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天女ノ羽衣

 父が読本に目を通すときはいつも、膝の上に乗せてもらい、一緒に眺めていた。

 普段は物静かであまり多くを語らない父だが、母のことになると、むきになるときがある。

 そんなことをふと思ったからか、目の前に広げられた読本に描かれている女の人を見て、

「おっかさん」

と、つい言ってしまった。


 美しい女人の絵であった。

 唐風の髪型に着物を(まと)っていて、優雅に空中を舞っている。


「これは天女だ」


「天女?」


「天界……空のずっと上に住んでいて、天界の偉い人に仕えているんだが、ある日地上に降りてきた天女は人間の男に見初められて、その男に羽衣を隠されてしまうんだ」


「どうして隠したの?」


「羽衣がないと、天女は天界に帰ることができない。男は天女に帰ってほしくなかった……ずっと一緒にいたかったんだ」


 それでは天界に帰れなくなった天女が可哀そうだ。と思ったのも束の間、次の父の言葉に身体が固まった。


「たしかに、雪も天女だ」


 天女は羽衣がないと帰れない。――羽衣があれば、帰ってしまう……

 このとき幼い少年は父の言葉を真に受けて、母が天女だと思い込んでしまった。




「静介、具合悪いの?」


 夕餉(ゆうげ)のとき、思いつめた顔をして箸が止まっていたところを、母が心配そうに尋ねた。

 母を心配させてはならないと首を振るも、頭の中では、母はいつか天界に帰ってしまうのではないかと、不安でたまらない。


 父はきっと、母の羽衣を隠したのだ。

 羽衣伝説の説明をしてくれたときの、ずっと一緒にいたいという言葉は、父の想いそのものに違いない。


 母のことをきれいだと思っている。それが天女ゆえだとすれば、納得できてしまった。


「ごはん、お茶漬けにする?」


「うん」




 この頃、静介の様子が変だ。


 雪は部屋の中で、一人じっと遊んでいる我が子を見やる。

 もともと大人しい性分だが、この頃は黙り込むことが多いうえに、少しも母から離れようとしなかった。


 なぜ静介の様子に変化が現れたのか、雪には見当もつかなかった。

 夫も同じくわからないと言う。


 何かあったのか。具合が悪いのか。そう尋ねても、静介は首を振るだけである。


 弟や妹ができると、赤さん返りをする子どもがいると聞いたことがあるが、下の子ができるような兆しはまったくないし、赤さん返りではないように感じられる。


 数年前は寂しい思いをたくさんさせた所為(せい)か、甘えん坊の気質があったが、五歳になってからは、少しずつ母がいなくても遊べるようになったのを、これまたどうしたものだろうか。


 もしや自分が、静介を傷つけるようなことを言ってしまったのか。しかしどう考えたところで、解決策は浮かばない。


 おまちさんに相談してみようか……

 そう思ったのは、夫と添い遂げたときにおまちからもらった着物の虫干しをしようとしていたからだった。


 以前に雪は、仕立屋を営むおまちから内職を請けて生計を立てていたことがあった。今ではおまちは隠居をしていて、店にはいないものの、二人の親交は続いていた。


 紺地に扇が描かれた着物は、おまち自らが作ってくれた着物である。衣桁(いこう)に広げると、いつものようにほっこりとした気持ちが訪れた。……のだが、けたたましい声がして、一瞬の内にびくりとする。


「お……おっかちゃ……」


 大きい粒の涙を零しながら、静介がしがみついてくる。思わず昔のように呼ばれて、切なくなった。


「静介……!どうしたの?」


「やだ……いなくなっちゃ、やだ……」


 静介がこんなに泣くのは、いつぶりだろうか。それよりも、いなくなるとは……


「おっかさん、どこにも行きやしないよ」


 まだ安心できないのか、静介は母の胸で泣き続けている。この様子は、静介の様子がおかしかったことと、関係があるようだ。


 まずは落ち着かせることが先だと、雪は静介を宥めることに努めた。




 静介が泣き止んだ頃には、道場から辰巳が帰ってきた。

 夫婦が静介に事情を尋ねると、彼の思いが明るみになる。


 なんと静介は、父の何気ない一言から、母を天女と信じ込んでしまった。そしてその母が虫干しをしていた上等の着物を天女の羽衣と勘違いして、母が天界に帰ってしまうと思ってしまったのである。


「静介、おっかさんは人間よ」


「ほんと?」


「もちろんよ。天女っていうのはね、この絵に描かれている人みたいに、きれいな人なの」


 雪は静介にそっと、事の発端となった読本を見せる。


「それにほら、おっかさんが持っているのは羽衣じゃないのよ。あれはおまちさんからいただいた着物なの」


「たとえ雪が天女でも、俺は絶対に天界に帰さねぇぞ」


「辰巳さん」


 ぴしゃりと雪に言われ、辰巳は居住まいを正す。

 普段、雪はまったくと言っていいほど怒らない。その雪が、母の顔で辰巳を見ていた。




 静介は自身の勘違いに納得はしたものの、その日の夜は母から離れようとしなかった。雪の隣で、寝息を立てている。

 辰巳は雪が起きているのを確認して、言った。


「天女みてぇに綺麗だって言いたかったんだが、俺が間違っていた。雪は天女より綺麗だもんな」


「もう……揶揄(からか)わないでください」


 辰巳が触れようとすれば、すでに雪は静介を優しく抱きながら目を閉じている。

 ここ数日、静介が母にべったりだった所為で、彼はおあずけをくらっていた。

 今日もかと残念に思いながら、可愛い我が子の寝顔を見て優しい顔になる。辰巳も雪の手に重ねて、静介を抱きしめた。

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