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草莽崛起<後篇>

「一蔵、ちょっと……」


 自宅の縁側で書物を開いていた滝一蔵は、呼ばれて顔を上げた。

 見やれば、裏木戸からこそりと顔だけをのぞかせている黒木新八の顔が映った。


「新八さん、どうしたんですか?」


 近所に住む二人は、幼い自分からの知り合いである。新八の方が四つほど歳上であった。


 同じ家禄ぐらいの旗本同士、いつもは堂々と玄関から出入りできる間柄であるというのに、なぜ裏木戸からと、一蔵は不思議に思いながら応じる。


「大事な用なんだ、来てくれ」


 と手招きされたので、一蔵は近づいてみる。


「あのな、実は……」


 新八は小声で話しかける。


「こんなところにいないで、どうぞ上がってください」


「馬鹿、お前んとこのばあやに聞かれたら、まずいんだよ」


「ばあやなら今はいませんよ」


「なんだ、こそこそする必要なかったのかよ」


 新八は胸をで下ろしてみせる。


 滝家に長年仕えている女中のおよね、通称ばあやは年老いても矍鑠かくしゃくとしていて、口うるさく、幼い頃より新八は苦い思い出がある。

 今から言おうとしていることを聞かれれば、ほうきを持って追いかけられることは必定だ。


 一蔵にうながされて、新八は彼と一緒に縁側に座った。お茶を持ってくると言う一蔵を制して、打ち明ける。


「お前、そろそろ剣術を習いたいって言ってたよな」


「はい。俺も武士の子ですから。ばあやが探してくれているみたいですけど……」


 一蔵は幼い頃、とても身体が弱く、寝込んでしまうことも幾度もあった。

 成長するにつれ、寝込む頻度は減ったものの、身体は細く、性格も内向的で、今でも両親に心配されながら生活している。ばあやが口うるさいのも、一蔵が心配でたまらないからであった。


