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草莽崛起<前篇>

「御免!」


 猛々(たけだけ)しい声に、雪はびくりと戸口の方を見やった。


 ちょうど夕餉ゆうげの準備に取りかかろうとしていたところ、雪の手は止まる。


「雪」


 固まっていたところにぽんと後ろから両肩を抱かれ、その声を聞いた途端に、一気に安心する。

 この人がいれば、大丈夫。

 雪は彼の存在に、どんなにか安心した。


「俺の知り合いだ」


 辰巳は声を聞いてその人を判別できたのだろう、まずただ事ならぬ声に驚いている妻を安心させることを努めた。


 雪は心得たというようにうなずいて、辰巳が戸口に向かう。


「静介、二階で遊んでなさい」


 先ほどまで父の膝の上で遊んでいた静介は、聞き分けよく、うんと言って二階へと上がっていった。


 一年前、住んでいた長屋は改装されることになり、それを機に、雪たちは棟割長屋から割長屋に住むようになっていた。

 二階は主に静介が寝起きする場所として使っている。


 雪は以前、仕立屋から内職の仕事をもらって生計の足しにしていたが、辰巳が道場の師範代になってからは、充分な手当をもらえるようになったので、今では彼の稼ぎで生活している。贅沢とまではいかないものの、静介が熱を出しても薬代に困らない程にはなっていた。


