アウレリアの商売
大学の講義とモリス教授の手伝いを終えてヒューバートが帰りの支度をしていると、いつもは先に帰るはずのベンジャミンも何故かモリス教授の隣にいた。ベンジャミンは研究に没頭するタイプでヒューバートにも余計なことを聞いてこないので、一緒に仕事をする上では気楽だった。ただビーカーに飲み物を入れるのはどうかと思う。しかも何かを書き写しながら、大して手元を確認もせずにビーカーを掴んで口に運ぶ。見ていて落ち着かなかった。
「モリス教授にも言われたんですよ。いつか試薬を飲みそうだって」
ヒューバートの視線に気付いたのかベンジャミンは困ったように眉を下げて笑った。
「…何か理由があるんですか…?」
ヒューバートが問い掛けるとベンジャミンは目を僅かに見開いた。まるで聞かれたことが予想外のような反応だった。
「師匠が…そうだったんです。第五王子の病を治そうとしていて、志半ばで亡くなりましたが。なので私はそれを引き継いだんです。ただそれだけで…面白くも何もない話ですみません」
ベンジャミンは苦笑したが、ヒューバートは首を横に振った。
「人には…人の数だけ、その人それぞれの歴史があると思います。僕は…記憶を失ってしまったので、昔のことを覚えてはいませんが。なので誰かのそういった話を聞くのは興味深いです」
「そう…なんだ、昔の記憶がないというのは…不便じゃないのかい?」
ベンジャミンはいわゆる、善人なのだろうなと、ヒューバートはほんの少しだけ皮肉に思った。学院には記憶を失った戦災孤児と知ると途端に見下す者もいる。所詮は家柄が最優先で頭脳を認められたところで自分の限界は目に見えて存在した。
「いいえ。忘れて良かったんだと思います。恐らく僕が失ったのは戦火の記憶ですから。戦災孤児なんです」
「そうでしたか、それは申し訳ない。僕も戦争で家を失い、さまよって死にかけているところを師匠に拾われて弟子にしてもらったんです。結局生きている間には恩返しすら出来ない不甲斐ない弟子でしたが」
互いにしんみりとした空気になったところにモリス教授が現れ慌ただしく帰り支度をして今に至る。
「今日こそは第八王子の屋敷に連れて行くって言ったでしょ」
ベンジャミンは半ば強引に誘われた様子で苦笑していた。
「それとねベンジャミン、私とっても忙しいからあなたを助手から補助講師に推薦しようと思うの。あなたの説明は分かりやすいから、時々講義を手伝ってくれると助かるわ。希望人数も増えちゃって、次年度から開講するにしても実験室も満席なのよね…だから広い講堂を実験室に変えるかどうするかで今学院長とも話し合いをしていて…ヒューバート、あなたもよ、助手として顔を出すことになると思うわ」
「えっ!?僕もですか!?」
ベンジャミンだけの話だと思って聞き流していたヒューバートは唐突に名前を呼ばれて焦った。
「いや、僕が出たら人気が下がって辞める人が続出しますよ…」
「もう、悲観的ね。大丈夫よ。最初は実験道具を揃えたり提出課題を集めたり採点したり、そういう基礎的な仕事内容だから生徒とはそこまで関わらないわよ。後はなくなった材料を発注したり、そういう仕事」
今も時々大学生などの手伝いを入れてはいるが、正直なところ痒いところに手が届かない、というのが本音だった。モリス教授はヒューバートの性格はよく把握している。仕事も丁寧で早いし実験道具を壊したりもしない。
「それに、あなたはやってないことをやった、とか壊したのに壊してないとか、嘘をつけないでしょ。そういうやり取りも正直なところ疲れるのよね。何も怒らないから素直に言ってくれたらいいのに…」
どうやらベンジャミンも知っている者に対しての発言だったらしく、珍しく彼も苦笑する。森の小道を歩きながら話していると、突然茂みの中から飛び出してきた人影がヒューバートに突進してきた。
「おかえりなさい!ヒューバート!」
クセのある黒髪に新緑の瞳の小柄な美少女がヒューバートに抱きついている。モリス教授とベンジャミンの呆気に取られた視線にヒューバートは、何を言うべきか分からず相手に抱きつかれたまま硬直した。
「えぇと…あなたは…アウレリアさん…だったかしら?」
モリス教授は昨日とは打って変わって元気になった様子の相手に驚いていた。手足の傷もほぼ消えて僅かに残るのみだ。何を取り込んだのかは知らないが、回復力が凄まじい。
「ごきげんよう、モリス先生。それに…あなたはどなたかしら?先生と同じ薬草の匂いがするけれど…」
「あっ、ベンジャミンといいます…モリス教授の研究塔で働いてます」
当然のようにヒューバートと手を繋いでアウレリアは歩き出す。歩きながら時折草の葉を取って肩から下げた袋に集めていた。どれもお茶にできる薬草だとモリス教授は気付く。
「この辺…こんなに自生してたかしら?」
モリス教授が首を捻るとアウレリアがクスクスと笑った。
「環境を壊さない範囲内でジュディスが植えたと言っていたわ。だから増えすぎないように魔術で囲ってるみたい。よーく目を凝らさないと見えないけれど、森の景色に同化してて通常なら気付かない。道の両脇に沿って植えているのよ」
「わ!それ、よく見たら笑い草じゃないのよ。いったい何に使うの?」
「フフッ、笑うと寿命が延びるのよ?いつも気難しい顔をしてる人にピッタリなお茶を作るのよ。少しは表情筋も動くでしょ」
ふとモリス教授はアウレリアの手首に特殊な入れ墨が入っていることに気づいて目を見張る。どこかで見た魔法陣だと思った。何かに押してあったような。