 今までは道場など通う肉体の余裕もなかったが、そろそろと、皆が考え始めていたときである。


「それはちょうどいい!一蔵、俺たちのとこに来いよ」


「俺なんかが入って、迷惑じゃないですかね……」


「何言ってやがる!文句を言う奴なんかいねぇし、いても俺がぶっとばしてやる」


 一蔵はうれしそうに小さく笑った。


 新八は昔から変わっていないと、つい懐かしくなる。

 身体が弱かった新八は、同じ年頃の子どもたちに揶揄からかわれたりすることも、しばしばあった。そのとき、近くに新八がいれば、いつも味方になってくれていたのである。


「新八さんって、どこの道場に通ってるんですか?」


馬喰ばくろ町にある、御子柴みこしば道場だ。うちは大所帯じゃないけど強者揃いよ。俺みたいな貧乏旗本か、町人しかいねぇから、気楽にできるぜ」


「へぇ。町人までいるんですか」


 画期的な道場だと驚くのも、普通の反応である。

 どこか誇らしげな新八の反応を見て、一蔵の心は決まった。


「両親にも入門のこと、話してみます」


「おお!一蔵なら入ってくれると思ってたよ」


「すみません、新八さんのお話でしたね」


「俺の話は一蔵の入門と関係があるんだ」


 きょとんとする一蔵の両肩に、新八は手を置いた。


「入門してすぐにで悪いが、試合に出てくれ」


「し、試合!!無理です!新八さんだって知ってるでしょう。私は体も弱いし、剣を振るったことさえないんですよ」


「承知の上でお願いしてるんだ。なに、一蔵はただ出てくれるだけでいい。実は……」


 新八は事のあらましを説明した。


 先日、旗本連中に絡まれた折に、勢いで試合をすることになってしまったが、人数が一人足りないという致命的なことに気づいてしまった。

 新八から試合を申し込んでしまった以上、まさか人数が足りなくて試合ができませんとは言えない。


 そこで白羽の矢を立てられたのが、一蔵であった。


「一蔵が負けても、あと三人勝てばいいんだ。だから大丈夫。頼む、この通りだ」


 目の前で拝む新八は、何も嫌がらせで言っているのではないということを、一蔵は承知している。

 お世話になっている先輩の頼み事は引き受けたいが、できることと、できないことがある。


「でも……」


 数合わせのためとはいえ、もし自分の所為せいで負けたら、道場の看板はなくなってしまうのだ。


「ほら、あそこの木から一蔵が降りれなくなったとき、助けてあげただろ」


「助けようとしてくれましたけど、新八さんが来たら枝が折れて、ばあやに怒られたじゃないですか」


「う……」


 痛いところを突かれたとうなる新八の顔が、幼いころに見たときと同じ顔をしていたので、思わず、くすりと笑ってしまった。


 きっと新八は、他の人にもあたってみたのだろう。しかし、相手が相手だ。無用な争いは避けたい、あるいは勝てる自信がないと、断られてきたのに違いない。自分は最後の綱なのだと、一蔵は覚悟を決めた。


「わかりました。足手まといになりますが、試合に出ます」


「すまん……!ありがとう」



 かくして御子柴道場の猛特訓が始まった。


「よし、これで人数は揃ったな」


 滅多に道場には顔を出さない師範の左近は、試合までの日、門下生の特訓のため、毎日道場での稽古に精を出していた。


「やるからには、肝っ玉を見せつけてやれ!」


「「はい!!」」


 

「私たちも応援に行くからね」


「こてんぱんにぶちのめしてやれ」


 鈴彦は長屋の住人に声をかけられて恐縮した。


 新八がすごい剣幕で長屋に訪ねてきたときから、すでに長屋の住人たちも、試合をすることになった顛末てんまつを知っていた。


 何度も姉の住む長屋を訪ねたことのある鈴彦は当然、長屋の住人たちとも知り合いで、特に雪たちと親交のある弥七とおすが夫婦は熱心に応援してくれた。


 試合当日は、長屋の住人が総出で応援に来てくれるという。


「ありがとうございやす」


 前に姉が、ここの長屋に越してきてよかったと言っていたのを、鈴彦は思い出した。



 ところ変わって、御子柴家では……


「試合なんて、道場が始まって以来ね」


 雪と滝家の女中およね相手でも屈託なく話すも、どこか上品のある笑みを浮かべるのは、左近の妻であるりつである。


 一日中、道場で稽古をしている夫や門人たちのために、三人は御子柴家に集まって、食事の用意などをしていた。


 少し慌ただしい差し入れの準備の最中、律はどこかうれしそうにしていた。


 夫が隠居をして、屋敷から隠居所に住むようになってからは、長閑のどかな毎日を送るようになっていた。物足りないと言えば贅沢かもしれないが、そんな日々の中で、たまに雪が訪ねてくるときを、とても楽しみにしているのである。


