2話
3週間前の私はとーってもお花畑だった。
結婚記念日での子どもの話に脳内では子どもの名前を考えていた。大分気が早いのは理解している。
お陰で毎日ご機嫌でいられたのでいいことだと思おう。
でも怪しい人間まっしぐらだ、表情筋の管理はちゃんとせねばなるまい。
その日は秋斗は振替休日で休みを取っていた。
出かけたいところがあると聞いていたので、家に帰ったときにまだ帰ってきていないことも普通に受け入れていた。
着替えに寝室に行った時に床にキラリと光る物が見えたときですら夢を見ていた。
なんだ~、お宝か~なんてふざけながら落ちている物を拾えば、その瞬間時がとまった。
自分でもわからないけどプツンと何かの線が切れた感覚がしたのを覚えている。
だって、それは可愛らしい花のイヤリング。
私、ピアス穴があるからイヤリング一つも持ってないんだけど。
え~、もしかして秋斗の?うふふ、可愛い趣味。
笑えるわけねーだろ。
段々と波が引いていくように秋斗への気持ちがさぁっと消えて行くのを感じた。
いや、もしかしたらスーツに引っかかっていたとか、間違えて買った私のプレゼントかも。
そんならしくない言い訳を考えてしまう。
これだけで浮気だと思うのは流石に酷い、冷静になろう。
そう心で唱えるけど見たくない現実を見ないふりをしているように思えてしまう。
兎にも角にもこれだけでは判断がしかねるだろう。
慰謝料だってこれだけじゃ請求できない。
やめて、そんな事態にはならない!
でも、朝はこんなものなかったから、わざわざ女を家に呼んで、今はその女とデートしているのかも。
一度植え付けられた疑念は払うことができない。
まとまらない思考、だけど私は震える手で小型でカメラとわかりにく監視カメラを購入した。
しなければならないことは理解していた。
ああ、秋斗が帰ってくるまでに私は冷静になれるだろうか。
それから毎日、監視カメラのデータを死にそうな思いで確認していた。
浮気していませんように、そう願いながら確認をする毎日が苦しい。
疑っていることが、監視していることが後ろめたくて。
監視カメラをみるまで安心ができなくて。
浮気していないことに安堵して嬉しいのに、明日はどうなるのかと不安になる。
毎日が怖くて落ち着かなくて、不安で心配で、狂いそうだった。
このまま浮気してほしくないのに、苦しい毎日が終わってほしいと確固たる証拠を求めていた。
でも、その不安な日々も終わることとなった。
勿論、悪い意味で。
「ぁっ、秋斗さん、気持ちい、あぁっ」
「はぁっ、綾、綾っ」
「秋斗さんっ、秋斗さんっ、あっ、も、だめぇっ」
絡み合う2人、激しく愛し合う2人。恋人のように名前を呼びあいキスをする2人。
大好きな人が知らない女と愛し合っている姿が監視カメラにしっかりと映っていた。
気のせいなんて思えないほど、明確な裏切られたという証拠だった。
その瞬間、こみ上げてきたのは嫌悪感・ショックによる吐き気。
頭を鈍器で殴られたようにぐらぐらとして世界が回るような気持ちの悪さ。
急いでトイレに飛び込み、苦しさを吐き出すように嘔吐した。
嘔吐をしても勿論、気持ちは落ち着くことはない。ただぼんやりと糸が切れた人形のようにトイレの床に座り込んだ。
なんで、どうして、そう意味のない問いを延々と繰り返す。
私のことが嫌いになったのだろうか。
それとも飽きてしまったのか。
自分ではいい妻になる努力はしてきたけど、間違っていたのか。
もしかしたら秋斗の負担になっていたのかも。
ああ、何をしていれば秋斗は浮気をしなかったのだろうか。
どうしたら裏切られることはなかったのか、誰か教えてほしかった。
この数分で自分のことも秋斗のことも一切信じられない。
5年間の信頼なんてものは一瞬で消え失せた。
