霊園山防衛戦線(4)
魔犬の王は、自分が何故こう成り果てたのか、断片的な記憶しか持っていない。
覚えている一番古い記憶は、首筋を切り裂かれた激痛と体が冷たくなっていく感覚。
多くいる”普通の”とは違う、強い人間の群れにやられた。
切り裂かれた首から下の力が、徐々に溶けていく。
死にもの狂いで走って逃げて、見知らぬ山に迷い込んで。
木々が空を覆う暗い森の中、ついに大きな水たまりの傍で動けなくなる。
傷から血を流し尽くし、そして霞む視界の中で感じた。
水面の奥底から、憎い人間の腕が無数に生えてきて、傷の中に潜り込んでいくのを。
――GUUウウゥHiィィィ
唸りと息の音を漏らし、異形の巨獣は山中異界より歩み出す。
あの日より、頭の中で切れ切れに浮かんでくる覚えのない記憶。
映像というよりは、強烈な感情。
自分は”ナニカ”を探している。体の中で蠢く大きな力に、探すことを望まれている。
その”ナニカ”は獣の生において理解出来ないものであり、それを意識するたびに本能と心がバラバラになり、不快だ。
そうした時は、獣らしく渇きを癒す快感に溺れ、その場を凌げばいい。
だが、いつのまにか勝手に集まった配下共は、いつまでたっても獲物を持ち帰ってこない。
もういい。こちらから喰いに出向こう。
眼前の人間2匹と言わず、そこら中にいる全てを食い殺せば、もっと喉を潤せるはずだ。
魔犬の王はまず、剣を構える銀伽藍と辻京弥をかみ殺すことを決め、明らかに笑みと解る表情を浮かべるのだった。
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「大狂行の元を絶つ」
と、息巻いていた少女は直感的に理解する。
こいつだ。
異形を宿す、魔犬に似た別格の存在。
この怪物を中心にして、魔犬達が嵐のように渦を作っているんだ。
「そっちから来るなら、好都合」
疲労と怖気により息が乱れていることを認めたく無い伽藍は、握る剣への信頼と高揚感で無理に心を塗りつぶす。
構え、重心を落とし、あくまで前に踏み込むつもりの烈剣姫。
だが踏み出す前の少女の眼前に突然、巨獣の顎が開き広がった。
「!?」
驚愕の悲鳴を上げる間もなく、伽藍の体は反射で後ろに跳び下がり命を拾う。
「(どうしてっっ)」
巨獣の体すべてを視界に納め、一挙一動見逃していないはず。ヤツの足は力むことをせず、緩慢に歩を進めているだけだった。
混乱に苛まれている刹那にも、視界を占める牙が追ってくる。
さらに足を動かし、立ち位置を瞬時に変えていく伽藍。
「――ぅ」
彼女は違和感の正体に気付く。
頭だけが、体を置き去りにして追ってきているのだ。
人間の腕が絡まったような首が、悍ましく伸びているのだ。
異様な光景に生理的な嫌悪を感じるが、反撃の為に心に生じた恐れを押さえつける。
顎で地面を削りながら襲う巨大な頭に臆することなく、見据えるのは正面のみ。
屍鬼の時の様な半端な一撃では、きっと通用しないだろう。
自身の持てる全力を込めなければ。
息を吐く。
研ぎ澄ます意識が、刃の切っ先まで冷たく満ちる。
集中。
一閃。
刃の煌めきは吸い込まれるように、異形の顔を大きく切り裂いた。
――!!?!―ギギャあェェェ――
溺れるほどの強大な力を得てから、初めて身に刻まれる痛み。
食事のつもりから一転、予想外の事態。
激昂した魔犬の王は、首と四肢を振り乱す。
魔力に侵されない通常生物としての犬の方がまだ、知性的な行動を起こすのではないか?
取り留めも無い考えが伽藍の脳内に浮かぶほど、異形の巨獣は醜く暴れる。
「斬れる! 伽藍の剣はっ」
――やっぱり、間違ってない!
最年少で二つ名を獲得するほど才気溢れた少女。
烈剣姫。第3世代の魔法使い。
決して彼女は、現在の日本において弱くない。強いのだ。
――墨谷七郎に不覚を取ったのが何かの間違い
「(やっぱりあの男は、良くない力を隠しているんだ)」
自信を取り戻した伽藍は、いっそう墨谷の持つ頑強さへ不信感を強める。
――この巨大な魔犬を片付けて終わりにしよう。
「りゃあああ!」
刀の切っ先まで全力で魔力強化された状態を保ち、暴れる獣の頭上から裂帛の気合と共に刃を振り下ろす。
狙うのは首。巨大な獣を異形たらしめる部位だ。
一刀両断。
刃が腕の集合体に沈み、勢いのまま粘つく泥の感触がするソレを断ち切る。
巨大な首が、音を立てて地面に投げ出された。