悪意の息づかい
山奥、光も届かない森の暗中。巨大な牙が獲物を欲していた。
数え切れない魔犬がひれ伏す中、王の息遣いだけが響く。
酷い臭気だった。水底に溜まるヘドロのような匂いが強烈に漂う。
一軒家ほどある巨体を四足で支えながら、絨毯のように広がる魔犬達を見下ろした。
通常の動物より凶暴性が増しているとはいえ、魔犬にも恐怖心はある。
恐怖の対象は、言わずもがな君臨する巨獣。
ひれ伏す魔犬達に言語を解する知性は無いが、本能で”不可解である”と恐怖していた。
――この王は、我らと同じカタチであったのか?
要は、”本当に自分たちと同じ種の姿なのか、これが?” と、畏怖を込めた不可解を感じているのである。
体は巨大なイヌ科四足肉食獣のソレであるが、前足から先に異形の醜さを集約させている。
鋭利な牙を並べた、臭気を発する大口が頭の大部分を占める。
その頭が、人間の腕の形をした肉が捻じれ絡まり、太い幹となる首で支えられているのだ。
いや、訂正が必要だ。支えられているのでは無い。
獣体の前足の上、人間でいう肩の部分から生えて伸びた無数の腕が、巨大な犬の頭を掴み掲げていると言った方が正しい。
異形の首が弧を書くようにして”ぐにゃり”と伸ばされ、頭が逆さまに獣体の背に置かれる。
奇怪な姿勢のまま獣の口が嗤った。
濁った眼球が、近くに蹲る魔犬の一匹を見る。
魔犬の王は、小腹を満たす為のつまみ食いを始めるのだった。
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「すいませーん。伽藍チャンいるッスかー?」
‘ピンポーン’ とインターホンの音が鳴る。しかし反応が無い。
「伽藍チャーン?」
再度鳴らされるインターホンにも、家内から応答は無かった。
だが庭から足音がする。
「こっちだよ。騒々しい」
「あっ! こんにちわース、竜子さん」
庭いじりでもしていたのだろう。野良着を着た守宮竜子が、インターホンを鳴らす櫻井桜を出迎えた。
「伽藍か?」
「そーっス。…………元気スか?」
先日、夜間巡回から帰還した彼女を出迎えた竜子は、伽藍の真っ青な顔を見て驚いたものだ。
それから伽藍は食事もあまり摂らず、貸し与えた一室に籠っている。
「すまんが、中に入ってあの娘の顔を見てくれるか。気落ちしててな」
「その為に来たッス!」
桜は一点の曇りのない笑顔で竜子の願いに応える。
竜子も、世話している娘に見舞いに来る友達が居ることを、他人事でなく嬉しく思った。
ひとりで住み暮らすには広すぎる日本邸宅の廊下を、竜子の案内で歩く。
廊下と外を仕切るガラス戸から、趣味の良い植木や鉢植えのある庭園を見ることが出来た。床板も掃除が行き届き、鏡のように光っている。
「で、なにがあった? 屍鬼を斃したことまでは、聞き及んでいるが……」
「あー……ちょっと、ッスねぇ」
―― 同行してた墨谷サンと、ひと悶着あって……
簡潔に原因であろう事柄について述べると、竜子は怪訝な顔をする。
「あやつが……? 女子に傷をつける男では無いと思うが……」
竜子も伽藍自身が何も話さないので、ことのあらましを知れていない。
だが事情を知る年ごろの近い娘が訪ねてきた。
「(伽藍も、これで気を持ち直してくれるとよいが……)」
廊下の突き当り。曇りガラスがはめ込まれた木戸で締め切られている部屋。
木戸の前で竜子は立ち止まる。どうやらこの部屋のようだ。
「おい、客が来たぞ」
――……え?
部屋の中から、力ない声が聞こえる。
「遊びに来たッスよー」
桜が部屋の外から声をかけると、ゆっくりと引き戸に隙間が空く。
中から覗く細い指と、憔悴が窺える端正な顔。
「……来たの?」
烈剣姫、銀伽藍が弱弱しく桜を出迎えたのだった。
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部屋の中には伽藍と桜の2人。
畳張りの8畳間。部屋の中心にはちゃぶ台が置かれ、そこへ2人は互いを斜めに見る位置で座っている。
数日前に与えられた借り部屋の為、伽藍の私物らしい私物は畳に置かれる刀のみ。
簡素な和室だ。
部屋の隅に‘ちょこん’と三つ折りに畳まれた布団が、言いようのない可愛らしさを桜に感じさせる。
――茶を入れてくる
そう言って竜子は席を外した。
なんとなく気まずさを感じる2人に、言葉は無い。
だがやはり、沈黙を破ったのは元気印の櫻井桜。
「……伽藍チャン!」
「う……ん」
「聞きたいことが、あるッス」
「な、なに?」
間違いなく先日の、自身の醜態についてだろう。
桜に声もかけず、屍鬼の墓から逃げ出した理由を問われるのだろう。
でも気持ちの整理がつかない。
「(伽藍の剣に込めた、想い)」
それを信じられなくなった。
幼い頃、本当の父に刻み込まれた正しくある為の教え。
絶対の教えを自分自身で穢したのだ。
信じて修練を積み上げてきた剣も屍鬼に通じず、心にあった白刃が曇っていくよう。
「(なにを、話せば……)」
スカートを無意識に握りしめる。
気づけば、櫻井桜は座ったままスリスリと、三つ折り布団の前に移動していた。
堂々巡りしていた伽藍の頭が一旦停まる。
「……?」
「伽藍チャン、この布団で寝てるんスね?」
「え……は?」
「答えてほしいッス!」
「いや……そう、だけど。その布団を借りてる」
答えを聞くやいなや、桜は置かれた枕と布団を抱きしめ、勢いよく顔を埋めだした。
頬ずりまでしている。
――すぅーーふぅーー
「伽藍チャンの良いにおい~」
「何してるのよ!?」
「トリートメント何使ってるんスか~?」
「まず、布団を離して」
急に弛緩する室内の空気。桜を布団から引きはがそうとする伽藍。
そのタイミングで竜子が湯呑を3つ盆に乗せ戻ってきた。
「なんだいこりゃ」
呆れながらも、少し活力が戻った様子の伽藍に竜子は笑みを浮かべていた。