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3話


「おかえりなさい」


女は女優とはよく言ったもの。

例え心の中がどんなに荒れ狂っていても秋斗から帰宅の連絡がきた瞬間、スイッチが入ったかのように私はいつも通りを演じられた。秋斗も不審がることはない。

見かけはいつも通りでも、2人で食べる晩御飯の味なんてわからなかった。


「これ、凄い美味しい」


「え、本当、よかった~」


「また作ってほしい、絶対食べたい」


にこにこ、平然、いつも通り。心は血だらけで、今もなお血が滴り落ちていても。

沸々と湧き上がる激情を表に出せないからこそ、胸のうちをくすぶり続け、心は悲鳴を上げている。

悲しみやショックはなんだか一週回ってしまったらしい。

明確にこの人間が嫌いだと、恨めしいとはっきり思った。

何食わぬ顔をしているあなたが嫌い。

心臓にナイフをつきたてたくせに平然としているあなたが嫌い。

裏切ったあなたが穏やかでいるのが憎い。

なんの躊躇いもなく裏切ることができたあなたが恨めしい。

嫌い、嫌い、嫌い、嫌い!

憎い、恨めしい、憎たらしい!


あなたはどんな思いで浮気をしたの。

あなたはどうして平然としていられるの。

私との思い出はなんだったの。


あの女と寝たベッドで私も横になった。

寝息を立てている秋斗の横で私は一睡もできなかった。

いや、あのイヤリングを見つけた日から上手く眠ることはできていない。


そして今日、離婚届をもらい、結婚指輪を捨て、秋斗に離婚を切り出したのだ。

結婚指輪を捨てるとき泣くかと思ったが、涙はでなかった。

すでに枯れるほど泣いたからかもしれない。

ゴミ箱に転がる結婚指輪をみて、最後まで残っていた胸のつっかえが取れた気がした。




私たちが離婚しようとも、関係がぐちゃぐちゃになって精神的に不安定になっても、世界は変わらない。

立ち止まってもくれないし、気遣ってもくれない。

明日は平日だし、仕事もある。

私は離婚を切り出せたのでもう用はないのに、秋斗はずっと声をかけてくる。

もう、本当にしつこいくらい。

どこにいくにもカルガモのように後をついてくるし、私がお風呂に入っても、ドアをあけて座り込んで延々と謝罪をしてくる。流石に鬱陶しいし、寒いのでシャワーをかけたのは何も悪くないと思う。

あまりにも必死なのか私が「風呂!入れ!」と言わないとお風呂にも入らなかった。

誇張なしで自由時間だったのは秋斗がお風呂に入っている時間だけだった。


はぁ?謝罪したら許してもらえることと思っているの?

それとも私は勢いで許してくれる人間だと勘違いしているの?

許すわけねーだろ!