 師範代の妻とはいえ、身分を気にして雪はあまり気軽には、律の家を訪ねられない。律は遠慮をしてなくていいと言うも、そうというわけにはいかなかった。


 控えめで穏やかで、優しい雪のことを、律は気に入っているのである。

 だから雪と、しかもおよねも手伝いに来てくれてにぎやかになった時間に、律は満足していた。


「およねさん、私が……」


「なんの、わたしぁ力持ちですから」


 ひょういと重い鍋を持ち上げるおよねに、雪は感心してしまった。律もすごいという顔で見て、二人は思わずにこりと見つめ合った。


   *


 そして、試合当日――


 あくまで非公式の試合としたい岩松道場側の要望によって、試合は御子柴道場で行われることになった。

 道場の看板がかっている御子柴道場の面々からしてみれば、正式な試合を申し込んでみたが、取り合ってはくれなかったのである。


「なめくさって……」

「俺らのことが怖いんだ」


 と、余計に門人たちに火がついたのは、言うまでもない。


 岩松道場からは件の五人と、師範代を務める野崎という男が来ていた。


「先鋒、前へ!」


 公平を期するために、審判は共に師範代である辰巳と野崎が務めている。


 呼ばれて見るからに緊張している一蔵を、岩松道場の面々が嘲笑あざわらった。


「向こうは間に合わせだ」

「片手でも勝てるぞ」


「あいつら……一蔵!目にもの見せてやれ!」


「は、はい……」


 剣を学んだばかりの細身の少年は、試合相手のたくましい身体に気圧けおされてしまっている。


 初めての試合で勝とうなどと、自分がまだ未熟であるという負い目のある一蔵は思ってもいない。

 道場の看板がかかる試合の雰囲気に、飲み込まれそうになっているのだ。


 しかも、岩松道場側の声援が甲高いのだ……


「くそぉ……」


 非公式の試合であるのに触れ回ったのか、岩松道場の門人たちの姿を見ようと、若い武家の女子たちが、道場の外で騒いでいた。岩松道場の者たちにとっては、余裕で勝てる試合であると、高をくくっているのだ。