そして、今までしてきた努力も無意味だったという事実を受け入れられなかった。
そのとき、ぽそりと自分で呟いた一言に再度吐き気に襲われる。
「……いつから浮気していたの」
ああ、最悪だ、気がつきたくなかった。
この5年間が全て噓だったなんて思いたくないのに。
けれども、脳裏に浮かぶ親密そうな2人にそう短くない付き合いであることは察せられてしまう。
そりゃあそうでしょうね、ホテルなんかじゃなくて家に呼ぶくらいだもの。
きっと私以上に信頼していて、仲がよろしいのでしょうね。
本当ならば探偵を雇ってもっと詳しい証拠を調べて慰謝料を請求するのが通常かもしれない。
でも、もうそんな力が私にはなかった。
これ以上傷をえぐられたくない。これ以上の現実を受け入れられない。
本当に狂いそうなのだ。全部を壊してしまいたくなる。
こないだのイヤリングとこの動画だけでできることをしよう。
ぼろぼろと鬱陶しいほどに流れ涙すら拭う気力がなかった。
どのくらい泣いていたかわからないが、このままではダメだということはわかる。
今日この勢いのまま秋斗に話を切り出したら、なんだか私が縋ってしまいそうだった。
捨てないで、なんてどの口がいうのだろうか。
きっと秋斗はいつも通り穏やで、慌てるほどのことではないのだろう。
とりあえず秋斗が帰ってくる前に落ち着かないと。
よろよろと立ち上がり、寝室でいつも通り着替えをしようとクローゼットを開ける。
そのとき、ふと違和感を感じた。
置いてある私の鞄が朝とは違う置き方をされているようにみえた。あんな置き方していなかった気がする。
神経質になりすぎだろうか、でも心臓は嫌な音をたてて動いている。
痛む心臓を抑えながら、その鞄を手に取ると中に可愛らしい花柄のピンクの封筒が入っていた。
まるで落ちていたイヤリングの花のよう。
こんなもの入れていない。
封筒を手に取れば「秋斗さんの奥様へ」と実に堂々とした果し状があった。
馬鹿にされるにも程がある。
もう裏切られた悲しみなど通りこして、自分がちっぽけで無価値のように思えていた。
秋斗と浮気相手からしたら私など傷つけていい存在だと思われているのだろう。
一体どんな内容が書いてあるのか。どうせ別れてほしいか、マウントかの2択だろう。
心は壊れてしまったのかもう平坦で。
なんだか現実味がなくてぼんやりとしていた。
特に警戒することもなく、封筒をあけて、手紙をだそうと封筒に手を入れた。
「痛っ!え、なに……」
手を入れた瞬間、指先に酷い痛みを感じた。慌てて手をひけば、刃物で切ったかのような傷ができており、血がつぅーっと指を滴り落ちる。
恐る恐る封筒の中をみれば、カッターの刃が数枚入っていた。
私の心がどんどん削れていく。
悪いのは浮気をしている2人のくせにどうしてここまで酷いことができるのか。人をなんだと思っているのか。
またじわりと涙が浮かぶが、何だか負けたような気がして雑に拭い、慎重に手紙を取り出して、真っ白な紙を開く。
「ひっ……どんな女を浮気相手に選んでいるのよっ」
手紙とは思えない内容におもわず手の力が入らなくなり、かさりと床に紙が落ちた。
短い悲鳴がでるほどにインパクトのある手紙だった。
それはA4の紙いっぱいに赤い文字で「別れろ」とひたすら綴られた手紙だった。
もう夢に出そうなくらい。絶対呪物だろ。
こんな女を選ぶなど秋斗の趣味を理解できないし、したくもない。
ああ、もう嫌だ。何もかも嫌になる。
今までの秋斗との楽しい思い出も幸せな記憶も何だか遠い昔のようで、靄がかかり思い出せなくなってきた。
もうどこが好きだったのかも言葉にできない。わからないくらい。
「離婚なの、かな……」
ベッドを恨めしく睨み付け、虚しい独り言がこぼれた。