「あ!アウルム商会!!あなたの手首のその印!南から取り寄せた茶葉の袋にその印が入っていたのよ!」
モリス教授の言葉にアウレリアはクスクスと笑い出した。
「あら、嬉しいわ。私の商会が取り扱う商品を買い付けてくれたことがあったなんて」
「え…あなたの商会…?」
「そうよ?私がその代表。と言っても、今は後継者も育ったからよほど判断に困る案件が出てきたときにのみ助言する程度ね。モリス先生もわざわざ南から茶葉を取り寄せるなんて私と趣味が合いそうだわ。香辛料の使い方も南と西じゃ異なるから、これを機に学びたいって思っていたのよ」
「ねぇ、あなたも私の研究塔で仕事をしない?お互い有益な話が出来ると思うのよ」
「あら、そうしたらヒューバートともっと一緒にいられるのね。嬉しいわ。喜んでお受けするわよ」
「えっ?あの…」
ヒューバートの知らないところで勝手に話が進んでいて彼は慌てた。
「でも、あまり人前でいちゃいちゃし過ぎないでね。我慢出来なくなったら仮眠室でお願いよ?」
モリス教授の言葉にヒューバートは表情こそ動かなかったが、パクパクと何か言いたそうに口を動かした。
「あら、何よ?南の女性はこちらの女性よりも積極的なのよ?あなたは魔族の血を引く女性とのお付き合いは初めてかもしれないけど、本気で付き合うのならもっと体力をつけておかないとダメよ?レイを見習うといいわ」
ヒューバートが絶句している間にいつの間にか四人は屋敷に到着していた。庭でジュディスとセオがすでに打ち合いをしている。セオはここ数日で剣を繰り出す速度が上がったように見えた。
「私もボヤッとしてるとあの子に抜かされちゃいそうだわ。日々訓練あるのみね」
「モリス先生が魔術騎士科の補助講師って聞いたときには何の冗談かと思いましたけど…本気なんですね…」
ヒューバートの言葉に何故かベンジャミンが苦笑する。
「本気ですよ。だって研究塔にまで木刀を持ち込んで、私まで空き時間に打ち合いに付き合わされてるんですから」
「ちょっと、ベンジャミン、それは言わない約束でしょ。ベンジャミンこそ、その腕前なら魔術騎士科の補助講師候補として目をつけられちゃいそうよ。驚いたんだから」
ベンジャミンは謙遜しながらも、実は剣の腕を見込まれて最初は護衛として治癒師の師匠のもとで過ごしていた過去は言わずにいた。王家の秘密に関わっていると思わぬところから狙われる。長年護衛をしながら、何となく治癒師の師匠が調べていることに興味を持つようになって、いつしかすっかり研究に夢中になり今の彼がいる。ベンジャミンからすると捨てたはずの剣を再び持つことを選んだモリス教授の方が意外だった。そうして庭で打ち合いをしているジュディスたちを見てベンジャミンは内心舌を巻いていた。
(単にその美しさで羽化の守に選ばれたと思っていたら…とんでもないな…)
軽々と木刀を扱うジュディスの動きは舞うように優雅でいて、そのくせ素早くブレがない。あの動きで斬られたら、そうとはすぐには気付かないうちに絶命しているかもしれないとベンジャミンは思った。それに必死に食らいついてゆく相手の青年もなかなかだ。
「モリス先生!それにベンジャミンさんもお久しぶりです。それにしても…私やセオの動きを目で追うなんて、ベンジャミンさんもただ者じゃないですね」
あれだけ動いていたのに汗をかいていない。ジュディスは悪戯な妖精のような顔付きで笑った。見ていたことに気付かれていたのかと、ベンジャミンは再び驚いた。
「ヒューバートさん、アウレリアも…おかえり」
ジュディスはさらりと言ったが、挨拶をされたアウレリアの方が物言いたげな表情になった。
「ジュディス…あの…朝はごめんなさい。余計なことを言ったわ」
ジュディスとセオの打ち合いを見ていたレイが歩み寄ってきてジュディスの肩に触れる。ジュディスは僅かにためらい、そうして観念したように口を開いた。
「いいんだ…アウレリアの言ったことは間違いじゃない。私はシリルを許した訳ではないし、この先も過去のことで衝突だってするかもしれない。でも、一つ確かなのは今はもう私一人の問題ではないということなんだ。レイが…エテルネル王家が…関わってくる。単なる羽化の守だった頃とは勝手が違うんだ。だから過去がどうであれ、今は未来のことを優先して考えている。そういうことなんだ」
ジュディスは傍らのレイを見上げた。レイは微笑んでジュディスの髪に触れる。その優しい仕草から彼がどれだけジュディスを大切に思っているのかが窺い知れて、アウレリアは安堵した。何よりもジュディスの表情が柔らかい。いつもどこか緊張している顔付きだった少年の頃とは大違いだった。少女になったせいだけとは思えなかった。
「ずっと…双子の片割れしか信じていないような顔をしていたあなたが、誰かに向かってそんな穏やかな顔をするのを見られただけでも私は嬉しいわ。第八王子、ジュディスのことをどうかお願いしますね」
アウレリアは深々と頭を下げる。レイはニコリと笑って頷き返した。
「ジュディスを育ててくれて…ありがとうございます。これからは僕が大切にしますから、アウレリアさんはもっと自由に生きて下さい。それがジュディスと僕の望みです」
「もう、自由を謳歌し始めたみたいだけどな。あまりヒューバートさんを振り回すなよ?相手は魔力はあっても人間なんだからな?」
ジュディスは握ったままヒューバートから決して離そうとしないアウレリアの手を見て困ったように笑った。




