8話
あぁ、気が重い。
最近帰宅をするときに毎日そう思い、歩みを重くさせる。
全て自分が蒔いた種だということは理解しているが、今まで安息の地であった自宅が酷く居心地が悪かった。
罪悪感により奈津に合わせる顔がないし、僕の顔をみて酷く軽蔑する彼女の視線が苦しくて、色々と計画を実行中ではあるものの、どこかで奈津に会わないようにと帰宅を遅らせる自分がいるのを理解している。
どうにかして償いたい。償うために色々と計画しているが、それで許してもらえる確証がないことが気をさらに重たくさせる。
でも、絶対に離婚はしたくない。離婚届の記入だけは何をしたって逃れないといけない。
もし記入してしまえば僕と奈津の縁が一切無くなることを意味しているのだから。
早く奈津に償わせてほしい。早くしないと、でも話すら聞いてもらえない状況で何ができるのだ。思考はぐるぐると毎回同じことをループするがいい解決案は一向にでてこない。
今日ももう寝ているだろうか、玄関をそーっと開けると真っ暗な家の中にいつもと同じ状況かと落胆してしまう自分がいる。
希望的観測すぎるが、どこかで奈津の気が変わっていることを願っていたのだ。
玄関の電気はリビングには影響がないのでそっと電気をつければ、その光景にぞっとしてしまう。
「奈津!?どうしたんだ、しっかりしろ、奈津っ!」
玄関にぐったりと倒れ込んだ奈津がいた。
いつから倒れ込んだいたのか揺さぶった体は酷く冷たくて、顔色はドラマでみる遺体のように青白かった。
いくら声をかけても目を開けない奈津に最悪の事態を考えてしまう。
「きゅ、救急車、呼ばないとっ」
急いで電話をかけたいのに震える体は上手くスマホを持てなくて、手から滑り落ちてしまう。それでも何とか電話をかけ、急かすように救急車を呼ぶ。
何もしないで待つなんてことはできなくて、自分が着ていたジャケットを奈津に被せ、何度も声を掛けた。
救急車がくるまでの数十分は生きていて一番長く感じた。
「神崎さんですが、過労により体が衰弱しております。睡眠不足と軽度の栄養失調により体が弱り、高熱がでていました。過労の原因を取り除き、数日安静にしていれば体調は安定するでしょう」
「本当に命に別状はないんですか、奈津は大丈夫なんですか?」
「過労の原因を取り除くことができれば大丈夫です。あなたも酷い顔をしていますよ。あなたも元気でいなければ奥様も落ち着かないでしょう。こんな時間ですが、体を休めてください」
深夜にも関わらず、丁寧に診察してくれた医師は落ち着かない僕を安心させるように肩を叩いて病室から退室をしていった。
狭い病室で僕と奈津の二人きりになり、部屋は一気に静まり返った。
過労の原因を取り除く。
それは僕がいなくなれば奈津は元気になるということだろうか。
点滴に繋がれた奈津の手を握り、暫く見ていなかった顔をじっと見つめる。
顔色は依然として悪く、きつく瞑られた目には濃いクマがある。
栄養失調とも言っていたとおり、食事が取れていないのだろう、頬は普段より膨らみがない。
綺麗な黒髪はパサついていた。
ぐったりと横たわる姿は以前の元気はつらつとした姿を思い出すことが難しいほど生気を感じない。
「ごめん、っ、本当にごめん、傷つけてごめん、苦しめてごめん」
手を握り、眠っている奈津に謝るしかできなかった。
笑っている顔を最後にみたのは一体いつだっただろうか。
誰よりも幸せにしたかったのに。
誰よりも大切なのに。
誰よりも愛しているのに。
ずっとずっと隣にいてほしかった。
苦しめたくせに離せなくてごめん。僕は君と生きていたいんだ。
早く目を覚ましてほしいのに、あの温度のない視線で見られることに怯えている自分がいた。
久しぶりに深い眠りについた気がする。
目を覚ますとき、何だか深海から水面に顔をだすような感覚があった。
まだ鮮明ではない頭はぼんやりとしていて眠る前のことを思い出せない。
だから、見知らぬ部屋で寝ていることにやや混乱してしまう。
「ここは……?」
「ここは病院だよ、目が覚めてよかった」
ぽそりと呟いた言葉は独り言のつもりであったが、聞きなれた声で返事をされた。
声のする方に視線を向けると、目を真っ赤に腫らした秋斗が心配そうな顔で私を見ていた。
「病院……?」
「そう、昨日玄関で倒れていて、救急車を呼んだんだ」
徐々に鮮明になる記憶、ああ、そういえば体調が悪い時に自宅突撃されて玄関で意識を失った記憶がある。本当に限界に挑戦したから当然の結果かと倒れたことに納得してしまう。
病室だろう部屋をゆったりと見渡せば、ベッド横のキャビネットに大量のゼリーやらお菓子やらが積まれていることに気が付いた。私の好きなものばかりがあふれんばかりに置いてある。
「体調はどう?」
「すごい悪いけど昨日よりはいいと思う」
「っ、そうだよね、その、過労で倒れたって」
「でしょうね」
「ごめん」
人が二人いるのに、病室は誰もいないかのように静まり返った。
病室は個室でよかった。他の人にもこの気まずさを体験させてしまうところだった。危ない危ない。
「……仕事は?」
「今日は休みをもらったんだ」
「……そう」
「奈津の会社にも連絡はいれてあるから」
「……ありがとう」
「うん、数日入院ってことだからゆっくり休んで。必要なものがあったら連絡して。家から持ってくるから」
「……わかった」
また部屋には気まずい空気が流れる。
手煩いをして居心地が悪そうな秋斗に横目で視線を向ける。
秋斗の顔を見るのは数年ぶりと錯覚を起こすくらい久しぶりな気がした。
少しやつれただろうか、疲れたような雰囲気がでていた。
どれだけ泣いたのか、目は腫れぼったく充血をしている。
「……あなた、泣いたの?」
「泣くだろ、こんな状況」
「なんで?」
「なんでって当たり前だろ、奈津が倒れたんだから!」
秋斗は理解できない私に少し怒ったようなトーンで言葉を発した。
凄く重大なことを理解できていないのがおかしいと言わんばかりの話し方だった。
「浮気したのに?」
いくらそう言われても理解できないので、子どもように馬鹿正直に聞いた。
不思議でしかたないのだ。
私が倒れたことが泣くほど心配なの?どうして?
私が大切とでもいうの?浮気をしておいて?ねぇ、どうして?教えてよ。
尋問とはまた違う、本当に純粋な疑問をぶつけた。
寝起きで頭を使えないから、なんて言い訳をして。
秋斗はそれに傷ついたような顔をした。愛を疑われたことに傷ついたような顔。
こんな質問で傷つくなんてあなたは随分お気楽なのね。
私の心は傷がつくところがないくらいズタズタなのに。
「ごめん、謝ってすむことじゃないけど本当にごめん、それでも君が好きなんだ、愛してる」
「噓つき」
「噓じゃないんだ、奈津のことが大事で、大切で、心配で、愛している。ごめん、でも、信じられないよね……」
どうすればいいか自分でもわかっていないのか、秋斗は髪の毛をくしゃりとかきまぜた。
秋斗は私を愛している、仮にそれが本当だとしたらなぜ浮気をしたのか。そこを結びつけることがちっともできない。
「じゃあ、なんで浮気したの?飽きたから?スリル?なんで?」
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