 正直、女子の声援をうらやましいと思わなくはないが、余計に腹が立つのも事実である。


「坊ちゃん!負けるな!」


 その声は、確かに一蔵に届いていた。

 一蔵にとっては、誰よりもおよねの声が、一番の応援になる。


 まだ完全には緊張感がぬぐえないものの、一蔵は一歩ずつ前へと進む。


「あいつ。何か特訓してたよな」

「先生は絶対に負けないと仰っていたが……」


 試合の日までの限られた時間で、どんなに特訓したところで、一蔵が新八たちまでの実力をつけることは、不可能である。

 手を抜くつもりは毛頭ないものの、ただの人数合わせであると本人も思っていたが、師範の左近にはある考えがあった。


 そして一蔵は、皆とは別に、左近からあることを教えられていたのだ。


「はじめ!」


 悪態をついてはいても、岩松道場の門人たちは、それなりには腕の立つ連中ばかりである。


 剣術を習い始めたばかりの一蔵に、万が一にも勝ち目はなかった。


――相手はきっと、攻めてこいとばかりに、余裕に構えているだろう。


 一蔵は左近に教えられた言葉を思い出しながら、対戦相手を見()える。左近の言った通り、相手は一蔵が仕掛けてくるのを待っていた。


――そのときは相手の誘いに乗るのだ。


「ばかっ……」


 一蔵が上段に構えて攻めかかるのを見て、新八は思わずつぶやいた。

 対して左近の方は、満足気にふんと笑う。


――相手は迷わず、がらりとあいたその方の腹を狙ってくる。あとは……


 万が一にもという不可能にも近い可能性をくつがえした要因は、左近の観察眼によるものだ。

 左近は一蔵の身の軽さ、それならばできる技を見抜いていた。


「あっ……!」


 新八たちはその光景に、釘付けになる。


 相手の一撃がくり出された瞬間、一蔵の姿が消えた。


 否、翔んだ。


 完全にとらえたと思っていた一蔵の体は、軽々しく宙を浮く。あっと肩透かしを食らった一瞬の隙ができた。


 左近は、充分だと言わんばかりに笑む。


「ていっ!」


 一蔵はそのまま一直線に木刀を振り下ろす。

 相手が状況を理解できたときにはもう遅い。木刀は完全に、相手のひたいを打ちえていた。


 一蔵が床に着地しても、場はしんと静まり返っている。

 やがて野崎が口を開いた。


「……い…一本!!」


 審判の手は、一蔵に上がった。


「「「うぉぉぉ!!」」」


 新八たちがまず歓声を上げた。すぐに観衆の中からも、その声が聞こえてくる。


 一蔵が、勝った。


 本人ですら予想していなかった結末に、岩松道場の面々からはどよめきが起きる。


「坊ちゃん……」


 幼い頃から貧弱で、けれど心優しい少年を間近で育ててきたおよねは、言葉に表せない感動を、涙を流しながら味わっている。


「一蔵さん、かっこいいわ」

「よかったわね、およねさん」


 およねの側で一緒に試合を見ていた雪と律は、優しく語りかける。


 緊張感に包まれていた道場内も、すっかり舞い上がっていた。


「すごいぞ、一蔵!」

「これで義松と藤次が勝てば、俺たちの勝利だ!」


 もしかしたら三人で方がつくかもしれないと、次鋒の義松が挑み出た。


 しかし……


「うっ……」


 続く中堅の藤次も……


「あだっ……!」


 続けて相手に白星を取られてしまった。


「ま、人間そんな急には強くはならないわな」


 という左近の言葉とともに、御子柴道場の面々は肩を落としてしまった。


 一蔵の場合、相手が油断していたことが一番の勝因だ。

 ただ威張っているだけの相手ではないことを、思い知らされることになる。


「俺が負けたら、あいつらの勝ち……」


 副将の鈴彦は、顔面蒼白な思いでつぶやく。

 現時点で、御子柴道場は一勝、岩松道場は二勝しており、岩松道場は王手の状態である。

 そして鈴彦が負けた場合、岩松道場の勝利が確定してしまうのだ。


「鈴彦、お前なら勝てる!」

「そうだ!筋がいいって、師範にも言われただろ」


 多少なりとも、自分は強いと思っている。

 でも、自分と同じくらいの実力者なら、ごまんといるはずだ。

 しかも、相手は生粋きっすいの武士。

 生まれも育ちも違う相手に、勝負を挑むことすら烏滸おこがましいのではないか。


「鈴彦!」


 頼りなく腰を上げようとする鈴彦を、呼び止めたのは雪である。


 鈴彦が雪の方を見やると、姉は力強い眼差しで、一度(うなず)いた。


(姉さん……)


 言葉はなかった。だけど、鈴彦は姉の気持ちを痛いほど理解する。

 不思議なほどに、肩の荷が下りた。


(そうだ。武士だの町人だのは関係ねぇ)


 大事なのは、志だ。


 鈴彦の覚悟に決まった瞳を見て、左近は満足げな表情をする。


「はじめ!」


――俺、強くなりてぇんです。


 入門したときに言った鈴彦の言葉には、いろいろな意味が含まれていたし、本人もまだぼんやりとした言い表せない意味もあった。

 きっと彼は、それを見いだしつつあるのだろう。そして、新たな強さも求めていくのだろう。


(雪、お前の弟は強い)