「お邪魔いたす」


 辰巳が戸口を開けると、ぞろぞろと四人が足を踏み入れた。


 憤りを顔にも出して先頭を切るのは、御子柴みこしば道場の門弟である黒木新八。後ろには同じく門弟である津川藤次と島義松、それに雪の弟である鈴彦がいた。


「師範代、試合を申し込んできました」


「なに?」


 門弟たちにお茶の準備をしていた雪は、思わず目を丸くして彼らを見やった。


 辰巳はひとまず彼らを座らせて、事情を聞くことにした。

 お茶を出し終えた雪は邪魔をしてはいけないと、そっと二階へと上がった。


 二階では静介があやとりをしながら大人しくしていたが、母の姿を見ると、無言で近くに寄った。


「大丈夫よ。おとっつぁんのお弟子さんたちが来たの。鈴彦叔父さんもいるから」


 ただならぬ雰囲気で訪ねてきた客人に不安を覚える息子に、雪は安心させるように言った。


 二階があるとはいえ、長屋での会話は嫌でも雪たちにまで聞こえた。


「御子柴先生を訪ねましたがお留守でしたので、師範代を訪ねた次第です」


 皆の代表で話す黒木は、声の怒気は少し収まったものの、まだ怒り収まらずといったところだ。


「順に話してみろ」


「はい。俺たちは稽古の後、今日は一緒に酒でも飲みに行こうとぶらぶらしていたときのことです」



 道場で稽古を終えた四人が、適当な飲み屋を探していたときであった。


「御子柴道場の奴らは町人なんかと連んでいるぞ」

「剣を持たぬへっぴり腰しか入門できないそうだな」


 四人が声のした方を振り返ると、嘲笑を浮かべる五人の男たちがいた。

 彼らも道場帰りのようで、竹刀を提げている。


「何と言った!」


「よせ、相手にするな」


 自分たちが馬鹿にされていると知った黒木がかっとするも、津川と島が制止する。


 男たちは黒木たちと同じく、旗本の子弟である。

 もっとも、いわゆる貧乏旗本の黒木たちとは違い、彼らの家の方が石高が上であった。


 彼らは岩松道場に通っており、普段から自分たち家より石高のない者を馬鹿にしているので、黒木たちからは煙たがられていた。


 反抗すれば相手が面白くなることを承知している津川と島は、すぐに沸騰してしまう黒木を止めたのである。


「おうおう、えておるぞ」

「町人の前でしか威張れんからな。威勢のいいことで」


 黒木とて、今まで彼らに馬鹿にされたことが何度もある。

 その度にむかついてはいたが、相手にはしていなかった。


 しかし、今日の黒木は我慢ができなかった。


 道場のことを馬鹿にされ、一番許せないのは、町人町人と、あからさまに鈴彦を卑下ひげしていることである。


「へっぴり腰はどこのどいつだってんだ!うちの道場に通う奴は、ただいばりくさっている木偶でくの坊とは違うんだ!」


「へっぴり腰……」

「木偶の坊……」


 これで相手にも火がついてしまった。


 両者、といっても御子柴道場側は黒木がにらみ合いをする。


「たかが町人が、武士の真似事をするな。汚らわしい」


 この言葉で、津川と島も我慢ができなくなった。

 そして……


「俺は武士になりたくてやっとうを習ってるんじゃねぇんです。志があれば、身分に関係なく、好きなやっとうができる。それが御子柴道場なんです」


 一応は武士の手前、言葉遣いを改めた鈴彦も、自身の誇りを傷つけられ、黙ってはいられなかった。


 そして、次の黒木の言が決定的となる。


「俺たちとやっとうで勝負しろ」


「上等だ。負けたら道場の看板はもらうからな」


「ふん。俺たちが勝ったら、二度と馬鹿にしねぇって約束しろ」



 試合は団体形式で行い、一本を取れば勝ち。先に三人勝った方が決まりとなる。

 これが黒木たちが交わして決めた試合形式であった。


「……つまりお前たちは、師範のあずかりしらぬ所で勝手に道場の看板をけた試合を決めてきたと、そういうわけだな」


「師範代!奴らの態度は、あまりにも腹にきたんです」


「道場と仲間のことを馬鹿にされて、黙ってろって言うんですか」


 他流試合ともなれば、師範が正式に申し込んで行うものであるが、門弟である黒木たちは自分たちだけで決めてきてしまったのは事実である。


「試合はできねぇ」


 何で反対するのだと意気込む門弟たちより先に、辰巳が口を開いた。


「お前たち、何人いるんだ」


「何人って……あっ!」


 四人は一斉にその事実に気づいた。

 団体戦は通常、五人で行う。すなわち、一人足りないのだ。


「師範代、入門希望者がいたりは……」


「いねぇ」


「で、ですよね……」


 門弟は黒木、津川、島、鈴彦の四人。御子柴道場は開設されてから今まで、門弟の数が増えも減りもしていないのだ。


 辰巳は常より感情を表に出さないが、内心、怒っている、またはあきれているのではないかと、門弟たちは息を呑んだ。


「師範代……」


 しかし、大事なことを忘れていたとはいえ、闘志が消えたわけではない。あと一人は自分たちでどうにかするからと意気込もうとするも、辰巳が真面目な顔で先に言った。


「先生には明日、俺が話をつけておく。稽古も厳しくするから覚悟しろよ」


「「「「はい!!」」」」


 こうして血気盛んな若者たちは家を後にした。

 鈴彦だけが残ったのは、雪と話したかったからだ。


「姉さん、心配かけてごめんね」


「謝ることないわ。鈴彦、今日からうちに泊りなさい。ね、辰巳さん」


「ああ、その方がいい」


 雪の提案に、辰巳も同意した。

 

 試合の日までは、今まで以上に稽古の時間も増えるであろう。独り身の鈴彦としては、身の回りの世話をしてくれる姉の存在が必要だろうという、雪の配慮であった。


 鈴彦にとってもありがたい提案なので、素直に甘えることにした。


 二人は出会いも複雑で、実は血の繋がりもないが、今では誰が見ても姉と弟である。



 夕餉を食べ終えてくつろいでいたときのこと……


「叔父さん、試合勝ってね」


「おうよ。皆、俺のために怒ってくれたんだ。しっかり報いないといけねぇや」


 鈴彦個人としては、侮辱された怒りよりも、身分という壁を越えて接してくれる三人の想いに、何よりも応えたかった。


 鈴彦の膝の上に乗せてもらった静介は、事情はよく分からないながらも、叔父の応援をしている。


「静介、今日からしばらくはおっかさんと一緒に寝ていいぞ」


「やった!」


 うれしそうにはしゃぐ静介の顔は、まだ母恋しさで溢れている。


 最近になって寝所が別になった静介だが、本当は毎日でも、母と一緒に寝ていたかったのだ。


 しかし、鈴彦にはこの辰巳の言葉が、少し引っかかった。

 彼が姉の家に泊まるのは、今日が初めてではない。泊まった際には、二階で静介と一緒に寝たこともある。だからてっきり、静介と一緒の部屋で寝起きするのだろうと思っていたが、稽古で疲れているであろう自分への配慮であろうか……


「どうして、姉さんと……」


 これには辰巳は答えなかった。

 雪は一度、静介に目をくれてから言う。


「静介、寝る前にかわやに行ってきなさい」


 辰巳が答えたのは、母の言いつけ通りに静介が厠へと向かったのを確認してからである。


「死闘の前は、欲を断つ」


「……?」


「我慢すればするほど、大事なときの力になってくれる」


「……ああ、なるほど」


 つまり夫婦の行いを試合の日までは一切休止し、力をみなぎらせるのだと、鈴彦は理解した。

 すでに雪も心得ていたようで、子どもには聞かせたくなかっただろう、静介を外させたのだ。


 中には大事な試合の日までならと思う者もいるかもしれないが、鈴彦はこの夫婦がむつまじすぎるのを知っている。


 しかも師範代である辰巳は試合をしないのにとも思うも、彼も本気で自分たちのことを指導してくれるのだろうと、覚悟に水を差すようなことは言わなかった。


「雪」


「はい、準備しておきます」


 雪は箪笥たんすから、辰巳が御子柴邸を訪ねるのに相応ふさわしい服装を見繕みつくろう。

 

 夫婦の阿吽あうんの呼吸に、鈴彦は感嘆するばかりであった。

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