナと蔦になって一緒に溶けたなら分かるだろ?あの状態から戻るときの感覚だ」
ジュディスの言葉に動揺したのか、突然学院長は失速した。大空の上で学院長の身体は光り輝き再び人の姿に戻ってしまう。
「レイ!蔦で翼を作れ!」
ジュディスが叫ぶ。
「ちょっ!いきなり無茶言わないでよっ!!」
上空でレイは叫んだが、ジュディスの背中に蔦で出来た光る巨大な翼が現れたのを見て、咄嗟に背中に意識を集中させて真似をした。
「ホラ、できた!」
「ホラじゃないよ…出来たから良かったけど…」
両手で二人はフレディの腕を両方から持って支える。生えたばかりの左腕には鱗が何枚も残っていた。一番信じられないといった顔付きでフレディは突然現れた己の左腕を見つめる。
「すごいなぁ…竜の再生力って。古代術式の魔法薬を作らなくても腕の件まで解決しちゃったな」
「ジュディス…私は竜に…なっていたのか?空が…あんなに近いとは…それに国中が見渡せた…」
フレディは珍しく興奮したような声色で言った。
「あぁ、琥珀色の綺麗な竜になったぞ。後は練習あるのみ…フロレンティーナと一緒に毎日飛ぶといいよ」
地上に降り立つと、フロレンティーナが駆け寄ってきた。
「あなた!何で空中で元に戻っちゃうのよ!危ないじゃない!ジュディスがいてくれたから良かったけど…」
「…いや、ごめん。あれは…私が…空で元に戻るやり方を説明したのが悪かったんだと思う…」
ジュディスが苦笑する。学院長は眉間にしわを寄せたが、フロレンティーナは再び叫び声を上げた。
「あなた!腕が!!」
「あぁ…よく分からないが生えてきた…」
「よく分からないって…もうっ…」
呆れながらもフロレンティーナが腕に触れるとまた鱗が剥がれて人の皮膚が姿を現した。
「これ、綺麗だな。記念にもらってもいい?」
地面に落ちた琥珀色に煌めく鱗をジュディスが拾い上げる。すでにレイも手に持っていた。
「学院長先生…凄かったです…。僕もあんな竜になりたい…」
クレメンスが珍しく高揚した様子で口を開く。
「あ…あぁ、ありがとう」
ブリジットが庭に出て身体を煌めかせるのが分かった。ブリジットの瞳のように青い光と共に青い鱗の竜が姿を現す。フレディよりは少し小振りな竜が空に向かって舞い上がる。
「ブリジットは妊娠してから一度も竜になってなかったのよ。お腹の子どもに何かあったら困るって。久々に見たわ…綺麗よね」
空を舞う青い竜の姿を見上げてアドリアーナが微笑む。レイが学院長の破れた背中の布地を魔力で修復していた。
「竜になるとき…服はどうしてるんだ?」
アドリアーナに真面目な顔をしてフレディは聞いた。
「あら、私は直前に最小化して首の後ろの鱗の下にしまってるわよ?じゃないと毎回繕うのも手間じゃない」
「…なるほど。参考にさせてもらう」
学院長は中空から袋を取り出し左腕の鱗を払って袋の中に落とした。
「モリス先生の弟子を借りるのに丁度よい口実ができたな。この鱗と引き換えにできそうだ」
竜の鱗は薬の材料にもなる。ジュディスはニヤッと笑った。
「貴重な素材は喉から手が出るほど欲しいもんなぁ。小躍りするモリス先生が目に浮かぶよ。ベンジャミンさんの意思なんか関係なく喜んで貸してくれると思う…」
ジュディスは琥珀色の鱗を空に向けて透かしてみる。上空から戻って来るブリジットの姿が鱗を通してキラキラと輝いて見えた。




