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二人目の師

「あの、紫乃さん。もし、迷惑でなければなんだけど……」


 遠慮がちに尋ねる親友に、彼女は変わっていないと思いながら、そこがいいのだと紫乃は一人満足する。


李々(りり)ちゃんの先生に、会わせてほしいの」


「先生って、手習いの?」


 雪はこくりとうなずいた。

 この日、雪が紫乃を訪ねた理由はそこにある。


 文盲だった雪が、夫の計らいで克草塾の塾長である珊石さんせきに学び、文字を読めるようになったのは、つい二年前のことである。珊石に見込まれた雪は、今なお彼から勉学を教わっている。

 そして珊石は徐々に、雪に手習い師匠をしてほしいと願うようになった。


 束脩そくしゅう代を払えず手習い所に行けない子どもや、雪のように、手習い所に通えなかった大人たちのための手習いを開いてほしいというのが、珊石の願いである。

 雪の境遇を知った珊石は、彼女のもれていた才を目の当たりにして、思い至ったのであった。


 はじめは手習い師匠などできるわけがないと思っていた雪であったが、珊石の元で学び、自らを過信したのではなく、珊石の願いと共鳴するようになっていたのだ。

 息子の静介が手習い所に通い始める頃に、雪も手習いを始められればと、あと数年の年月があるが、徐々に動き始めていた。


 珊石は旗本の子弟たちに教えているので、町人の手習いについては不慣れである。雪は子どもの時分、少しだけ手習い所に通ったことがあるものの、手習い所がどういうところであったかはわからない。

 そこで、もし知り合いに手習いの先生がいれば、参考に手習い所を見せてもらいなさいと、雪は珊石に言われていた。


 宛てのない雪は、子どもが手習い所に通っている紫乃を頼ったのである。


 雪から目的を説明された紫乃は、快諾かいだくした。


「いいわ。どうせなら、今すぐ行ってみましょうよ」


「でも急には……」


「あの先生なら大丈夫よ。ふふっ……見た目はこんな感じだけど、まったく怖くないから」


 紫乃はぐっと、眉間にしわを寄せてみせる。

 雪は目を丸くして見た。



 神田はしろがね町で手習いをしているのは、よわい四十になる浪人の津坂小五郎である。

 雪が抱いた第一印象は……


(怖い……)


 二人が小五郎の家を訪ねると彼は在宅しており、ぬっと姿を現したのだが、紫乃の言っていた通り、眉間に皺を寄せ、まるでにらんでいるかのような表情をしているのだ。


(いけない……紫乃さんは怖くないって言ってた……)


 心の中で謝りながら、雪はすぐに意外なものを目にした。


「これは、李々の母君」


 相手が紫乃と分かったからか、眉間の皺は失せ、にこりと愛想の良い顔をする。太くて渋い声だが、威圧的ではなく透き通るように聞こえた。


「先生、こんにちは」


「李々のことで何か……」


「ううん、李々じゃなくて……」


 紫乃は小五郎に、雪を引き会わせた。


 小五郎に招じ入れられ、二人は道中で買ってきた土産を小五郎に渡し、事の次第を説明した。


「そういうことなら、是非お力になりましょう。といいましても、私で参考になるかはわかりませんが」


「あら、先生。とっても子どもたちに慕われてるじゃない。李々も先生に教えてもらうの大好きだって言ってたわ」


 物腰柔らかく、謙虚に微笑む小五郎に対して、もう怖いなどとは感じていなかった。話し方も穏やかで、為人ひととなりが垣間見える。


 雪は協力してくれることに礼を述べながら、この人と出会えて良かったと直感した。


 この日はとりあえずと、小五郎が手習い所に案内してくれた。


 小五郎が起居しているのは裏長屋であるが、手習いは長屋の差配の家である離れを使っていた。

 離れの中の一カ所には、普段子どもたちが使っている机がまとめられている。壁には子どもたちが書いた文字が所狭しと飾られていた。

 他にも手習いで使う教本やすずりなどを、小五郎が手に取って雪に見せた。


「まったく覚えていません……」


 教本をめくってみても、雪の記憶の中からその記憶は消えていた。

 手習い所に通った日の出来事は、あまりにも短い刹那せつなの記憶でしかなかった。


 いくら珊石から勉学を教わっても、人に教えることなどできるだろうか。珊石には経験も実績もある。小五郎とて、漏れ出る品の良さから、今までに充分な教育を積んでいるのかもしれない。


 でも、自分は……


 雪が己に自信を持てなくなるのは、昔からの性分であった。


「お雪さん、覚えていなくても、これから覚えればいいのです。しばらく私の手伝いをしてみてはいかがかな。実際に手習いの風景を見れば、輪郭も浮かび上がるでしょう」


 雪の不安を感じ取ってくれたかのように、小五郎が言った。


 手習い所というものがよくわかっていない自分がいては、小五郎の迷惑になる。雪はそう言いかけて、しかしその言葉を飲み込んだ。


「先生、どうか、よろしくお願いします」


 珊石の元で学び、文字が読めるようになった。文字だけではない、いろいろな学が身についた。だからという、それだけが手習い師匠になりたいと思った理由ではない。


 雪は幼い頃、母が家を出て行ってしまい、あまり家に帰ってこない父との生活が始まって、お金もなく、家のことをしなければならないという状況の下、手習い所に通えなくなってしまった。

 もしかしたら同じような境遇の人がいるのかもしれない。お金がなくて、手習い所に通えない子どもがいるかもしれない。

 その人たちのために、雪は手習い所を開きたいと思ったのだ。

 珊石に学び救われた自分のように。


 夢のために、そして、小五郎の誠意に応えるために。


「こちらこそ、頼みにしていますよ」


 これが新たな師との出会いであった。



 数日後、紫乃が雪の家を訪ねて来た。


「この前、小五郎先生に会ったんだけど、雪のことたくさん褒めてたわよ。子どもたちにも人気だって。李々も雪がいて、すごく喜んでる」


「そんな……まだまだわからないことばっかりで、小五郎先生に頼ってばっかり」


 雪はすでに何度か、小五郎の手習い所に通い、小五郎の手伝いをしている。

 

 慣れないことにてんてこ舞いだが、小五郎に温かく見守られながら、奮闘している日々であった。


「小五郎先生と出会えて本当によかった。紫乃さん、ありがとう」


 たった数日前に出会ったばかりの人であったが、雪は彼を師として慕っている。

 教え方はもちろんのこと、何より、小五郎の為人が好きであった。


 紫乃は親友の雪に、きれいな笑みを浮かべた後で言った。


「でもね私、小五郎先生に責められちゃった……」


「え……」


 もしや失礼なことをしてしまったのか。劣っていることがあるのか。

 雪は一瞬のうちに考えを巡らせるも、それは杞憂きゆうに終わる。


「もっと早くに雪のことを紹介してほしかったって。できれば、雪が旦那と出会う前にだってさ。旦那にはこのこと言っちゃだめよ。あの人、やきもち焼きにもほどがあるから」

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