 辰巳は昔を思い出しながら、鈴彦の試合を見ていた。


 相手の連撃に押されている鈴彦は、まったく手が出せないのではない。

 時期を、うかがっていた。


 今度は鈴彦の番だ。

 相手の反撃を許さない、無駄のない攻撃。

 そして……


「っ……!」


 雪は思わず片手で口を覆っていた。

 無意識に、涙さえこぼれ落ちる。


 ここぞというときには絶対に決める。

 鈴彦は皆に、そう評されていた。


「……一本!!」


 手も足も出ない相手にくらわした、見事な一撃。

 鈴彦の勝利は、誰の目にも明らかであった。


 歓声の中で、鈴彦は姉の姿を探した。

 ああ、うれしそうに笑っている。姉の笑顔は、本当に美しい。


「ただ、精進あるのみ」


「「はい!!」」


 左近の言葉に、皆は腹の底から声を出した。

 これでお互い二勝二敗。次で決着がつく。


「まったく……あいつらは何を手こずっているのだ」


 野崎は辰巳の隣で、苛立いらだたしげに呟いた。

 まさか無名道場相手に、ここまでの結果になるとは思っていなかったのだろう。


「新八、お前が最後だ」

「絶対に勝ってくれ!」


 新八は鈴彦と違い、重圧に押しつぶされそうにはなっていなかった。

 だが彼とて、どうしてよいかわからない。

 勝つ自信もなければ、負けるとも思っていない。自分でも驚くほどに、心が落ち着いているのだ。


「これが終わったら祝杯だ!頑張れ!」

「坊ちゃんを引きずり込んで負けたら、承知しないぞ!」


 長屋の面々やおよねの声を受けて、大将、新八は前に歩み出る。


 いよいよ、決着のときがきた。


何故なぜだ……なぜ勝てぬ……だが、次の大将はそんじょそこらの相手では、まるで歯が立たぬ。はじめから、勝敗は決まっておったのだ」


 隣でうだうだと呟いていた野崎は、今度は辰巳にはっきりと断言してみせる。

 つまらない戯言ざれごとは普段なら聞き流していたものを、少し反撃してみたくなった。


 試合が始まり、どちらも一進一退の攻防を続けている。


「新八は誰よりも負けず嫌いで、危なっかしいところもあるが……」


 野崎が鼻を鳴らした。


 相手が新八をとらえ、突きをくらわせようとする。


 あ、と誰もが息をするのを忘れた。


「責任感の強さは人一倍で、仲間を侮辱ぶじょくされたら必ず助けてやる男だ」


 新八は、鈴彦が侮辱されたことに腹を立て、勢いで試合を申し込んだが、その責任を一身に背負い、いま、木刀をにぎっている。


 それは、一瞬の出来事であった。


 相手の突きをひらりとかわし、すばやく背後に回った彼は、その刹那せつな、確かな一撃を背中に命中させた。


 崩れ落ちる相手を、新八は荒い息をして静かに見守った。


「そんな……」


 衝撃で審判の仕事を忘れている野崎に代わって、辰巳が声を上げる。


「一本!」


(嘘だろ……俺……)


 無我夢中で、すぐには状況を理解できなかった新八は、辰巳の声ですべてがわかった。


 御子柴道場が、勝った。


 辺りは瞬時に沸いた歓声に包まれ、いつの間にか岩松道場側を応援していた女子たちは帰ってしまった。


「これで祝杯が飲める」

「あんた、さっきからそればっかりじゃない」

「いよ!江戸一番の男たち!」

「すごいわ、みんな」


 まさかこんな結末になるとは思わなかった岩松道場側の面々は、がっくりと項垂うなだれている。

 ただ、以前のような悪態を吐く者はいなかった。


 明らかな敗北を前に、打ちのめされている。


 しかし一人だけ、どうしても納得のいかない者がいた。


「まだだ!これでは何の面目があって、道場に戻れるというのか!」


 野崎が声を荒らげ、場はしんと静まりかえる。


「あいつ何言ってやがる……」


 と、次第に観衆の中からささやく者がいた。


「しかし現に、試合はうちの勝ちと決まったではないか。面目も何も、どちらかが勝ち、どちらかが負けるのだから、関係あるまい」


 左近がやれやれと言い聞かせるも、野崎は納得できない様子である。


「お手前、それがしと勝負をしていただきたい」


 野崎の視線は、辰巳に注がれていた。


「野崎殿……」


 やめた方がよいという左近に、辰巳は目で制した。


「あいわかった」


 野崎にしてみれば、たとえ門下生たちが試合に負けたとはいえ、師範代同士の試合で勝ったとなれば、多少の溜飲りゅういんが下がるというものであった。

 左近が止めるのを振り切って、辰巳が応じたのは、ひとえに、門下生たちのためである。

 もし試合に応じなければ、門下生たちが試合に勝ったとはいえ、弱腰だのと何だのと、また悪態をつかれるかもしれない。自分のことを言われるのは構わないが、道場のことや門下生たちにまで飛び火をしたらと、今後のことを考えたのである。

 左近も辰巳の意図するところがわかって、それ以上は止めなかった。


「なあ、あの師範代って……」

「それなりに有名だよな」

「俺達でも知ってるくらいには……」


 江戸四大道場ほどのほまれはないものの、岩松道場の名は、旗本の間ではそこそこに有名である。だか無名の道場の門下生たちに負けたのが、よっぽど悔しかったのであろう野崎も、剣の腕は確かであった。


