無垢への代償(1)
見つからないで。お願い。お願いっ。お願いっ!
いやよ、あんな怖い魔物に食べられるなんて。絶対いや! 死にたくないっっ。
足が震えて、擦れる靴底が音を出す。汚くて壊れたお家に隠れて、窓の隙間から外を見た。
「(こ、こんなブレスレット役に立たない! 食べられて、死んじゃって終わりよっ)」
手に持つ大きな宝石がはめ込まれたブレスレットを、シクルナは憎々し気ににらみつけた。
このブレスレットは強力な防御魔法が組み込まれている魔道具の一種。それも貴族にしか手が出ないような高額の品である。
「怖いぃぃぃ。早く助けにきてよカツヤぁ」
――マリアなんかより、ノルン神教の女神さまをひとは信じるべきなのよ
自信の源は枢機卿の娘である自分に、女神から与えられたはずの信仰の力。おまけに父親から送られたいくつかの魔道具。
民とは違う、特別な生まれの特別な力。父親とロームモンドに言い聞かせられてきた話を信じ、自分が真理愛より偉い存在なのだと証明する。
「(だって、そうしないと……お父様も、ロームモンドも、同じ目でわたしを見る)」
よくわからないけど、とっても嫌な目。冷たくて、物でも見るかのような。
「カツヤはちゃんと心配してくれるのに」
打算、利用、出世欲。幼い少女は現実を知らないまでも、そういった大人の汚い部分を無意識に感じ取っていた。それでも少女にとっては頼るべき大人達。
だからシクルナは怖かった。大人たちが、そして父親がよく口に出す“聖女”という肩書で崇められている真理愛の事が。自分の価値や居場所を脅かされているようで。
思い立ったらじっとしていられなくて、部屋を抜け出し走った。そこかしこの割れたガラスに、白く淡いわたしの姿が映りこむ。光って見えるのは、守りの魔法がかかったお気に入りのドレスのせい。ひざ下までのスカートが走る勢いで膨らむ。
わたしが、マリアにも出来ない事を……一人で魔物を追い払えば、きっとわたしこそ聖女と気づくはずなの。
そんな思いで飛び出したシクルナであったが、すぐにその軽率さを後悔することになる。
“ぶうぅぅん”と、覚えのある音を聞いてすぐに足がすくんだ。恐ろしい音、夜になった最初の日に、クルマの中で蹲りながら聞いた音。
目をつぶっていたから見てないけれど、耳を手で塞いでも聞こえてくる羽の震え。怖いのをかき消そうと、思いっきり叫んだのを覚えてる。
何も考えずあの時みたいに耳と目をふさごうとしたけど、少し遅かった。
目の前に飛んでいたのは鎧を着た蟲。細い足を6本、素早くガバリと広げて虫の裏側が近づく。
爪が体に触れないのは、ブレスレットが展開した魔法障壁のおかげ。それでも視界すべてを埋める気色悪さと、障壁に入ったヒビにより数舜遅れて腑に落ちた死の恐怖が、シクルナの正気をいよいよ削る。
――い、やああああああああああ
無我夢中で走り建物に逃げ込んだ少女。飛び出した興奮も忘れ、心を蝕むひどい怯え。
ふと上を見る。崩壊の酷い屋根の一部、外の夜闇が覗く大穴から、獲物を求める蟲の大あごが蠢いていた。
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左手に盾を、右手に剣を。強化された足で地を蹴り速度を生む。
セギンとダンは鷲獅子に跨り、愛魚はダンの後ろにしがみつく。俺はその後を全力で追う形だ。
鋼城もすぐ隣に駆けてくる。
どこだあの子は?
「もう安全区域を出る。子供の足だ、来れてもこの辺りまでだろっ」
「! 止マレ、スキルーク!」
先行していたセギンがスキルークを止めた。何か手掛かりを見つけたのかと思ったが、そうではない。
俺達が向こうの存在に気づいたように、あちらも俺達に気づいた。
カチカチと固い甲殻が触れ合う音が、複眼の視線をより一層不気味にさせる。建物の屋根の上に取りついていたのは一匹の騎士蜂。
全身の外骨格がこすり合い、鳴き声に似た威嚇音が劈く。
「やだあああああっっ。どっかいってよおおおお」
「っ! シクルナちゃんはあの建物だよダン」
「助けナケレバ」
「引き付けル! ダンは少女を救エ」
鷲獅子は走り出し、騎士蜂は飛翔。腹先の針剣を突き出し高速のダーツと化した。狙われたセギンは手綱を駆使し、紙一重で回避する。
跳躍の届かない高さに舞う鉄製の毒蟲に、俺は歯嚙みして睨みつけるほかない。
「くそ、俺も弓矢を持ってくるんだった」
「使えるのか墨谷?」
「愛魚ちゃんに教わったが……当てる自信は無い」
鉄工所で愛魚愛用の競技弓【愛魚スペシャル】を参考にして弓矢作成に試行錯誤しながら、撃ち方の基本も習った。
お世辞にも上手いとは言えないが……。飛距離は出るんだ、飛距離は。的に当たらないだけで。
「でも、もう大丈夫なはずだ。ヤツらは不利な状況で深追いしない。」
「……イヤ、妙ダ」
暗い中、ぎりぎり見える距離にホバリングする巨大蜂。羽音以外の音が聞こえる、飛び立つ前の威嚇音に似た響きだ。
一匹は突然動き速度を上げ、俺達を中心として空に大きな円を描く。
再び制止する時には恐ろしい羽音が3つ重なっていた。頭をこちらに向け、腹の針剣を構えて一糸乱れぬ姿勢を維持。
生物とは思えない、機械のように統率された動き。そのまま3つの重刺剣は、一列同時に強襲してきたのだ。
「うあああっ」
「グムッ!」
3匹の突撃は地面のコンクリートを砕き、3本の破壊線を残す。鷲獅子スキルークに乗ったセギンは回避するが、鋼城は余波で吹き飛ぶ形となる。
整列から空中散開、無秩序に見える乱飛行、緩急も激しく飛翔し急速降下して襲い掛かってくる。
「ヤツラあきらめない!? いつもは一撃離脱で消えるのにっ」
騎士蜂に集団で襲われるのは、逢禍暮市に閉じ込められた初日以来。
ダメだ、セギンの魔法詠唱を援護できる隙が無い。あれじゃ“斬波”も届かないし当てられない。俺みたいな近接攻撃主体の人間にとって、飛べる魔物は相性が悪すぎる。
「やだやだ獣牙種なんて嫌い!! 触らないでっ、やだぁっ」
「大丈夫、助けに来たんだよ。落ち着いて」
だが運良くシクルナは発見できたようだ、ダンの腕の中で暴れているが保護完了。愛魚が何とか抑えながら鷲獅子に飛び乗るところ。
よし、あとは安全区域まで逃げるだけ! 愛魚の弓があれば牽制して隙が作れる。
「引くゾ、ダン」
「ハッ」
愛魚の速射に合わせ全員が走り出す。なおも追ってくる騎士蜂の攻撃を掻い潜るが、少しもしないうちに足を止める事となった。
蜂が一匹、前方に先回りしている。それも通常の騎士蜂には無い異様な点が一つ。超高速で羽ばたく薄羽が、青く光っているのだ。