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湯けむり


 「し、失礼します」


 薄い白の肌着が、黒曜石のような肌色をうっすらと透かす。

 (なめ)らかな闇色は、図らずしも彼女の顔色を暴かせまいとしている。

 しかしリンカの(せわ)しない目線が、熱の籠った声色が、少女の恥じらいを何よりも伝えていた。


 湯気に(かす)むようにして近づくリンカが、固まる俺の傍で両膝を着く。

 聞こえる小さな深呼吸の音。


 「(どうしたんだ……何をして?)」


 あるのは困惑。

 10年前の俺であったら、薄絹(うすぎぬ)一枚の(きわ)どい姿なんて直視することが出来なかっただろう。

 だが黒牢事件以降、願いの成就だけが俺の心の支えとなり、それ以外の欲は破損したように上手く機能しない。

 食欲も睡眠欲も性欲も……完全に消失したわけでは無いが、心を揺らす程の情動になり得ない。

 だからこの風呂の様に、俺の心に“快”を与える存在は貴重。人間墨谷七郎を思い出せる時間なのだ。


 「お背中を、お流ししますっ!」


 意を決して叫ぶリンカ。

 その勢いに押され、俺は頷くしかなかった。


 洗い場にある小さな椅子に座り、少女に背中を流させるこの状況。

 

 「ふっ……ぅ。どうですか? 七郎様。気持ちいい、ですか?」

 「あ、ああ……。あの、リンカ。どうして急に」

 「日頃お世話になるばかりで、リンカは何も恩返し出来ていません。少しでも七郎様のお役に立ちたくて……」


 正直なところ、俺の表皮は彼女が触れている感覚すら伝えていない。

 正面の鏡は湯気で一部曇っているが、それでも少女の艶姿(あですがた)を十分に映していた。


 湿気と汗で薄絹が肌に張り付き、闇色の肌がより濃く透ける。

 

 「(()(たま)れない…………!)」


 なぜかこちらの方が羞恥を覚えてしまう。

 俺はリンカに、この行き過ぎた礼を終わりにしてもらうよう声を掛けた。


 「あ、ありがとう。もう充分」

 「いいえっ! まだ――あっ」


 振り向いた俺に、リンカが手に持つ布へもっと力を入れ始めた時だった。

 水と泡で濡れる床に足を取られ、彼女は足を滑らせる。

 洗い場と浴槽の距離は近い。


 “ばしゃりっ!”


 リンカはバランスを取ろうとしていたが、あえなく湯へ落水。


 「大丈夫っ?」

 「すみませっ、けほっ」


 俺が差し伸べる手に、全身を濡らしたリンカは遠慮がちに触れた。


 ――え?

 

 触れた途端に、見開かれる目。


 俺も同じような顔をしていたと思う。彼女の姿が原因だった。

 肩や腰のシルエットがはっきりと浮き出ている中、小ぶりな胸の突起が布の下から主張している。

 滑らかな闇肌に薄桃色が透け、逸らすように下に視線を向ければへその(くぼ)みと……。


 リンカも俺の視線の動きに気付いたのか、だんだんと顔を自分の体に向ける。


 「きゃあうううう」


 ――ごめんなさいぃぃぃ!


 顔を羞恥に染めると、不思議な悲鳴を上げて消えるような速度で風呂場から逃げていった。

 

 「……悪いことをしたな」


 最初から背中を流すことを断っておけばよかったのだ。

 なにか思い極めたことによる行動だろう。

 知らないうちに、少女を追い詰めてしまっていたことに罪悪感が湧く。


 その日の夜。


 明かりのついたリンカの部屋。

 古めかしい障子で仕切られた部屋の外から、リンカへ声を掛ける。


 「こんばんは、リンカ。今いいかな」


 ――は、はい。さっきは、ごめんさない

  

 「いや俺も悪かったよ」

 

 ――いいえ。あれはリンカの落ち度です


 「違うけど……話したいのは別の事なんだ。明日、近くの町に行ってみたくはないか?」


 ――お町ですか!? いいんでしょうか、外に出でも


 「ああ、絡新婦(じょろうぐも)の追跡が最近無くなったんだ。この隙に一度クジャクさんを、日本の病院へ連れて行こうと思ってね。皆で一緒に」


 此方(こちら)をおびき出す為の絡新婦の作戦かもしれないが、それはそれで。

 カルタとクジャクに、丸薬の中身について話さなければならない事もある。

 いい加減、大掃除をする頃合いだ。


 ――ありがとうございます

   ぜひご一緒させてください


 (こころよ)い返事が貰え安心した。

 さあ、今晩もネズミ捕りと洒落こもう。


 ・

 ・

 ・


 リンカは蛍光灯の照らす部屋で、障子に背を向けて座る。

 

 本来は七郎を部屋に招き入れる、気遣い上手な彼女であるが、そうしなかった。

 

 風呂場で醜態をさらした羞恥心もあったが、理由は別にある。

 心が乱れていた。


 足を滑らせ、気が動転して……。

 無意識に紅蓮の人間として、神経を尖らせるままに触れた墨谷七郎の手。


 未だ自覚は無いが、師とも言えるクジャクを凌駕する潜在能力を持ったリンカである。

 彼女の探知能力は、七郎に触れた手から【愚か者の法衣(ほうえ)】の欺瞞(ぎまん)を、その才能だけで微かに貫くに至ったのだ。


 「(ほんの一瞬、七郎様から感じた姿……あれはいったい、なんだったのでしょうか)」


 リンカが七郎に見たのは、皮の下に隠された黒金剛。

 別次元に強靭で、悲惨な程凶暴な獣の重量に触れた。


 心には、小さく生じた恐れ。


 「あれはきっと、あの方の秘密」


 しかしそう思い至った時、体の芯が暗く煮える。


 わたしだけが知る、七郎様の内側――


 「――やったぁ」


 それを悦びだと自覚した時、闇色の華にいじらしい笑顔が浮かんでいた。


読んでいただき、ありがとうございます。

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