(辰巳さん……)


 相手がどれほどの相手かは知らない雪は、落ち着き払った夫の様子を見つめる。

 もしかしたら、辰巳はこうなることを予期していたのではないだろうか。

 日々、研鑽を積んでいたのは、門下生だけではなかった。


「大丈夫。静介のおとっつあんは、めっぽう強い」


 外で道場内の様子を見えるように静介を抱えている和泉は、雪にも安心させるように言った。


 雪は応えるように、和泉にうなずく。


 試合が始まる。場は以前にも増して、緊張感に包まれていた。


 今思えば、雪は間近で辰巳の剣の腕というものを、見たことがなかった。何度か道場を訪れた際には、剣を振るう姿を見たことはあるものの、雪にはその専門的なところまではわからない。

 この日、この瞬間は、目に焼き付けることになる。


 左近がやめろと言いたかったのは、辰巳に対して相手が野崎では勝てないという意味ではなく、()()()()()()の言である。


(なんと形になったものよ)


 左近は一人、感嘆する。

 出会ったばかりの頃の辰巳は、いわば荒削りの剣法であった。たしかに、どこかで習ってはいたのであろうが、その修練のほとんどは、我流のものである。

 そのままでも師範代を務めるには十分な強さを兼ね備えていたが、彼は剣法を熱心に学び、以前にあった殺伐とした雰囲気をなくしつつ、新たな境地に達していた。


 かつて辰巳が剣客けんかく集団に身を置き、実戦経験も豊富であると知っている者は、この場では限られている。

 もちろん、野崎は知らない。しかしだからといって、油断をしているわけでもなかった。

 絶対に勝たなくては、道場の面目が潰される。


 はじめに仕掛けたのは、野崎の方であった。

 難なく受け止める辰巳に、すぐに次の矢が飛んでくる。それも受け止め、また次の攻撃へ……


「もらった……!」


 野崎の渾身の一撃が、辰巳を襲った。


  *


「そしたらすぱーんって、まばたきしたら見逃してたね」

「息を吸う暇もなかったもんな」


 辺りも暗くなり始めた頃、一膳飯屋の弥勒みろく屋では、左近のおごりによるにぎやかなうたげが幕を開けていた。

 

 弥七とお清夫婦は、辰巳と野崎の試合に花を咲かせている。

 そして門弟たちも……


「師範代があんなに強いとは、近くにいても知らなかった」

「俺は知ってたぜ」

「向こうが岩松道場の師範代だからって、心配してたのはどこのどいつだよ」


 野崎の渾身の一撃がたたき込まれるよりも、辰巳の方が早かった。切っ先を見事に、野崎の喉元まで滑り込ませるその早さ、技を誰もが目に焼き付けたのである。


 自ら圧倒的な敗北を喫して、野崎はぐうの音も出なくなったのだった。


「俺もいつか、師範代みたいに強くなる」


 以前は辰巳よりも強くなりたいと口にしていた新八は、尊敬の念も混じって、謙虚になっている。


「私も……師範代とまではいかなくても、もっと強くなりたいです」

「俺たちが鍛えてやるからな」


 新八は白星をあげた一蔵の肩に手をやってみせた。


「次こそは白星を……」

「そうだな。いつまでも負けてられない」


 藤次と義松も気合いを入れ、鈴彦もまた、今日の試合に思いをせた。


「新八、ありがとう」


 事は新八が、鈴彦をけなされ腹を立てたことに始まる。

 身分を超えた友情は、より濃く、確かなものへと変じた。


「お前もかっこよかったぜ」


 あとはもう、笑顔で語り合うだけである。


 かくして約束通り、二度と岩松道場の門人たちが絡んでくることもなくなったのであった。


「辰巳さん、とても素敵だったわ」


 献身的に尽くしてくれた妻は、軽くほおを染めながら言った。

 きりりと引き締まった顔が緩んだのは、きっと勝利の酒に酔っているだけではないはずだ。

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