むしろ頑なにになる私の性格を忘れているようだ。

あの女のことしか頭にないとでもいいたいのか。

イライラしながら寝る場所を確保するため、寝室とリビングを往復する。

布団は一枚しかないので、毛布でいいやとしまい込んだ冬用の毛布と枕をもってソファに必要なものを置いていく。


「え、奈津、何しているの」


「何ってソファで寝るための準備よ」


「体壊すだろ!ベッドで寝よう、頼むから」


「絶対にいや」


「僕のことそんなに嫌いになったの?」


「当たり前でしょ?それになに?他の女と寝たベッドで私に寝ろっていうの?」


「それはっ、少しだけ話がしたい、頼むから」


「私、もう寝たいの」


取り付く島もないことを理解できたのか秋斗は伸ばしていた手を戻し、トボトボと一人寝室に向かった。

何勝手に辛いです、みたいな雰囲気を出しているのか。自業自得でしょうに。

まだ少し興奮状態なのかソファで横になるけど眠気はまだこない。

寝るのには確かに寝にくいけど、あのベッドよりも心を落ち着かせることができた。

きっと、久しぶりに眠れるはず。

そう無理やり目をつむった。


なのに、ふわりふわりと秋斗との思い出が浮かんできた。

誕生日をお祝いしたこと。

2人でこのリビングで夜通しゲームをしたこと。

結婚式。

結婚記念日のお祝い。

2人で近所の公園にお弁当を持って行ってピクニックをしたこと。


楽しかった。本当に楽しくて幸せだった。毎日が宝物だったような日々。

なんで離婚を切り出した後にこんなにも涙がこぼれるのだろうか。

声を押し殺すこともできなくて、毛布を頭まで被って泣いた。

まだこんなに泣けるなんて。

寝室に聞こえるなんてどうだっていい。

ただただ私だけが悲しんでいることが惨めで苦しくて虚しい。








「噓だろ、なんで知っているんだ!」


そうぶつくさと独り言を呟きながら僕は狭い寝室をぐるぐると歩き回る。

証拠隠滅は完璧だったはず。

でも監視カメラを仕掛けていたということは何かで怪しまれてずっと様子を見られていたのだろう。

さっきの動画により確固たる証拠を持たれてるので誤魔化すこともできない。

もしかしら探偵なんかも雇い済みかもしれない。


「離婚するつもりなんてなかったのに、くそっ」


もう頭を抱えることしかできない。

確かに浮気をした、悪いことだとわかっていてした。

でも、浮気と離婚がイコールで結ばれていなかった、つい先ほどまで。


それは奈津を愛せなくなったからとか飽きたとかで浮気をしたのではないから。

奈津が納得するかはわからないが、浮気をした理由だってあるつもりなのだ。

せめて説明をさせてほしいのに聞く耳を一切持ってもらえない。

ずっと自分の隣にいるのは奈津だけだと信じていたし、思い込んでいたのに。


そして何より、自分も愛していると同時に、彼女に愛されていることを理解していたから。

奈津の愛を一身に受けているのが自分だけなのを知っていた。

心から愛してくれていたのを身をもって実感していた。


浮気を隠し通すつもりであったが、仮にばれたとしても数日怒られれば許してもらえると思っていた。

なのに先ほどの表情で僕をもう愛していないことを思い知らされた。

あの愛おしいという優しい視線がないことに狂ってしまいそうで。

離婚になることを腹に据えての浮気では断じてない。

なのに、今離婚という事実が自分に重くのしかかっていた。


「離婚したくない、やっぱり話をしないと」


この問題は長引かせるべきではない。何十回、何百回謝罪をしたとしても離婚を取り消してもらいたい。

きっとまだ奈津は起きているはず。

寝ているときのために寝室の扉をそーっと開けると、物音が聞こえた。

よかったと思うのも束の間、それは泣き声であることに気が付いた。


そのときの気持ちを何と言えばいいだろうか。

彼女と僕との信頼の糸がすっぱりと切れているのが見えたとでも言おうか。

この時になって漸く自分は許されないことをしたと理解できた。

謝罪をしても許されないこと。

その心臓に消えない跡が残るほどの傷を与えたことに。


奈津は笑顔が似合う人で、僕といるとよく楽しそうに笑っていた。

朗らかで陽だまりのような笑顔を浮かべる人。

泣いているのなんて苦手なホラーをみたときくらいだった。

だから、あんなに苦しいと泣いている声を聞くのは初めてだった。

そういえば奈津が心から笑っているのを最近みただろうか。


くらりと立ち眩みをして、床に愕然と座り込んだ。

それはどうしたらいいかわからなかったから。

生まれてもうすぐで30年、僕は人を傷つけたことがなかった。

人にも言われるくらい上手く生きてきた。

バランスをとって、上手く立ち回って、敵を作らない。

なのに、今一番大切な人を自分の手で癒えない傷をあたえた。


地面がおぼつかないくらいにぐらぐらとする。

軽いパニック状態だった。

どうしたら許してもらえるのか。

どうしたら離婚を取りやめてもらえる。

どうしたら隣にずっといてくれる。

どうしたらまた愛してもらえる。

どうしたらまた愛し合える。

どうしたら、どうすれば、何をすれば。

でも、答えなんてでなかった。


やっと自分たちの関係が終焉に向かっていることを理解した。

刻一刻とその時が近づいている。

どこかで謝ったら許してもらえると思っていた自分が情けない。


いや、こうして泣いていても何も変わらない。

自分ができることを全部しよう。無茶なことでもやらなければ。


まずはとスマホを手に取った。



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